JAPAN-GEOGRAPHIC.TV

埼玉県桶川市 
Okegawa city,Saitama


Category
Rating
Comment
General
 
Nature
 
Water
 
Flower
 
Culture
 
Facility
 
Food
 

Jan.2015 柚原君子

中山道第6宿 桶川宿

JR北上尾駅→雷電神社→下の木戸跡碑(江戸寄り)→武村旅館→浄念寺→JR桶川駅→宿場館→稲荷神社→大雲寺→上の木戸碑(京都寄り)→JR桶川駅

桶川宿概要
中山道第6宿桶川宿は1635(寛永12)年に設置されています。
歴史的背景では大坂夏の陣で豊臣秀吉が亡くなった20年後、徳川家康が江戸を開いて30年後の次の征夷大将軍・徳川家光の時代になった頃、そして参勤交代が確立し、長崎の出島が完成した頃となります。
当初は宿内軒数58軒でしたが、当時、一反から取れるお米の倍の値段がついた紅花の産地であったことと、河川を使っての食料の調達通路に恵まれていたことから、桶川宿はどんどん発展をしていきます。
1843(天保14)年の道中奉行による調べでは宿内人口1442人、町並9町半(約1km)宿内家数347軒、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠36軒という記録になっています。
現在は本陣(個人所有、府川家)が一部そのままの形で残されていますが、年一度の秋の公開のみで常時は非公開。
旅籠は有形文化財として、当時の間取りを残したまま、ビジネス旅館・武村旅館として残っています。
また本陣のあった辺りには蔵のある商家や国指定の登録文化財である「旧 旅籠小林家」が現存するなど宿場時代の面影が多く残っています。
「桶川」の地名由来は諸説あるそうです。「沖側説」ではオキを畑の側として「オキガワ」説。「水源説」では芝川、鴨川の水源があることから「起きる川」として「オキガワ」の説。
「オケガワ」として初めての文献登場は1352(観応3)年で「武蔵野国安達郡桶皮郷内菅谷村」(足利尊氏の下文……家臣に宛てた文)があるそうです。
桶川は紅花がもたらす富によって遠方の商人も集まり、それに伴って文化ももたらされています。
「桶川祇園祭」の山車の引きまわしは京都から、祭囃子は江戸から取り入れて桶川で独自に発展した行事です。
冠婚葬祭には手打ちうどんを振舞う習慣があったところから、現在でも街道筋に数軒のうどん屋さんが目立ちます。



1、北上尾駅から桶川宿風景
北上尾駅を出発して10分ほど大宮方面に戻ると雷電神社があります。中山道からは少し奥まったところ。すぐ隣をJR高崎線が走っています。社殿は新しく狛犬は台湾製とのことでした。本来は鴻巣宿にあったものですが(鴻巣駅近くの鴻神社・神社前のバス停に雷電神社前という記名が未だ残っています)、北上尾に移転されてきました。街道に戻り暫く行くと庚申供養塔があります。庚申塚とか庚申塔とか言いますがこれは庚申塔を建てるときに供養をしたからだそうで、供養塔と刻まれています。
街道筋には間口四間もある明らかに昔の家などが何の説明も無く平成の暮らしの中に紛れ込んで建っています。家の奥に土蔵を持っている家屋なども多く見られて、桶川宿は中山道の風情を満喫することができます。
桶川宿の入り口を示す木戸碑の跡を見ながら、交差点脇の一般住宅の屋根に上がっている鍾馗様に見降ろされながら、紅花の郷と記された紅花入りのマンホールのふたを横目に歩いていくと、桶川駅に入る交差点の手前に武村旅館(有形文化財・※1)が見えてきます。


2、武村旅館
国登録有形文化財(※1)
所在地:埼玉県桶川市南1丁目8-8
江戸時代末期創業の旅籠で、1811(文久元年)年皇女和宮が中山道を下向したときに、紙屋半次郎が旅籠を営んでいたという史実があります。当時の間取りを残したまま現在もビジネス旅館として営業中です。
直木賞作家の安藤鶴夫が一時期の三年間を、妻の実家である桶川市で過ごし、この武村旅館を書斎にして、桶川(当時は寒川町)を舞台とした小説『不二』を発表したという説明も埼玉文学館にありました。
後ほど立ち寄ることになる桶川宿観光案内所のお話では、泊まらなくともお願いすれば中を見せていただける、ということでした。 現在はビジネス旅館とは言うものの、近在の方々が珍しいからと親戚を泊めたりするのに利用していることも多いということでした。武村旅館の「武」の字に勢いがあってしばし眺めました。
武村旅館の先にも昭和の面影を残したお店が続きます。
『どじょういます』『正月用焼タイあります』の貼紙のある鮮魚、稲葉屋本店です。二階など波打っているように見えます。戦災で焼けなかったので桶川には古い家が多くみられます。稲葉屋本店の向かいの桶川名物、紅花まんじゅう屋さんの看板の出ているお店も古い家屋です。二階の竹の模様のガラス窓も古風なものでした。
少し歩くと、左手奥に朱色の仁王門。常念寺です。

