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滋賀県東近江市 百済寺
Hyakusaiji ,Higashiomi city,Shiga

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東近江市百済寺町323 百済寺本堂 重文 近世以前/寺院 江戸前期 慶安3(1650) 桁行五間、梁間五間、背面庇付、一重、入母屋造、正面軒唐破風付、檜皮葺 20041210

January 28,2017 大野木康夫 movie

大雪の影響で拝観停止

 

雪をかき分けて石垣参道へ

     

本坊周辺

          


Nov.20,2016 瀧山幸伸
movie preview(YouTube)
movie

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          



May 10, 2014 中山辰夫

平成25年10月21日に湖東三山の真中のお寺、金剛輪寺のすぐ近くに「名神高速道路湖東三山スマートインターチェンジ」が新設され、湖東三山へのアクセスがますます便利になった。
開設オープンを記念して、湖東三山の秘仏本尊が同時にご開帳された。珍しい企画で、恐らく二度とないであろう。また、“湖東三山”なる名称のICも珍しい。
秋には輝く紅葉の新緑が境内を美しく輝かせている。
  

■案内
     

■■境内散策
■赤門周辺
     

■本坊までの参道
     

■本坊付近
     

■喜見院書院・庭園付近
          

■天下遠望の名園よりの景色
     

■参道にもどる 城郭と思わせる石垣、堀跡、坊跡が続く。
     

■仁王門周辺
           

本堂周辺
                

外陣の内部
     

本堂横の千年菩提樹と本坊の菩提樹
千年菩提樹は織田信長の焼け打ちにも耐えた。
   

百済寺に存在した伽藍と塔頭
 

結縁を結ぶ
本尊と結ばれた紐に触るだけで本尊と結縁される。
 

鐘楼
     

■■仏像 「一部である。近江の祈りと美より引用」
■金銅弥勒菩薩半跏像
 

■木造聖観音坐像
 

■木造如意輪観音半跏像
 

■御前立ち
本尊の代わりとしてお参りする。
 

■本尊:秘仏 十一面観世音菩薩 住職一代、一回の御開帳
本堂は、内部に外陣と内陣とに引違格子戸を用い、内陣の厨子には、秘仏本尊の2.6mもある巨像の十一面観音立像(平安時代)を安置している。
聖徳太子の発願により霊木の杉を立ち木のまま刻んでつくったとされ、「植木観音」と呼ばれる。
十一面観世音菩薩





May 19,2013 大野木康夫 HD video

所在地 滋賀県東近江市百済寺町323

湖東三山の一つ百済寺、重文本堂よりもフロイスが「地上の天国」と表現した百済寺三百坊跡の石垣と紅葉で有名です。
境内は国指定史跡です。

百済寺は、滋賀県東部の湖東地域に営まれた天台宗の古刹で、中世に勢力をはった寺院である。
平安時代末には天台末院としての地位を確立していたと考えられる。
近隣一帯の寺領が経済基盤であり、寺内には北谷・東谷・西谷・南谷の四谷があった。
文亀3年(1503)の焼失後、伽藍の復興が進み寺勢は拡大した。
また兵乱に備えて境内の備えを固めるようになったが、それは近江国内の軍事拠点を整備したい近江守護六角氏の意向とも合致するものであった。
永禄11年(1568)足利義昭を擁して上洛した織田信長によって六角氏が滅ぼされると、百済寺は信長の祈願所となった。
元亀4年(1573)、信長は潜伏する六角義治を討つため近江に出陣、4月12日寺に火を放ち、全山は灰燼に帰した。
当時の百済寺の繁栄の様子は、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書簡にも記述されている。
その後、寛永11年(1634)に亮算が入山してから復興が本格化し、彦根藩の援助もあって復興した。
これまでの測量・発掘調査等によって、旧参道沿いに200近い坊及び堂跡と考えられる平坦地が広がっていることや、境内北側及び南側の尾根上に要害があること等を確認した。
我が国中世の宗教史や政治状況の様相を知る上で重要である。
(国指定文化財等データベースより)

駐車場から石段を上ると、仁王門が見えます。

                  

仁王門付近

        

