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滋賀県東近江市 ガリ版伝承館(旧堀井家住宅洋館)
Gariban Denshoukan,Higashiomi,Shiga

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Jan.2013 中山辰夫

撮影:Dec.1,2013

滋賀県東近江市蒲生町市子川原676

ガリ版伝承館その内部
全体図

一階
奥にガリ版体験室がある。月に何回か講習が行われる。

二階
ガリ版器材展示・印刷物展示室


印刷機とインキ及び創業以来の解説書「明治27年(1894)年〜大正3年(1914)まで」

館内の展示は、常設展示に加えて、開催中の特別企画展 『草間京平と堀井謄写堂』関連の展示が多い。
企画説明と「草間京平と堀井謄写堂の関係」及び孔版画の説明

青インキのガリ版しか知らない世代の者には、美しい孔版画の作品にビックリである。
昭和4〜5年

昭和7〜11年

昭和25〜27年

昭和28年 美人画

昭和29年 黒船・孔版文化情報・他

平成8年 ワークショック



伝承館内部展示

≪参考≫滋賀の遺産::堀井父子とガリ版≫

■■懐かしいガリ版一式

ガリ版。鉄筆を持ち、ヤスリに向かい、日本生まれの原紙にガリガリと書く。これがガリ版の原点。学級新聞が目の前に浮かび上がる。
少なくとも昭和15年生まれ以前の人は、「ガリ版」について何らかの記憶を各人お持ちと断言?出来る。それほど便利で、重要な手段として身近にあった。
今では忘却のかなたに押しやられた、遠い存在になってしまったが、最近、「新ガリ版ネットワーク通信」という冊子を目にした。
「ガリバー伝承館」ともタイアップして、ガリ版情報の収集や広報を行い、ガリ版文化の足跡を将来に残す動きを細々と展開されている。
ネットワーク通信は、平成20年より発行され、今に続いている。

12月1日、「ガリバン伝承館」で年一回開催される企画展を訪れた。あまりに無知であった自分に恥じて、そこで得た堀井父子の足跡についてまとめを行った。

内容は、ガリバン文化研究者として高名な「志村章子」氏による「ガリ版文化史」や「ガリ版ものがたり」・伝承館展示や他より引用させて頂いた。

■■毛筆謄写版
謄写版と言えば、これから説明にある堀井謄写版を祖とする鉄筆使用の印刷器をイメージするが、明治、大正、昭和の戦中まで使われていた、もう一つの謄写版「毛筆謄写版」が鉄筆式より6年早く世に出ていた。1888(明治21)年、小学校教師山内不二門によって発明されたものである。
筆文字がたちどころに整版出来る便利な印刷機として全国的に広く使用されていた。が年を追って、鉄筆式が主流となっていった。
議事日程 毛筆謄写版刷り

■■堀井新治郎父子
■ヤスリ、鉄筆を使って製版する謄写版は、『世界に誇る「謄写版」の発明家・堀井新治郎父子』の努力があって、初めて日本に誕生した。
父: 堀井新治郎『元紀 安政3(1856)〜1932(昭和7)』 子: 堀井新治郎『仁紀 1875(明治8)〜1962(昭和37)』である。

■父子は、滋賀県旧蒲生町(現・東近江市)で生まれた。この地域は近江商人を数多く産出した地として有名である。

堀井家は37代続く旧家で、佐々木氏につながるもと武家出身であった。佐々木氏没落後、麻布の行商から醤油・酒の醸造業に転じ、関東方面に醸造業の出店を構える近江商人となったが、明治に入って出店先を閉鎖し、蒲生の地に戻った。
1883(明治16)年堀井家に入った、38代新治郎は教師時代を経た後の1892(明治25)年頃は農務省の官職に、新治郎の子耕造(後39代新次郎)は商社に勤めていた。

■明治期のオフィス革命は、激烈で、文書作成に数百年使用してきた筆はペンにとって代わり、大福帳は洋式帳簿に替わった。
事務処理も煩雑になり、多くの複写を必要とする仕事が増えるばかりであった。当時日本で行われていた簡易印刷はコンニャク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、企業や役所・学校ではより質の高い簡易印刷が様々な活動において強く求められていた。

