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滋賀県近江八幡市 安土セミナリオ跡
Azuchi seminario ato,Omihachiman city,Shiga

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Jun.12,2016  中山辰夫


近江八幡市安土町下豊浦小字大臼

JR安土駅付近
織田信長銅像が出迎えるJR安土駅前広場、橋上駅へ切替工事が始まりさらに狭くなった。駅前には安土城を連想させる建物が並ぶが、景観上おさまりが悪い。
        

1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を広める為、鹿児島に上陸。2年間、九州、中国地方を中心に布教活動を続けたが、全国的な布教にはいたらず帰国。その後も布教活動が続き、1582(天正10)年には信者数が15万人程までに達したといわれている。
安土セミナリオは正にその頃建てられた神学校である。

日本最初の神学校である安土セミナリオはJR安土駅から安土城に向かって歩いて10分程の住宅地の中にある。1975(昭和50)年史跡公園となった。
その史跡公園は整備が進む安土城をいつでも仰ぎ見る位置にある。さらに桑実寺や観音寺城のある繖山(きぬがさやま・観音寺山)麓の風土記の丘にも近い。
        
公園設置には、カトリック滋賀県連合会も沿面的に協力。入口の石柱には、白柳誠一大司教の揮毫による文字が刻まれ、説明文が銅版に彫り込まれた。

キリスト教の伝来は1549(天文18)年。まるで異質な文化であった。来日した宣教師たちはキリスト教布教のためにまず、日本人に教育を施すことから始めた。
 
安土の神学校建立に尽力したのはオルガンチノ神父、当時宇留岸伴天連(うるがんばてれん)として知られていたイタリア人の神父である。
オルガンチノは、1566(文禄9)年10月にローマを発ち、1570(元亀元)年九州天草の志岐に上陸。ルイス・フロイス神父と京都で布教活動を行った。
この間に日本の文化や風俗を理解、最初の二年間で、日本の文化や風俗に理解を深め、法華経の講義も受け、日本語による日常会話にも通じ、信徒との話合いや教理も日本語で説明できるようになった。

南蛮寺
京都での活動中、1576(天正4)年には南蛮寺が完成した。南蛮寺は、京都を見下ろす三階建の優美な建物と、碧眼紅毛の外国人神父たちの珍しさにより教会の存在が一躍広く知られた。1587(天正15)年の秀吉による禁教令で南蛮寺は年破却された。(京都市蛸薬師通室町西入ル)
   

妙心寺塔頭・春光院の銅鐘は「南蛮寺鐘」と称し、高さ約60cm、口径約45cm。寺伝によればポルトガル製の鐘で、側面の周囲に太陽の文様の中に十字架とIHSの文字を組み合わせた円文が四方にあって、そのうち一方に1577年(天正5年)の西暦年号が付く。「IHS」はイエス・キリストを意味し、ギリシャ語の「イエス」の最初の3文字、あるいはラテン語の「人類の救い主イエス」の頭文字とされる。京都南蛮寺で使用された。
  

オルガンチノほど日本を愛し、日本のために生きた外人はいないといわれ、日本の国と自分の国との関係を、神の美しい花嫁と自分との関係にたとえ、その切々たる愛情を、ロマンチックな表現で、遥かローマの総会長に書き送ったとされる。
彼の幅広い人間性、稀に見る親日的な日本人観、持ち前の人懐っこさからくる友好的な態度などと、彼の努力が重なって信長との間に友好関係がつくられた。
信長は、オルガンチノが自ら信じる者のために、身命を賭して、水煙万里の異邦にまで来て、その信念を伝えようとしている熱意や誠実さを理解していた。

所在地―オルガンチノ神父は信長から土地をもらう〜湖水の一部を埋め立て造成された。
オルガンチノが安土城を信長の案内で見てまった際に、教会堂の建立許可を請願したとされる。
信長公記、天正8年閏3月16日の条に 『安土御溝の南、新道の北に江をほらせられ田を填めさせ、伴天連(ばてれん)に御屋敷下さる』とある。
    
『その土地は山麓につづく沼を埋め立てた地域にあり、宮殿は目と鼻の間にあって、市街全体に対して、ちょうど開いた扇のかなめの部分に当たるような地点であった。信長はその地に行き、「私はこの会堂が安土を美しく飾るものになるだろうと思う。安土には、是非壮麗な会堂が必要なのだ。』(安土往還記)
   