※1
有形文化財について
【有形文化財とは、建造物、工芸品、彫刻、書跡、典籍、古文書、考古資料、歴史資料などの有形の文化的所産で、我が国にとって歴史上、芸術上、学術上価値の高いものを総称して「有形文化財」と呼ぶ。有形文化財のうち、重要なものを「重要文化財」に指定し、さらに世界文化の見地から特に価値の高いものを「国宝」に指定して保護を図っている。なお登録有形文化財とは指定制度を補完するものとして「登録」制度が創設されたので、国や地方公共団体の指定を受けていないものに限られる。登録有形文化財として登録された後、国または地方公共団体の文化財として指定を受けた場合は、登録有形文化財としての登録は抹消される。】(文化庁HPより抜粋)

3、常念寺
所在地:埼玉県桶川市南1丁目
武村旅館から少し歩くと左手奥に朱色の仁王門がみえます。常念寺です。
正式名称は「清水山報恩院常念寺」。江戸時代初頭に桶川宿を治めた西尾隠岐守吉次により、地蔵菩薩像(本堂に現存)と薬師如来像(納められてた石塔のみ現存)が奉納された記録が残っています。
朱色の仁王門は1701(元禄2)年に再建されたもの。梵鐘は戦争期の供出によって古いものは失われています。現在の梵鐘は昭和40年鋳造。楼門の下に1768(明和5)年に開眼された仁王像があります。口をあけていらっしゃる方が阿形像、口を閉じていらっしゃる方が吽形像、阿吽(あうん)の呼吸というように用いられる形が仁王様の口ということですね。神社の狛犬も片方が阿で片方が吽となります。
境内には1315(正和4)年〜1550(天文19)年の間に死者の追善供養や自らの極楽浄土行きを願って立てられた緑泥片石を利用した板石塔婆が9本あります。 

常念寺を出るとすぐに桶川駅。中山道宿場を大切に整備している様子が町の辻の案内板にも見て取れます。桶川駅に入って行く商店街はどこか懐かしい昭和の雰囲気を出しています。駅前の一般住宅にたくさんの昔の色紙が貼ってありましたので、撮らせていただきました。ついでに不動産屋さん物件も。一戸建てで六畳、四畳半、バストイレ付きで47000円。桶川駅から10分。ふ〜ん。そうなんだ。

4、島村老茶舗
島村老茶舗は1854(嘉永7)年創業の店です。今から160年ほど前と言えば、京都御所が全焼して下田が開港されてそして安政東海地震や安政南海地震が連続して発生した年です。ちなみにお茶屋さんではなく「老茶」とあるので余談ながらお茶の種類わけを記してみます。お茶の葉は摘み取られた後に発酵を始めますが、発酵段階によって種類わけされます。発酵がほとんどされないものが緑茶。緑茶を炒ったものがほうじ茶。途中まで発酵が行われたものが烏龍茶。完全発酵が紅茶となります。老茶はこの発酵を途中で一度とめて、その後黒麹菌によってさらに再発酵させたものです。分類としては 後発酵茶や黒茶などと呼ばれて高級の部類に入ります。現在も営業中の島村老茶舗。建物は優しい感じです。見れば見るほど中山道の宿場の賑わいが想像できるような店舗です。



5、嶋村家住宅土蔵(国登録有形文化財)
所在地:埼玉県桶川市寿2丁目1-4
江戸時代後期の1836(天保7)年に建てられた、桁行6間、梁間3間の木造総三階建ての土蔵です。観音開きの扉口があり、外部は黒漆喰壁保護のためにトタンを被せています。別名「お助け蔵」。蔵の建てられた天保7年は全国的に凶作の年。米価が沸騰し、各地に百姓一揆が起こった年だったため、ここに三階建て蔵を建てて飢饉に苦しむ人々に仕事を与えたことから、「お助け蔵」と言い伝えられるようになったそうです。1893(明治26)年の川越大火にも焼け残った貴重な蔵です。
三階建ての土蔵は江戸初期には禁止されていたため、江戸時代に建設された土蔵としては非常に貴重なものになります。月1回(第1土曜日)100円料金で一般公開中です。蔵内には太い梁や渋沢栄一謹書の勅語、享保人形などのほか、江戸時代の生活道具が良好の状態であるそうです。
嶋村家は屋号を「木嶋屋総本家」と呼ばれて材木や白縞を売買していた問屋です。鬼板には屋号の「○の中に木」が刻まれています。五代目の源右衛門が木嶋屋を繁栄させたようで、この頃から穀物問屋、及び桶川特産の紅花の取引で財を成していったそうです。撮影時のカメラがロング一本だったので全景を撮るのが難しく、樹齢170年のギンモクセイともどもレンズ枠内におさめられませんでした。ちょっと心残りです。

