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埼玉県さいたま市 浦和
Urawa,saitama city,Saitama

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May.2014 柚原君子

中山道:第3宿「浦和宿」

1、北戸田駅から焼米坂まで

日本橋から1の板橋宿、2の蕨宿は自宅から近いこともあって自転車で出かけての撮影でしたが、さすがに浦和まで自転車で行く気力はなく、電車を使いました。
辻の一里塚碑を写真に収めてから歩きたかったので、まずは埼京線の北戸田駅に降りました。
スマホの地図で旧中山道の位置を確かめながら外環の脇の辻の一里塚に着きました。
上に外環、下には地下にもぐっていく道路と車が見える、とても近代的な所に辻の一里塚はありました。
昔の旅人が見たら目を回しそうです。
車が走行するのを仕切るようにある辻を渡って浦和の方角を目指してテクテクテクテク歩くことにします。
旧街道の名残は曲がりくねった道のみ。
ところどころに昔の家の様子はありますが、街道の面影はほとんどありません。
国道17号を横断して「焼米坂」と呼ばれる上り坂に到達。
しかし、昔の人の健脚ですね。私はもうここらあたりで足が痛くなりました。
焼米坂の後には小学校がありました。ツツジ、紫陽花がきれいに咲いていました。
蕨宿と浦和宿は京に上る人たちにとっては江戸前のうなぎの食い収めの宿だそうです。
埼玉県別所沼で捕れたうなぎが食されたそうです。うなぎの看板はいまでもけっこうありました。焼米坂から先が浦和宿とのことです。

※参考資料
■【焼米坂は別名、浦和坂。中山道を江戸から荒川を渡ってくると最初に出合う坂で、この坂を上りきると浦和宿になる。江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』の「根岸村」の項に、「焼米坂、 村の北の街道の内にあり、上り一町半許の坂なり、此所にて古来より焼米をひさぐ故に名づけり」とあり、江戸時代、中山道を通る旅人に“焼米”を売る店があり、それが名物となり名付けられたとされている。『江戸名所図会』には“名物新やき米”の看板を掲げた茶店を見ることができる】
「『目で見る浦和の100年』 郷土出版社 p34 (大正初期の焼米坂の写真掲載あり)。

■【当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。 これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。 旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上(のぼ)ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている】参考資料……ウィキペディア




2、焼米坂〜調神社を経て浦和宿

咲き初めた葵や様々な色の紫陽花を見ながら暫く歩くと材木商を営んでいた関本屋に出ます。建物は大正5年に建てられたもの。屋号のある軒丸瓦に往時の賑わいがしのばれる、と看板にあります。店先の井戸は関東大震災や東京大空襲で逃げてきた人々の喉を潤し、お助け井戸と呼ばれたそうです。お助け井戸の脇を、偶然にしてびっくりですが、救急車が走って行きました。さらに北上すると「調神社」(つき神社)という鳥居のない、狛犬の無い神社があります。鳥居がないのでしめ縄は木と木の間にかかり、狛犬の代わりにウサギがいるという何とも珍しい神社です。「調神社」(つき神社)の名前由来は、伊勢神宮に届ける「御調」(みつぎもの)が集まる倉庫群があったところからきているそうです。神社にあって当然の狛犬が狛兎になているのは「調」つき、からとか(月→兎)。けったいなぁ、と思ってしまいましたが、神社の歴史は1800年あるとのこと。有形文化財の旧本殿は改築中とのことで写真には納められませんでした。



調神社を出ると前方は駅前のビル群。「浦和宿碑」の石柱も新しく街道の面影はやはりありません。街そのものも宿場として気合を入れる雰囲気もないようです。実際に浦和宿は上・中・下の三町でなりたってはいたものの旅籠は15件と小さな宿場だったようです。歴史的産物が残っていないというよりも、宿場として栄えたのではなく、市場でにぎわったという歴史を持っているので仕方がないかな、というところのようです。


玉蔵院
門前通りと明示された石柱の所を入ると玉蔵院があります。本堂の石庭もきれいですが、枝垂桜?をくぐっていくと安永9年(1780)建立の県指定の文化財「地蔵堂」があります。地蔵堂と呼ぶには想像以上に大きな建物です。「浦和宿本陣跡」に向かっているはずでしたが、本陣跡のある仲町公園の案内が何もなく、野菜を売る少女の象のあるところまで歩いてしまい、あれあれ?と戻りました。交差点より一本目の路地を入ったところにありましたが、幼稚園のお迎えのお母さん方でごった返し中!園児たちの顔を入れないように史跡の写真だけ撮りました。再び野菜を売る「農婦の像」と市場通り説明碑に向かいます。市場があった場所は農婦の像から少し先の慈恵稲荷社頭で「ニ・七市場跡標柱」と「御免市場之杭」が残されています。解説板には「戦国時代に開設されたものと考えられ、豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論などを禁じた「禁制」が出されている。毎月二と七の日に開かれたので二・七市場と言われた」とあります。この市場は昭和初期まで続いたそうです。 

足がパンパン。もう歩きたくない。昔の人は偉かった!と思いながら頑張る。北浦和駅に到着。「ここで終わりにして帰ろう心」がムクムクと湧き出たが、とにかく頑張ることにする。「廓信寺」到着。「さつまいもの女王・紅赤の発祥地」と記された説明板が。
「金時」(紅赤)を発見した農家の主婦 山田いち が墓地に眠っているそう。板碑もあるとのこと。どこどこ?と探したら、堂の中に入れられて鍵が!カメラを接着させて何とか撮影。斜めっているけど仕方がない……。
諦めないで歩いてよかった!と思ったのは「一本杉」と刻まれた質素な石碑が立っているのを発見したこと。何とここは日本最後の仇討があったところと説明版にあります。江戸末期の文久4年、杉の大木が1本あったそうで、その下で、父を討たれた水戸家臣宮元鹿太郎が助太刀に助けられて、千葉周作門下の河西祐之助を討ち果たした場所である、と書かれてあります。浦和宿は公の案内書物は街では見かけませんでしたが、歩いてみると昔の旅人の気持ちに少し触れることができました。



浦和宿最後の撮影は「庚申塔」です。正徳四年(1714)建立の針ケ谷の庚申塔が祠に納まっています、青面金剛像、邪鬼、三猿が浮き彫りにされています。
与野駅はもうすぐです。足はほぼ引きずり状態(笑)。街道の道すじの低い塀の中から初夏の実ラズベリーがこぼれ出ていました。深い赤色できれいでした。与野駅前のスーパーで紅東を撮影して浦和宿を終了しました。


 

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