■■謄写版開発活動
同文を一括して印刷できる簡易な印刷方法の必要性を痛感していた堀井父子は1892(明治25)年頃より研究を始め、明治26年二人とも同時に職を辞し、「相携えて」開発に没入した。(新治郎37才、耕造 18才であった)

■新治郎は1893(明治26)年にシカゴで開催された万国博覧会視察に参加し、アメリカの簡易印刷機の事情を視察した。
印刷技術先進国アメリカでは、エジソンが孔版印刷ミメオグラフ(謄写版)を1861(文久元)年)に開発し、新次郎が渡米した頃エジソンは原型を完成させていた。
新治郎が”エジソンのミメオグラフ“を一台持って帰国したのは、晩秋の11月27日であった。
新治郎が入手したエジソンのメオグラフと謄写版

■その間日本では、研究開発費や渡米費用を捻出するため、子・耕造は仏壇を除く、蒲生郡の自宅を含めた資産を売却し、家族を伴って東京へ出て神田鍛冶町に転居した。堀井家は、耕造で39代を数える旧家であった故、特に祖母の故郷を去る心情は文字に尽くしがたいものであったろう。資金不足もあって、一家の東京生活は赤貧洗うがごとくであったとされる。

■■事業成功後、すべてを買戻し、今はその敷地に「ガリバン伝承館」が建つ。
堀井家は広大な敷地を保有していた。1990(平成2)年堀井家からそのすべてが東近江市寄贈された。
大正時代の本家と現在。現在残る建屋は明治末期から昭和にかけて建てられたもの。 今なお並び建つ土蔵の中には、堀井家が几帳面に綴った帳票などが多量に保管されている。

1937(大正12)年の関東大震災で店を焼失した際、保存用の謄写版・他を失った。その後書類は正副二通つくり分散保存するようにしたためほとんどが残っているとされる。

■■堀井謄写堂と明治時代
■謄写版の完成は、1894(明治27)1月。
「?引きした原紙をヤスリ上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を発明し、謄写版と名付け発表した。速やかに特許出願を行うが資金がなく自力申請した結果、書類に不備があり特許受理には至らなかった。
堀井謄写版1号機 明治27年(1894)1月発明 父子の考案によるヤスリと鉄筆を使った日本最初の簡易印刷機

一号機は、木枠、原紙、ローラーからなる簡便なものだった。

■堀井謄写堂の創業は、明治27年7月5日。 所在は「神田区鍛冶町三番地」 もと本社のあったところ。倒産後も カンバンのみ残る。

家賃15円、店舗付属の平屋に原紙加工とローラーを、物置内でインク練りをおこなった。原紙の原料紙は東京江戸川製紙場の純雁皮を採用した。

■1895年(明治28年)3月12日2499号にて特許(謄写印刷紙)が認められた。これで信用も高まった。

■■販売活動
■「謄写版」と命名され明治27年7月より発売したが、思うようには売れなかった。父子の謄写版を携えての全国行脚が始まった。すべてが厳しい状況にあった。
当時は毛筆主流の時代であったため、筆に長い間なじんだ明治人には謄写版は馴染みにくかった。ボールペン・万年筆も同様であった。
■こうした事務機は外国商館、宣教師、大学、ジャーナリズムが率先して採用した。軍隊、官庁、大企業、教育分野に営業活動を集中させ、3年後には役所関連ニーズが50%を占めた。それも中央官庁から市町村の役場、公立校にまで及んだ。
1号器(ハガキ版)、2号器(美濃半裁)、3号器(半紙全)4号器(美嚢全)のタイプを揃えた。 3号サイズの謄写版1台の価格は13円90銭で小学校教員の初任給「8〜9円」の約2倍という恰好な価格だった。