6、旧旅籠 小林家
国登録有形文化財。
所在地:桶川市寿1-14-11
矢部家の向かい側にあります。桶川市教育委員会の説明立て札より要約すると下記の様になります。
「江戸末期頃に旅籠として建てられましたが、その後小林家は材木商を営んだため大きく改築されましたので、旅籠当時の間取りは図面に残っているのみです。二階は中廊下式になっており、旅籠当時の部屋割りの名残と考えられます。外観は当時の姿が保たれていて宿の旅籠のたたずまいを今にとどめる貴重な建造物となっています。文久元年(1861)の和宮御下向の割書上には吉右衛門の名が記されており、その「吉」の名は 主屋の鬼板に刻まれています。構造の要となっているのは、二間半の幅で2本建てられた大黒柱です。屋根を支える小屋組は和小屋構造(筆者注:和小屋構造とは日本式の屋根を支える構造のこと。垂直部材である小屋裏の束と、水平部材の母屋で構成された日本式の構造のこと。和小屋にあっては、桁から桁へかける梁は繋ぐことはできず、1本物である……建築用語集より)といわれる伝統的なものです。太く丈夫な部材を使用しています。建物正面の二階には六間にわたって出窓に格子戸がはめこまれています」。
現在は材木商と喫茶店を営業中。二階の格子窓の長さが旅籠らしい感じを残しています。

7、穀物問屋 矢部家
所在地:桶川市寿2-1-10
桶川市指定有形文化財
矢部家は、中山道に面した土蔵造りの「店蔵」とその奥へ続く塗屋造りの「住居部」と土蔵造りの「文庫蔵」、切妻造りの勝手場などの建物で構成されます。木半の屋号ですので、丸に木の字が刻まれた鬼瓦が上がっています。桶川宿に現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみで、非常に貴重な建造物です。店蔵は矢部家第6代当主矢部五三郎氏によって1905(明治38)年に建てられ、 棟札には、川越の「亀屋」建築に係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶、石工らが名を連ねています。
矢部家は木半の屋号を持つ穀物問屋。紅花の商いも行い、後ほど訪れる稲荷神社境内に残る石灯籠「紅花商人寄進の石燈籠」(市指定文化財)にも名が刻まれています。
店蔵の奥に文庫蔵がありますが、この土蔵は店蔵よりもさらに古く明治17年に建てられてます。屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ています。「烏」または「烏おどし」とも呼ばれる鳥よけです。
今後、中山道を京都のほうに登って行く塩尻宿の国の重要文化財である堀内家住宅の大屋根にもこの鳥よけ(雀踊り、という名称)があるそうですので、出会えるのが楽しみです。


8、本陣 
埼玉県指定文化財
所在地:桶川市寿2-2-4
本陣の前に「桶川宿本陣遺構」の案内が立っています。本陣とは江戸時代の参勤交代で大名が宿泊する旅籠です。加賀百万石前田家が寝所、15代将軍徳川慶喜の父、水戸藩主徳川斉昭、1843年尾張・紀伊・水戸御三家の休所、泊所として、また1861年には江戸に向かう皇女和宮などが宿泊をした、という記録が残されています。近年には、明治11年、明治天皇がお泊りになっています。本陣は明治初期まで代々府川家がつとめたそうで現在も個人所有です。府川家は越前国の大野城主だった大野秀利が、川越の府川村に住み「府川氏」と改名したのが始まりで、のちに桶川にて、本陣・問屋・名主役を務めています。
本陣の建築内容としては、中山道商店街の出している紹介文が下記のようにあります。
『「薬医門を持つ桶川宿本陣。かつて建坪207坪の規模を誇った本陣のうち、建物は「上段の間」「次の間」「湯殿」が現存しています。建物としては多少特徴があり、平屋だが高さがあり、内部は床から天井までの高さは普通と思われるが、屋根裏が高い。又、床下は外部から見て全て縦に木枠がはめ込まれている。これは、「本陣」という性格上、外部からの攻撃に備えたためといわれている。上段の間の「床の間」の幅は一間だが、奥行きは一尺5寸位と非常に浅い。床の間の奥には万が一のときの非常口が隠されていて、廊下の腰板の一部に細工が施され、ここを開けると外部への脱出口となっている』※年に一度、毎年秋に「桶川本陣・かがり火狂言会」という伝統芸能の公演があり、その時には公開されるそうです。訪問した時は非公開でしたので、桶川市観光協会より本陣の写真を借用しました。(http://www.okekan.com/sightseeing/center.html
ちなみに脇本陣は現存せず位置的には中山道宿場館と本陣の隣の民家のある場所だったそうです。


