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滋賀県近江八幡市 桑実寺
Kuwanomidera,omihachiman city,Shiga


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 梅3月上〜中、桜4月上〜中、つつじ・さつき5月上〜6月上、紫陽花6月下〜7月中、紅葉11月上〜中
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近江八幡市安土町桑実寺675 桑実寺本堂 重文 近世以前/寺院 室町前期 室町前期 桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、檜皮葺 19040218


Sep.11 2016 瀧山幸伸 movie

                                                                                                            


Sep.2012 大野木康夫 HD video

2012.8.25撮影 

近江八幡の旧安土町にある桑実寺に行きました。

     

参道入口から本堂前まではおよそ12分でした。

            

本堂(重要文化財)

室町前期の建築
桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、檜皮葺

               




June 2010 撮影: 中山辰夫

近江八幡市安土町桑実寺292
天台宗 西国薬師第46番霊場、近江湖東名刹18番霊場

本尊:薬師如来

繖山(きぬがさやま)に向かって、左側を走るJR東海道線と平行に進む。
山麓近くになって、分起点を左に進めば近江風土の丘、直進すると桑実寺・瓢箪山古墳の掲示がある。
そのまま進むと桑実寺集落に入り、桑実寺の参道・石段となる。

      

桑実寺集落の表参道からは約400m、600数十段の石段を登ることになる。
山門を入ると両側に石垣が続き、各所に石組や石垣が見え、天皇行幸が行われた奈良時代や、足利将軍が滞在したとされる室町時代をしのばせる。
「近江名所図会」にも描かれた多くの坊舎は姿を消したが、記録どおりにその跡が今も残っている。
現在、桑実寺は山門より山頂の城跡及び三角点に至る50町歩の山林境内が国指定の史跡に、桑実寺本堂が国指定の重要文化財である。
自然石を思いのままに積んだ感じの石道は、時には粗っぽく、時には優しく続くが、気楽には登れない。
その代わりに、自然と一体になったすばらしい景観が随所に見られる。
石道を登りつめると正面に、自然の森に包まれているように見える本堂の柔らかな姿が浮かび上がる。歴史の重みを感じる瞬間である。

千年以上の時代を見続けてきた本堂、一時は仮幕府が置かれ政治の中心となり、公家の往来も激しく行われた所、元亀の兵火を免れ、その時々の政権の保護を受け現在に至っている。その歴史には興味が注がれる。
本堂前の道を左に行くと、西国三十三ケ寺の石仏が並ぶ巡礼の道を経て、近江風土記の丘の入口・安土城の溺手口(からめて)へ出る。
また右手石段の道は観音寺城の溺手口で、急坂の山道をたどると観音寺城本丸跡を経て観音正寺に至る。行程は40分ほどである。

                

繖山(きぬがさ・433m)の北西山腹にある桑実寺は、1332年前の白鳳6年(678)に天智天皇の勅願寺院として創建されたと伝わる。
桑実寺の寺号は藤原定恵が中国より桑の木を持ち帰り、この地において日本で最初に養蚕技術を教えたことによるとされる。
山号の繖山(きぬがさやま)も糸へんに散ると書き、カイコから糸を散らしてマユを作り、それが絹糸になることにちなんでつけられたものである。
桑実寺創建に関る伝は、重要文化財 桑実寺縁起絵巻上巻(室町時代)に記されている。(後述の資料 参照)

桑実寺の創建からの歴史は、国宝「桑実寺縁起」に記述されている。後述のレポートを参照願いたい。
ここでは第七世代住職・北川隆啓氏がまとめられた歴史年表を記載する。

白鳳

6

678

桑実寺創建 定恵和尚落慶法要

慶雲

4

707〜

元明天皇行幸・御製歌奉納

天平咸宝

749

朝廷より水田壱百町寄進

貞永

1232

駿河久能寺の僧、弁円・円仁移住

正平

14

1359

寂室禅師来山、留年1ケ年

文明 

15

1483

佐々木氏により三重塔建立 塔婆供養

享禄 

1531

8月より3ケ年足利義晴仮幕府開く

天文

1532

縁起絵巻奉納

元亀

1572

寺領貢租地となる

天正

1577

信により寺領回復・寺院復興

慶長年間

 