■謄写堂にとって大きな販路を開かせたのは1894(明治27)年の日清戦争である。大本営・陸海軍は軍事通信用に謄写版を大量に採用した。通信技術と軍の結びつきという歴史的な好例である。日清戦争がひ弱な企業を育てた。軍の需要をとらえたのは軍用鞄入将校用のサイズだった。
1904(明治37)年の日露戦争では謄写版がさらに需要を増した。謄写堂本店に『陸軍御用達』の看板が掲げられた。

■新治郎が選ばれた「日本発明家五十傑選」には、『販路、資金、借財で「進退両難に陥って、彼の事業もまさに閉店のやむなきに至ったが、時あたかも日清戦争の勃発となり、大本営をはじめ陸海軍において軍事通信として本器を採用されることになり、しかもその効果は偉大なものとして、多大の賞賛を受け、明治28年には莫大な注文を受けるに至った。ここで数か月にわたって昼夜兼行して製造を急いだ」と書いてある。
■日清・日露戦争で、謄写版業務に従事していた「謄写版兵」は、除隊後それぞれの仕事や生活の場で、謄写版を活用した。これが謄写版の普及に役立った。

■■38代新治郎から39代新治郎へのバトンタッチで新時代へ
■謄写版は、教育、産業の変化に従って普及が進んだ。需要は増えていったが回収の悪化で経営危機にも遭遇した。1904(明治37)年には、48才の若さで新治郎が病に倒れ、隠居に入るなどのピンチもあったが切り抜けた。その後は子・耕造の時代に入った。
■日清・日露の戦争は、謄写堂の基礎を築き、海外需要にも目を向けさせた。「ロンドンタイムス」に広告を出し、1910(明治43)年の日英博覧会にも謄写版、原紙を出品して銅牌を受理した。
1897(明治30)年創刊の「ジャパン・タイムス」に掲載された広告と日英博物館。

■ビジネスや官庁以外の、農民、労働者といった社会運動に伴う大量のチラシや、新聞で使われるようになると、耐久性、スピード、多様性などが要求された。

■器材の開発も需要に合わせて進んだ。謄写印刷機本体、原紙、インク、ヤスリ、鉄筆と、全体としての工夫・改良が進められた。この動きに合わせて「ミリアタイプ」原紙を開発した。
■堀井の毛髪謄写版は明治41年に特許が成立、1910(明治43)年より発売した。

■明治期最後の発明は「輪転謄写機」の発明である。1910(明治43)年に、日本での第一号機を完成させた。円筒のローラーを使い印刷する方式である。
5月には輪転式謄写機第一号の特許を得た。
輪転式謄写版第一号 

■明治43年朝日新聞広告

■■謄写堂と大正時代
大正時代の自由主義教育は、デモクラシーの波に乗って、その波を助長して展開したが、そのうねりを高めた重要な伝達役を遂行したのがガリ版であるといわれる。大げさには大正15年間の文化はガリ版文化とさえいわれる。
■大正期の大きな特徴は、謄写版の需要の高まりと、孔版技術の進歩とされる。
■謄写堂は社業を発展し、1915(大正4)年「堀井謄写堂」と社名を改称した。この年に特許が切れて競争者が自由に参入し始めた。

■大正に入ると、謄写版は”官”から”民“の時代を迎え、民間オフィスの事務機としても普及した。
謄写版販売に欠かせないものとして、実演、講習があった。全国各地の拡販先で実演や講習が行われた。

■堀井父子の謄写版の発明と謄写堂という企業の確立は、全国に、謄写版やヤスリや原紙の専門メーカーや卸店をつくり、印刷業者や筆耕職人群を育成した、東京を中心に謄写印刷業者も生まれた。
当時、謄写版一式は一台33円。小学校の教員の初任給が12円〜20円、外国商社の女性タイピストの月給が25円であったことから、謄写版は高価なビジンネスマシンであった。
1921(大正10)年、25歳の宮沢賢治が家出同様で上京、謄写プリント店の草分けとされる謄写プリント店文信社で筆耕・校正者の職を得ていた。
筆耕料は、謄写版原紙半紙版25銭、美濃判35銭で、経営者が20〜30%のマージンを取ったとされる(当時の京都市電の乗車券は4銭)