9、宿場館
桶川宿が保存に力を入れていることが良くわかります。桶川宿の成り立ちが詳しく手書きの写真や文章で展示されています。宿に訪れる方が立ち寄られることも多いそうで、この日も東海道を歩き終えて中仙道を制覇中の方(名古屋の方でした。道中歩きも遠くなるにしたがって交通費が大変と、でも笑顔で嬉しそうでした)、もう一人の方は二つ目の街道歩き中でした。館長さんは気さくな方で、武村旅館さんが内部を頼めばみせてくださることや、どこそこの布団屋のおばあさんが100歳近いので、昔のことを訊きたいならこの人が一番とか、色々お話をされていました。紅花の白い種と道中手形をいただきました。

10、稲荷神社
桶川宿の立派な案内板を通過します。手打ちうどん屋さんがあったり、雀が残り柿をかじったりしている風景の中を進んで行くと右側に稲荷神社があります。
稲荷神社
所在地:桶川市寿2-14-23
稲荷神社には桶川宿周辺で紅花を扱っていた商人たちが、1857(安政4)年に南蔵院不動堂へ 寄進されたとされる2基の石燈籠が拝殿前に今も残っています。その中には矢部家の名前も刻まれています。また、拝殿前には、長さ1.25m、幅0.76m、重さ610Kg、日本一の力石があります。大磐石(だいばんじゃく……大きな岩)と言われて、市指定の文化財となっています。 江戸一番の力持ちと評判の力士 三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたと伝えられています。

11、大雲寺・木戸跡
交差点の前の東和銀行桶川支店の前に「市神社の跡」の碑があります。見落としそうなくらい店舗の景色に同化しています。その先に大雲寺があります。
大雲寺(だいうんじ)
所在地:埼玉県桶川市西1-10-24
本陣当主である府川家の墓と縛られ地蔵があります。山号を龍谷山という曹洞宗の寺院で足立坂東三十三箇所霊場の第2番札所です。
何の案内も無いあっさりとしたお寺さんです。『女郎買い地蔵さんがある』というのですが、そのお地蔵様を探すのにさえ案内はありません。探すのに時間がかかりました。目指すは首の後の鎹(かすがい)です。ありました。三対お並びの一番右のお地蔵様の首のところに錆びた鎹が打ち込んでありました。かわいそうに、という感じです。戒めに鎹を打ち込まれて罪をかぶった冤罪お地蔵様です。(お寺の若い修行僧たちの夜遊びが過ぎるので、大雲寺の和尚さんがお地蔵様の背中にかすがいを打ち込み、鎖で繋いで女郎遊びに出ないように若い修行僧たちの戒めにした、というのが伝説の真実のようです)
大雲寺を出て再び歩きます。歩道橋の脇の家具店奥に赤い煉瓦の家発見。また寄り道です(笑)。昔、造り酒屋だったそうで、赤煉瓦壁は酒蔵の名残のようです。敷地の中央に高さ20b、太さ1b程の大きな煙突が立っていたそうですが、現在の家の周りを歩いてみても見ることはできません。戦後は廃屋だったそうですが、その後、細田農機の所有となって整地され、さらに細田家具店が建てられて、現在は、細田家具店の倉庫として利用されています。歩道橋に登ってもみましたが、全容は撮れませんでした。この赤煉瓦壁に沿って暗渠があるそうです。60年前までは幅1b、深さ1b程の堀となっていて、泥鰌や蛙が住んでいたそうです。国道をまたいでその先も細い道が続いているので、暗渠なのかしらと眺めました。
そろそろ桶川宿が終わります。木戸跡のある向かい側にうどん屋さん。明治24年創業の「今福屋」さん。価格・ボリューム・味の三拍子揃ったうどん、そばが食べられる店として中山道でも有名な店だそうです。
桶川市役所の交差点を直進すると北本で次の鴻巣宿にいたるのですが、今回はここまでにして桶川駅に戻り帰宅しました。




All rights reserved 無断転用禁止 通信員募集中