 

寺領貢租地となる(1596〜1614)

元禄

1697

縁起絵巻写し奉納

享保

1716

本堂一部修理工事

元文

1737

正覚院廃滅 綾戸に移転

明和

1769

地蔵堂再建

寛政

1793

本堂大修理完成

天保

1837

弁財天堂再建

弘化

1847

手水舎完成

慶応年間

 

 

大師堂大破 取り払い(1865〜1867)

明治

1872

山林境内、一部を除き国有地となる

明治

1875

正寿院焼失 再建

明治

13

1880

三重塔、取り壊し

明治 

29

1896

台風大災害発生

明治

37

1904

本堂国宝指定

明治

40

1907

山林境内回復

明治

43

1910

縁起絵巻国宝指定

大正

2

1913

大師堂再建、経堂となる

昭和

60

1985

本堂解体修理完成

法灯隆盛のころの桑実寺には2院16坊があった。明和7年(1770)教専坊が失火で焼失して以降、天保5年(1835)知教坊も焼失までわずか65年の間に15坊が焼失・壊滅で無くなったのは不思議に思える。(焼失・壊滅年) 
教専坊(1770)、上善坊・善行坊(1771〜1780)、大蔵坊・成就坊(1781〜1788)、大乗坊(1792)、実光坊(1801〜1803)
円昭坊・本教坊・眞性坊(1804〜1817)、徳乗坊・密蔵坊、中之坊(1818〜1829)、詮量坊(1830)、知教坊(1834)

桑実寺へのルートは幾つもある。一つは既に述べた表参道、二つは県立安土城考古博物館より山を登って、石仏の道(巡礼の道)をたどる道、三つは観音寺跡から下ってくる道である。何れもおよそ40分を見込んでいる。
表参道の登り口と石仏の道(巡礼の道)から来た当寺への入山口である。

        

今回は表参道から参詣する。

    

山門
山門前の常夜灯奉納 天保7年(1836)

    

石橋

     

石垣・地蔵堂
地蔵堂は明和6年(1769)11月に再建された。 隆昌を極めていた時期である。子安地蔵尊を祀る。

        

宝泉坊と宿坊と宿坊跡

    

現存している宿坊・正寿院・・・かつて存在した宿坊の配置図

           

本堂
国重要文化財:建造物:指定 明治37(1904):室町前期建立
桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、檜皮葺
久しぶりに接する天台宗独特の風格をもつ社殿である。
薬師堂の名前で、落慶法要は、白鳳6年(678)11月8日に行なわれ、導師は勅令によって、藤原鎌足公の長男定恵和尚が勤めたとある。

                               

 

本堂内部
外陣は正面五間を蔀戸(しとみ)とし、側面は二間とする。内陣は背面中央間以外壁である。

       

大師堂(経堂)
天正4年信長によって建立。明治末期の風水害で大破し、大正2年経堂として再建。現在、定恵和尚尊像、釈迦如来像、聖徳太子像大蔵経418巻が輪蔵に収めてある。

       

鎮守三社
天和元年(1681)建立
スサノオ命写真

   

大国天

       

スサノオ妃

     

三重塔
文明15年(1483)佐々木氏により建立。6月塔婆供養 塔の大きさは九尺四寸。明治13年(1880)取り壊し
その姿は、重要文化財 桑実寺縁起絵巻上巻(室町時代)本堂之図にも描かれている。明治時代まで実在したが、江戸末期の度重なる風水害で大破し、明治13年(1880)解体された。檜造りの塔柱が現在も保存されており再建が待たれる。

   