■■謄写版が事務機として定着する一方、大正期には映画同人雑誌が多く作られた。勿論孔版印刷である。
謄写版は同人誌などの少部数印刷にピッタリだった。
■大正時代は孔版技術の発達を見た時代で「孔版の神様」「孔聖」ともいわれる草間京平も堀井謄写堂に支えられ多くの作品群を残した。草間は、“謄写技報、器材開発、研究誌の発行、技術の向上、教育・普及活動に尽力した。”美しい印刷物”づくりを志向する者たちを生み出し、孔版美術も花が咲いた。

■海外進出
明治44年の上海支店の開設に始まり、大正に入って、漢口、天津支店、京城出張所、南京出張所を開設して、海外市場への需要を広げ大陸へ社業を広げた。謄写関係用具のみならず、文房具、自転車、ゴム長靴など輸出する商社となり、日中戦争に突入すると原紙などは現地生産に切り替えていった。

太平洋戦争中は、ジャカルタに謄写版工場、奉天、上海、京城に工場を作り、国内需要と軍需ともに大きかった。

■関東大震災
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方にM7.9の大地震が襲った。堀井謄写堂本店はすべてを焼失した。
関東大震災で、印刷業界は全滅に近い打撃を受けた。主要新聞社も焼失、各社は謄写版の号外を出した。活版印刷業界が立ち直るまで、謄写印刷は、東京を中心とした地域の情報活動を一手に担った。筆耕や刷り手が緊急に求められ、”日給5円、謄写版の刷り手求む“のポスターが散見されたとされる。
小学校教員の初任給が50円位であったようで、かなりの高給だった。
■1924(大正13)年の堀井謄写堂の生産台数は18万6千台。原紙が2835万枚、インクは28万8千缶であった。
■ガリ版伝承館には、関東大震災の記録画集が展示されている。

■大正時代の新商品
輪転式謄写版第一号の後に開発された器材は次のとおりである。
大正2年の堀井謄写版紀元式から大正14年頃までの開発品

■■戦争の昭和時代
1920年頃より謄写版印刷器の製造メーカーが増え、ガリ版が社会運動を支え、文学同人会、各地での綴り方運動に愛用される、などで全盛を迎えることになる。
謄写印刷は、大正末期から昭和の初めにかけて、多色刷の美術謄写(美術孔版)の全盛時代を迎えた。その代表が草間京平と若山八十氏であった。
■1936(昭和11〜12)年頃の販売商品解説書

■1927(昭和2)年に、全国で銀行の取り付け騒ぎがあり、1ケ月で13の銀行が店を閉じた。その後は不況が続き、すべてが戦争体制に直結して行った。
■1928(昭和3)年の赤旗創刊号は謄写版印刷であった。
■堀井謄写版は、台盤移動式から原紙枠移動式となった。
他に、タイプ原紙「ミリヤタイプ原紙」を発表した。その特許数は、日、米、仏、加など93件に及んだ。「エジソン機、ロネオ機のタイプ原紙、鉄筆との併用も可なりとし、タイプ原紙に鉄筆で署名等を添加するに最も妙成り」と宣伝している。海外市場でも一人勝ちであったとされる。

■堀井謄写堂では1932(昭和7)年頃から海軍訓練艦隊新聞班の講習を定例化し、草間京平も講師になっている。その他堀井は”官”の講習を行い、文部省令により「私立堀井謄写堂本店東京青年訓練所」が本店内に置かれた。
1933(昭和8)年ころから、各地の学校の教育現場でも謄写印刷の技術が取り入れられ、学校に謄写版科が設けられた。
■1930(昭和 5)年 堀井双胴式輪転謄写機完成、1932(昭和7)年堀井超紀元式謄写版を発売、1936(昭和11)年堀井電動式複胴輪転謄写機完成

■■1932(昭和 7)年 堀井謄写堂創業者・38代新治郎逝去(1856〜1932)。功績に対し、緑綬褒章、帝国発明協会優等賞、特別賞等が授与される。
生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの特許39件)に達する。

