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滋賀県愛荘町 金剛寺野古墳群

Kongojino kofungun,Aisho town,Shiga

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Mar.2014 中山辰夫

愛荘町上蚊野・蚊野外金剛寺野古墳群のある愛荘町は、泰荘町と愛知川町が合併してできた町で、特に旧秦荘町は、農業を基盤とし、東部丘陵地に本堂が国宝指定の金剛輪寺や金剛寺野古墳群があり、優れた歴史を備え、宇曾川源流がもたらす自然が豊富な地域である。

愛知川も旧中山道の宿場町であった頃からの名残を今に留めている。付近地図と宇曾川

金剛寺野古墳群は、宇曾川に接する右岸の平地部に、東西1.8㎞、南北0.5kmにわたって群集する大古墳群である。

戦前には298基の古墳からなる群集墳であった。西方の蚊野外古墳群(かのとの)196基と東方の高位部にある上蚊野古墳群102基に分けて把握されてきたが、現在では両者合わせて金剛寺野古墳群と称している。

終戦当時は、茶碗を逆さまにしたような円墳が隙間なく密集して並んでいた。残念なことに戦後の開拓により大部分が削平されてしまった。

古代の当地域の最大の特徴は新羅系渡来氏族秦氏の集団的居住で、東部山麓周辺に多く残っていた未開拓地に先進的な土木・灌漑技術で開発を行い定着していった。

依知秦公は愛知川流域で大きな勢力を持ち、湖東の秦氏一族(朴市秦、依智秦、など)の中心に立った。この金剛上蚊野古墳群は、秦氏一族の墳墓とされる。

『近江愛智郡志』掲載の見取り図と航空写真

農地化された状況 大小様々な円墳が隙間なく密集していた。

依智秦の里古墳公園

案内

古墳の見える風景

1976(昭和51年)と翌年の圃場整備事業に伴い8基が調査された。

階段構造の特徴的な横口式石室が混在し、渡来文化との関係も指摘される。

古墳公園内の古墳は、たぬき塚古墳、こおもり古墳、百塚古墳に代表される。

 ■たぬき塚古墳

墳径約16m、現存する高さ約2.3mの竪穴系横口式石室をもつ円墳である。

横口式石室は、死者が葬られる玄室が全長約4m、幅1,6mの両袖式で、これに羨道が付く。玄室の床には直径15cmほどの石が敷き詰めてある。天井石は破壊されていたため復元されたもの。

石室の入り口付近〜羨道部〜石室。 唯一羨道が見える古墳である。

石室は、玄室と羨道の境に約35cmの段差を設けて階段状に構築されているのが特徴。

突起状石材(突起石)

石室の南壁には壁から北西方向に15cmほど突き出た「突起状石材」が検出された。

突起石は、半世紀ほど前からその存在が知られており、当時は肥後(熊本県)に多く分布するとされ、現在では九州北西部、有明海沿岸の5世紀後半から6世紀前半の古墳に集中して存在する。近江でも他で見出されている。

出土品遺物

玄室床面から6世紀後半から7世紀初頭の須恵器杯身・杯蓋・広口壺片・長頸壺、刀子(小刀)や釘などの鉄製品、銀環(耳飾)などが出土している。

■こうもり古墳 横穴式石室で、通路と墳墓が平坦である。

■百塚古墳

群内最大の古墳で、径27m、高さ6mの円墳。通常形態の横穴式石室を主体部とし、この石室には玄室の手前の左手側に幅60cm、高さ45cmの副室を備える。

玄室と羨道がほぼ水平なのでたぬき塚に比べると高さがある。家族墓として追葬を可能にしている。

■■依知秦氏(えちはたし)

渡来系氏族「秦氏」の傍流—依知秦氏

秦氏は古代渡来人の代表とされており、京都太秦の広隆寺を造営したことなどでも有名である。その渡来時期は応神天皇の頃(5世紀)とされ、多数の人民を率いて来朝し、養蚕や機織りの技術を伝えた。その事から、秦氏ハタは、機織りのハタといわれている。依知秦氏—愛知郡—古代朝鮮半島

旧愛知郡愛知川町の畑田廃寺(7世紀末〜11世紀末)からは「秦 秦 秦・・・」と習い書きした木簡が出土している。また、『正倉院文書』には愛知郡の郡領(長官)として20数名の「依知秦公」姓が記されており、依知秦氏が古代の愛知郡に住みつき、大きな力を持っていたことがわかる。

そしてこの愛知郡に、多くの朝鮮半島に由来するものを残している。

例えば、「横口式石室」と呼ばれる特異な墓室を持つ古墳が集中してつくられている。これは、途中の階段を介して、墓室の床面が通路より低くなっている。この構造は、かっての百済国の中心にあたる金羅北道南原草村里古墳群でも著しく集中しており、両地域の関連性が指摘される。

また、古墳のかわりに寺院を作り始めた7世紀後半からは、「湖東式軒瓦」という琵琶湖東岸固有の文様をもつ軒瓦を用いている。国内では近江の湖東地方しか見られないもので、百済で多く出土しており、相互の関連性が指摘される。

依知秦氏は、朝鮮半島との密接な関係を生かしながら、愛知郡の開発を行っていったようである。ちなみに、当地には依知秦氏は来る以前—弥生時代—の集落は見つかっておらず、従って、エチの地は、この依知秦氏によって開拓されたとみなされている。「近江の渡来文化より」

<参考>近江に居住した渡来人

9世紀以前の記録に登場する近江に住む氏族は30%強が渡来氏族という調査結果もあるようで、湖北の伊香郡や湖南の甲賀郡には殆ど住んでいないが、近江のほぼ全域に住んでいたとされる。

大津市の旧滋賀郡南半分や、湖東の愛知郡とその周辺地域には特に多く、滋賀県南部に本拠を持ち、近江各地に勢力を拡大した志賀漢人一族と、愛知郡に大きな勢力を持った依知秦公氏が近江を代表する渡来氏族といわれる。

参考文献≪近江古代史への招待、滋賀県の地名、

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