仁王門をくぐると、正面の石垣の上に本堂が見えます。

           

本堂(重要文化財)
慶安3(1650)年の建築
桁行五間、梁間五間、背面庇付、一重、入母屋造、正面軒唐破風付、檜皮葺

百済寺は,鈴鹿山脈の西山腹に位置する天台宗寺院で,湖東三山の一つとして知られている。
本堂は,天海の高弟亮算が再建に着手,慶安3年(1650)に完成した。
桁行5間,梁間5間,背面張出付で,屋根は入母屋造,檜皮葺,正面軒唐破風付である。
平面は梁間方向に前方から外陣,内陣,後陣に三分割されている。
百済寺本堂は,中世以来の伝統的な仏堂形式に則って,内陣と外陣の対比的な空間秩序を保持しながら,平面的にも造形的にも近世らしい平明な構成を創りあげており,価値が高い。
中世以来の仏堂形式が変容する過程で,近世的な特質を顕現した代表的な遺構として,貴重である。
(国指定文化財等データベースより)

撮影するには落葉後の冬季がいいと思いますが、青もみじにかこまれた雰囲気もなんともいえません。

                                         

石段を下りて、本坊の庭園を見ました。

                         

最後に石段の最下部から撮影しました。

   



Nov.2009 撮影:中山辰夫

百済寺(ひゃくさいじ)
東近江市百済寺町332

天台宗

鈴鹿山脈の麓に凡そ3〜5km間隔で東西に並ぶ三つの寺、百済寺・金剛輪寺・西明寺を湖東三山という。
三つの寺ともに千余年の歴史を持つ古刹で、巨大な境内をかかえ、両側に坊舎跡が並ぶ長い参道を持つ。
かつては多数の僧兵を擁し、度々兵火を浴びたなどの共通点をもつ。百済寺は三山のなかで一番古い寺である。
最も南に位置する百済寺は、国道307号線妹南交差点を北東に1kmほど行くと赤門に到着する。
この門をくぐり石畳の参道を登る。
    

百済寺は寺伝によると、推古天皇の時代に聖徳太子の発願により、高句麗僧恵慈を導師に百済僧道欣が創建したという。
その年代は推古14年(606)ともいわれる。
その堂塔は百済の龍雲寺を模して建てられたとも伝える。

古代より、湖東一帯には朝鮮半島から日本海をわたり、北陸の若狭を経由してやって来た渡来人が多く定住していた。
中でもこの辺りには、5世紀頃より秦氏の一族が多く帰化していた。
当時の渡来人は、灌漑、土木や建築などの分野で、日本には無い先進技術を見につけていた。
彼らはこの地域を開墾し、豊沃な土地に替えて行った。百済寺が出来たのは渡来文化が花開いたときで深いかかわりがあったことは「百済寺」という寺号からも伺える。

百済寺は平安時代に入ると、天台宗に改宗、無動寺の末寺として最盛期を迎えた。
その伽藍は壮大で「湖東の小叡山」と称されるほどだったと伝わる。
その時代には、僧俗1000人を超える人々が山内に住んでいたという。
近隣一帯の寺領が経済基盤であり、寺内には北谷・東谷・西谷・南谷の四谷があった。
北谷や南谷からは、室町時代後期から戦国時代にかけて造られたと見られる空堀や石垣が発見され要塞化されていたことが判明している。

記録では、文永11年(1274)に大火、ついで明応7年(1498)失火により本堂・堂舎のすべてを焼失した。
文亀3年(1503)には、近江守護六角氏高頼と被官伊庭貞隆の争いで兵火を受け、その後復興が進められた。
織田信長の侵攻に際して、六角氏の被官鯰江氏を助けた百済寺は、天正元年(1573)焼討ちをかけられ全山が灰燼に帰し寺宝をほとんど失った。

秀吉の時代には仮堂が建てられた。
江戸時代、天海僧正の高弟亮算が復興をすすめ、2代目彦根藩主井伊直孝の援助で、甲良大工の手によって慶安3年(1650)に現在の本堂・仁王門が建てられ、寺観を整え繁栄した。