■■戦時中
■1938(昭和13)年 国家総動員法が公布・施工された。
■1941(昭和16)年には、日本印刷業界の一元的統制団体「日本印刷文化協会」が設立され、印刷用紙の統制が図られた。当時の印刷業者は同協会に所属しないと1枚の紙も入手できなかった。しかも軍需用が優先で、民需用はゼロに等しかったうえに、用途も限定された。
謄写印刷用には、「謄写印刷は印刷でない」と紙の供給はゼロとなった。
「孔版が社会的支持を得たのは、その手軽さであり、印刷界で無視されたのは、技術の拙劣さのゆえである」「謄写印刷業者が印刷屋と言えるなら、提灯屋も印刷屋だ」などが飛び交い、当時の謄写印刷業者は低い地位に置かれていた。その後の熱心な運動で1942(昭和17)年日本印刷文化協会に正式加入となった。
孔版技術者は招集され、又は徴用工として工場に送られた。孔版労働力は極度に不足していた。
■敗戦の色濃い1944(昭和19)年、日本印刷協会は、それぞれの工場の機械設備を供出し、長年コツコツと築き上げた商売を断念させられた。
この年、小学校は国民学校となった。学童集団疎開(3年〜6年生)が始まり、集団疎開中も教師は父母にガリ版通信を発行していた。
■戦時下で細々と生きながらえることのできた印刷は、『印刷と言えない』と印刷業者たちから一段低く見られていた謄写印刷であった。

■■終戦
1945(昭和20)年 日本は新しい時代を迎えた。戦後初の官報は謄写版印刷であったとされる。
ガリ版は、関東大震災後のように印刷業界が無力であったゆえに、大きな力を発揮し、第二のガリ版黄金期を現出させた。
今度は国民のあらゆる階層における言論の道具のしかも主役としてのガリ版印刷の登場である。これは、1955(昭和30)年から1980(昭和55)年頃まで続く。
■敗戦後の1948(昭和23)年、神田界隈の謄写関連業者が26件を超え、全国一の高密度を呈した。ガリ版衰退期の1970〜80年代前半ごろまで、謄写印刷器材製造業、同プリント業、卸店、小売店が集まった。
大正期に花が開いたガリ版文化は、日本人の生活に根を下ろした。多くの孔版の技術書、研究誌、個人誌も発行された。孔版技術習得のための講習会が地で盛んに行われた。
孔版文化展 この時の謄写印刷店は都内で156社に達した。

講習会 各職場に(ガリ切り』名人が存在した。

■都市の大規模校から山村漁村や島嶼の小学校へも十年を待たずして、村役場、郵便局などと共に普及し、教育現場で全盛期を迎えた。

■■ガリ版衰退期
■1960(昭和35)年頃には全国の何万という職場にガリ版新聞が生まれたとされる。特に組合の葬儀、春闘やデモで、ガリ版の新聞・速報・ビラの種類と量は甚だしいものがあり、大きな訴追力と影響力を持った。職場や地域で発行されたガリ版新聞の部数は、日刊紙に換算して200万部を越えたとされる。
その後の安保闘争や、学園闘争はビラ抜きでは語れない。

■■1962(昭和37)年、39代堀井新治郎(仁紀」が逝去した。87歳であった。18才から約70年間謄写版一筋の人生であった。

■■「ホリイ」倒産
■しかし、1960(昭和35)年後半から70年代初めはガリ版の転換期でもあった。
1970(昭和45)年代〜80年代にかけてコピー機やワープロが相次いで発売された。次いでパソコンと周辺機器の発達で謄写版は衰退の道を歩く。
大学においても事務機の技術革新やOA化の端緒が始まっていた。学園闘争の終息期には、学生のビラをゼロックスでつくるケースも出ていた。
ガリ版は市民運動、住民運動のミニコミや学校での学級新聞に作りに足場をおくようになった。
■1987(昭和62)年、ホリイは謄写版の製造を中止した。そして2002(平成14)年倒産した。
その情報は、朝日新聞の記事「2002−11−14」を参照されたい。