セミナリオ跡地
       

完成した建物
  
信長は建立許可を与える際に、安土城に見劣りしないものと条件を付けた。 京都から用材を送り、人夫を総動員して1カ月後の1580年6月に竣工した。
この間、信長は幾度も普請の経過を見に来た。信長公記、9年10月7日の条に 『桑実寺より直ちに新町通ご覧じ、伴天連の所へ御立寄、ここにて衙普請の様子仰せ付けられる』とある。城を除いた安土の中で最も立派な建築が短期間に出来上がった。
やや横手に長い三階建の大建築で、三階の大広間ガセミナリオの教室兼生徒の寝室、二階は二十室もある神父の居間、各部屋は襖で仕切られて自在性があった。三方には廊下が廻らされ、設けられた窓からは、一方からは広々とした田圃が、一方からは安土の市街地が見渡せた。一階に茶室と玄関が付いた。
信長も満足して、安土城と同じ青色の瓦で屋根を葺くという特権を与えた。日本各地から多くの人が連日押しかけたとある。京極マリアもその一人だった。

京極マリア
1542(天文11)年頃、近江国の大名・浅井久政の次女として小谷城で生まれる。(浅井長政の姉)
京極高吉に嫁ぎ、子は高次、高知、竜子、他に2人の娘を設ける。
1581(天正9)年、夫・高吉と共に安土城城下でオルガンティノ神父より洗礼を受け、洗礼名としてドンナ・マリアを授かるが、その数日後に高吉は死去する。
マリアは大変信仰心厚く、この後布教活動に力を注いだ他、自らの子供たちにも洗礼を受けさせたといわれている。(朽木宣綱室・マグダレナ)
清瀧寺徳源院
  

生徒募集
日本最初のミッションスクールに入学させようとする親はいなかった。又特別の事情以外に親元に帰れない厳格な全寮制であった。頭髪の問題もあった。
結局以前から幾度も訪れてよく知っている高山右近の家臣の子息8人を選び、安土の祭り見物に誘い、そのまま留めた。彼らの両親には高山右近が説得した。
この8人の中には、後に殉教し日本二十六聖人の一人として世界に知られることになった三木パウロも含まれている。

三木パウロ
   
1564年生まれ。阿波の士族三木半太の子。幼少の頃授洗。セミナリオ卒業後イエズス会に入り布教活動に献身した。秀吉のキリシタン弾圧により大阪で逮捕される。1589年、他の25名と共に長崎西坂の丘でした。1862年法王ピオ9世は26人全員を賢人の位にあげ遺徳を讃えた。

生活と教育
学科は文学と音楽であった。ラテン語を中心にラテン文学と日本文学が並置された。日本文学のテキストとしては「平家物語」が用いられた。学生は文学を通じて諸学問に通じた。
  
安土セミナリオには日本最初のオルガンが設置された。日本に二台あって、有馬のセミナリオにも置かれた。安土は日本で最も早く洋楽の調べが鳴り響いた地である。楽器は他にヴィオラ、フリュート、クラヴォ(ピアノ前身)があった。音楽と並んで体育が重視された。「健全な肉体に健全な精神が宿る」ガセミナリオの根本理念であった。
信長の庇護を受けて、神父たちと信長の交流が続き、信長もセミナリオを再々訪れ、生徒の演奏する音楽に聴きいったという話が残る。

締め
信長の破格の待遇を受けて順調に発展していったセミナリオという画期的な近代教育機関の寿命は、始まって二年ばかり経った日に起こった本能寺の変で、突如として崩壊してしまった。

安土のセミナリオ自体は信長が急死し、オルガンチノ神父以下約30名いた生徒全員の大脱出という出来事で幕を閉じた。
避難先は近江八幡市・沖島であった。苦難が連続し、生命の危険にもさらされたあげく、京都の南蛮寺にたどり着いた。
セミナリオは、やがて始まるキリスト教弾圧の中で、九州に移り、1587(天正15)年には島原有馬と合併し、各地を転々とした後、1614年長崎で廃校となった。
オルガンチノ神父は、長崎の地で病床に臥し、1609(慶長14)年76歳でこの世を去った。安土は僅か2年間であったが、日本近代教育史の幕開けに相応しい充実した日々があった。
しかし、その後の1596年にはスペインが布教活動を植民地化に利用しているのではないか?という噂が流れ豊臣秀吉は石田三成にキリスト教徒の逮捕を命令。26人の宣教師が処刑される。
また、キリスト教は徳川家康にも嫌われ、1612年には禁教令が出された。

何も残らない史跡で、想像を膨らますことも楽しいひとときである。


参考資料≪信長公記、安土往還記、湖国と文学、信長とバテレン、他≫


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