近年の発掘調査では約300の僧坊跡や、境内北側及び南側の屋根上に要害があることなどが確認された。
わが国の中世の宗教史や政治状況の様相を知る上で重要とされている。

赤門
百済寺の参道の入口には山門が建っている。紅塗りのため通称赤門といわれている。
この門も本堂と同じ慶安3年(1650)に建立された。城門のような大きな扉がついた門である。
赤門をくぐり、石段の道をゆくと左側に、延暦寺衆徒らが京都の日蓮宗徒を襲った天文法華の乱に出陣した百済寺僧兵6人の戦死者の供養碑が立っている。この表参道と呼ばれる石段の道は非常に長い。

        

参道の石段
湖東三山の中で百済寺の参道は、入口に当たる山門(赤門)から本堂まで非常に長く約250mある。
その参道の両側には老杉が林立し、子院跡の名残を残す苔むした石垣が続き、歴史の深さを感じさせる。
織田信長の兵火で一山は焼失したが、参道や石垣がかつての規模の大きさを物語っているようだ。両側の紅葉が美しい。
この寺院の上から下まで130mの標高差がありその分だけ長い期間紅葉が楽しめる。湖南市の常楽寺も同じであった。
近年「日本紅葉百選」「近畿五大紅葉名所」に選ばれた。
「大原三千院・高雄神護寺・奈良談林寺・奈良長岳寺」 山門から50m程行くと「五の谷川」にかかる赤い極楽橋に出会う。橋の手前を「此岸」、渡りきると「彼岸」といわれる。
さらに200mほど行くと本坊喜見院に着く。

         

本坊(喜見院 きけんいん)庭園と書院 別名「天下遠望の名庭」
百済寺一山の本坊は喜見院である。現在の建物は、仁王門脇に再建されたものを、昭和15年(1940)に移転・改築されたもの。
それに伴い庭園も、旧本坊の石材と山内の巨石を組合せて拡張改造された。
この庭は鈴鹿の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富んだ巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに鑑賞式庭園である。
平らな拝石、渓流の源の不動石、借景の鈴鹿が庭に組みこまれ、周囲に植えたサツキが季節になると庭を引き立たせる。
巨石は旧本坊庭園とさらに百済寺山内の谷川より集められた。
庭園の高台からは一大パノラマを見る感じである。眼下に湖東平野、遠くには比叡山や湖西の山々まで見渡せる。
その比叡山の延長線上の約880km先には朝鮮半島があり、かつて百済国があった。
百済からの渡来人たちは、ここから比叡山のはるか向こうを眺めて、遠い故郷を思い浮かべたのだろうか。

書院 登録有形文化財
湖東三山のひとつ百済寺の本坊にあって,庭に面して建つ大型の入母屋造書院。
平面は,仏間や書院の間などからなる2列6室の居室の2方に広縁を取り,四方に濡縁を張る。
年代は新しいが,細部の造作とも伝統的な工法になる。設計・施工は大工の宮部太兵衛。
                  

仁王門
三間二間
長い参道を登りつめると正面に大きな草履のかかった仁王門が見える。
一対の草履に触れると「身体健康」「無病長寿」のご利益があるとされる。
本堂近くに立つ仁王門は、本堂と同じ慶安3年(1650)に建立された。
一対の金剛力士像が互いに向き合っている。門をくぐる者を睨むような感じである。

        

本堂
国重要文化財:建造物:指定 2004・12・10
五間六間、一重、入母屋造、桧皮葺
本堂は室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)に兵火を受け
さらに織田信長によって天正元年(1573)全山焼失した。
その後天正12年(1584)に堀秀政が仮本堂を建立。のち天海僧正の高弟亮算(りょうさん)が入寺し
堂舎再興の勅許を得て諸国に勧進し、江戸時代の慶安3年(1650)現在の本堂が竣工した。
かつての本堂は現在より少し山手の台地で、ここに金堂と塔婆があった。