■■謄写印刷による作品

福井県鯖江市で活動されたプロ作家、故 助田茂樹氏の作品
昭和14年から謄写 印刷業を営み、56歳で初めて絵筆を握って以来、86歳まで花を テーマに描きつづけ、孔版画頒布会「野の花の会」を主宰して精力的に作品を送り出しておられた。現在はご子息が受け継いでおられる。(ネットワーク会員でした)

国内では今なお、ガリ版に向かい合う愛好家が多いと聞く、さらに開発途上国では有力な情報伝達手段として使われており今後も増えそうである。
日本における謄写版の活用期間は60〜70年くらいであるが、パソコンなどが普及するまでの間、日本文化を支えたともいえる。
簡易な印刷機である謄写版を発明した堀井父子の業績はもっと知られる必要がある。

余りに便利な現在にあって、拙い原稿を作り、ビクビクしながらヤスリを動かし、インクだらけになって仕上げたガリ刷りの感激は、今の子たちにも通じることで、それを知らしめることも我々の責務と思う。細々とそうした動きを展開されている方々にお礼を申し上げたい。
新ネットワーク通信は年間、1〜2回発行されている。現在会員は100名をこえているとか。ガリ版伝承館では謄写器材をネット販売されているが、若い人−特に美術関係の人−に愛好者が増えていると聞く。簡単表現できる手法として歓迎されているようだ。こうした輪の広がりを期待したい。

ガリ版といえども大きな産業である。構成する謄写器材であるロウ原紙、謄写用ヤスリ、鉄筆、ローラー、インク、スクリーン、修正液、その他が業界を形づくり、発展し、多くの産業人を育成・雇用した。これらの歴史を辿り、知ることも重要である。

最後に、『山形謄写印刷資料館』パンフレットを引用して掲載いたします。

参考資料≪ガリ版文化史、われらガリ版、ガリ版物語、昭和堂月報の時代、新ガリ版ネットワーク通信、他≫





Sep. 2010 中山辰夫

東近江市蒲生岡本町663

所謂、昔の御代参街道には、最近立てられた石の案内が端々に建ち並ぶ。高木神社を出て岡本の町中を進むと、左側にやや広い空き地が現れる。土蔵も多く残っている。その一角に、ライトブルーの洋館がひときわ目立って建っている。これがガリ版伝承館である。
毛筆が主流だった明治27年(1894)に、簡易印刷機の謄写版(ガリ版)を発明した堀井新次郎父子を記念したもの。
町に寄付された堀井家の一部を改装した建物で、町と住民が共同で運営している。

国登録有形文化財
構造:木造2階建、瓦葺、建築面積49平方m
建築:明治42年「1909」基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの
解説文
謄写版発明で著名な堀井新治郎・耕造父子が郷里に建設したもの。
棟梁は大坂の野口清蔵。木造2階建、寄棟瓦葺、下見板張、一室構成の洋館で、主屋の東方に位置し、当初は離れ座敷に接続していたが、現在は東に玄関部を新設して記念館とし保存されている。

現在、オフィスや学校での印刷は殆んどコピー機でされているが、コピー機が普及する前迄は、謄写版が簡易印刷の主な手段だった。
謄写版とは、ヤスリの上に原始を乗せて鉄筆で文字を刻み、インキとローラーを用いて複写する印刷法で、鉄筆からでるガラガラという音からガリ版と称された。
この謄写版を発明したのが堀井父子である。堀井新治郎は明治26年(1893)シカゴ万国博覧会を見学帰国後、謄写版印刷法を開発、のち、輪転謄写機も発明している。

近江商人としても栄えた堀井家だが、今や地元には関係者もおらず、荒れ果てた多くの土地建物が残されている。
住民組織の「岡本わがまち夢プラン策定委員会」ではユニークな「ガリ版芸術村」を誕生させたいと検討中とのこと。
館内に入ると、多色塗りのガリ版や展示品が見られる。
誰もが体験したことのあるガリ版に接すると、思い出が噴出してくるという。

参考資料《パンフレット、滋賀県の歴史散歩、国指定文化財データーベース、他》



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