鐘楼
寛永21年(1644)2月鐘楼建立。鐘工金屋新左衛門尉製作の重量壱百参拾貫の梵鐘奉納。朝夕の刻を知らせる鐘の音が繖山に響いた。
11月鰐口奉納。この鐘は昭和17年太平洋戦争のため召集された。現在の鐘は昭和26年、桑実寺五世山主眞泰大僧正の時代に新調された。

    

収納庫

   

観音寺城跡・観音正寺への登り口

 

足利義晴の仮幕府
足利義晴は、大永元年(1521)第十二代将軍になるが、京都での争乱を鎮定できず各地を転々とする。官位は征夷大将軍権大納言で、近江の佐々木定頼をたよりに享禄4年(1531)8月桑実寺に移住する。
以来3ケ年の間桑実寺を仮幕府とし、幕府奉行を始め数多くの文武官が寺中に分宿し、佐々木定頼、朽木植綱等が警護したとある。
天文3年(1534)6月義晴は近衛尚道の女を迎え台所とした。婚儀は6月8日から10日まで三日間桑実寺で挙げその費用は弐拾貫文と記録されている。

織田信長と桑実寺の関係
信長は、永禄11年(1568)近江侵攻を始める。9月12日鎌倉以来十四代四百年間いた六角佐々木が壊滅する。9月18日信長は桑実寺に美濃にいた足利義昭を桑実寺に迎えた。
義昭は正覚院を陣所とした。信長は桑実寺に約60町の境内地及び四百十五石の水田を与えると共に、荒廃していた堂宇修理再建をしている
天正9年(1581)竹生島参詣中に安土城を留守にして桑実寺に詣でたいた女房衆が処罰された(信長公記)ことは有名である。

桑実寺説明資料 滋賀県教育委員会発行

  

本尊薬師如来坐像(奈良時代)
縁起によれば白鳳の昔、湖水より出現の霊像で奈良時代の作である。
「かま薬師」の俗称があり、瘡(くさ)やできものに霊験があると伝える。
秘仏で30年に一回開帳される。

 

大日如来坐像(室町時代)
文明18年(1483)に三重塔の建立時に新たに彫刻された。

 

開山定恵和尚像
藤原鎌足の長男で中国より桑の木を持ち帰り養蚕を教えた。

 

国重要文化財 桑実寺縁起絵巻(室町時代)指定:明治43年(1910):土佐光茂筆

桑実寺縁起絵巻は天文元年(1532)足利義晴より奉納される。縁起絵巻写しは元禄9年(1696)奉納される。
天文元年(1532)2月、義晴は宮廷絵師土佐光茂に桑実寺縁起絵の製作を命じる。光茂は3ケ月を費やして完成した。
絵巻は桑実寺の創建の由来、及び薬師、日光、月光の本願功徳を説く。
絵巻の最終段は、日光月光二菩薩をはじめ、十二神夜叉大将が各々七千夜叉を従えた図で、都合すれば八万四千十二騎の髄兵ができ将軍義晴が上洛の祈願をこめてこの絵巻を8月17日に桑実寺本堂の薬師如来も戸張の中に奉納した。
江戸時代、崇敬の深かった藩主・市橋長政の協力で、桑実寺縁起絵巻の副本が元禄九年(1696)が作製された。

上巻:阿閉(あべ)皇女・病床之図
桑実寺創建につながる阿閉(あべ)皇女は、慶雲4年(707年)第43代元明天皇として即位され、その後桑実寺へ行幸された。
また、豊浦庄という荘園名は、元明天皇(豊国成姫)が桑実寺に行幸された時船で着かれた浦から取って豊浦庄と名づけられたという。
この荘園は、後色々の曲折はを経るが。信長の近江平定まで存続する。今も豊浦の地名は残っている。

 

下巻:十二神将之図

 

下巻:桑実寺本堂之図

   

桑実寺縁起絵巻説明論文 滋賀県教育委員会発行

     

参考資料《滋賀県教育委員会配布資料、滋賀県の地理、滋賀県の歴史、桑実寺遷史、近江蒲生郡志、他》





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