現在の本堂は、一重、五間六間、入母屋造で正面中央に軒唐破風がつけられている。
金剛輪寺・西明寺よりひと回り小さいが、天台形式の構造を持った均整のとれた建造物である。
平面は梁間方向に前方から外陣、内陣、後陣に三分割されている。
外部の総高欄の擬宝珠に「百済寺本堂 慶安五年壬辰三月吉日」の刻銘がありその時に全て完成したことがわかる。
内部に外陣と内陣とに引違格子戸を用い、内陣の厨子には、2mを超える秘仏本尊、十一面観音立像(平安時代)を安置している。
大工は郡志所載の棟札写により、当寺の総大工である彦左衛門とされる。

           

地上の天国
石段道を歩いていると「地上の天国・・・」の案内にぶつかる。
宣教師のルイス・フロイスは本国への書簡の中に百済寺のことを書いていた。
その文中には、「多数の相互に独立した僧院、座敷と庭を備えた坊舎が立ち並び、まさに地上の天国」と書かれていたとか。
(百寺巡礼 五木寛之より)
「地上の天国」とはここより引用された。
滋賀県が行った調査で、三百の坊が確認され、その中に各谷に堂跡と思われる広さと石垣をもった遺構もあった。
鎌倉時代から室町時代にかけて、なぜ三百余坊を作る必要にあったのか・・・・以下の説がある。
*百済寺に学ぶ僧の数が大変多かった。
*参詣する人や、宿泊する人が多かった
*当時百済寺の信仰は、相当広い範囲にひろまっていた。
*天台宗の隆昌と共に、寺の経済は、最高の時代だった。
左右にみられる「僧房」の遺構より往時を想像しながら進む。

  

鐘楼

    

百済寺の要害化について

   

巨大な伽藍と大きな勢力を持っていた中世の天台系山岳寺院は、単なる宗教施設ではなくて
寺院には僧侶だけでなく多くの商工業者も附属していた。そこには様々な人々が出入りし、多くの富が集まった。
寺院は当然のごとく、大きな力を持ち、政治的にも大きな影響力を持っていた。
当時の武家や朝廷とも対等に渡り合う勢力だったといえる。
文亀3年(1503)百済寺及び周辺の兵火による全焼という惨事の後、寺院再建と共に寺院自体も戦の争乱に備えて防御施設を備える様になったとされる。
百済寺の要害は、最も北側の一群と南側の一群はそれぞれ北要害・南要害と呼ばれ、本堂を中心とした主要部分を外側から守るように坊群を配置し戦時に備えたとされる。
この要害造成には、観音寺城築造にたずさわった佐々木六角氏の重臣進藤山城守が企画・指導を行ったとされる。
築造に当たったのは寺内に住む僧兵と百済寺郷の農民であった。
永正17年(1520)の支出が百済寺古記として残っており、この頃に始まったと思われる。
寺中から出る人夫賃は米、一日一升一合だった。
天正元年(1573)織田信長による近江侵攻が始まり、六角氏が立てこもる鯰江城が陥落したのち六角氏に関わる子女をかくまったとして百済寺は全山灰燼に帰した。

「千年菩提樹」
本堂の左側に一本の菩提樹が建っている。
400年ほど前、信長の焼き討ちで焼かれ、炭と化した基である。その幹は中空になっているものの周りから新芽が吹き出して、見事によみがえった。
毎年6月頃になると薄黄色の花を咲かせ、芳香を放つようだ。
訪れる人は、その強い生命力に感銘を受け、勇気と安らぎを胸に刻む。
右手120m程離れた高台に五重塔の礎石が残る。

   

別名「百彩寺」ともいわれる。 .四季彩色の凡その満開時期
芙蓉・・・・・・・9月上旬〜10月上旬
紫式部の実・・・・9月下旬〜12月中旬
ドウダンツツジ・・10月中旬〜11月中旬
楓(紅葉)・・・・ 11月上旬〜11月下旬
楓(絨毯)・・・・ 11月下旬〜12月上旬

仏像関係
信長の焼討ちを受けているために、湖東三山の他の寺と比べ文化財は少ない。
本尊・十一面観音立像・聖観音菩薩・如意輪観音菩薩・金銅弥勒菩薩半跏像などである。
他は以下の通り。そのほとんどの保管を外部に委託中である。
阿弥陀如来坐像 (あみだにょらいざぞう)
如意輪観音半跏像 (にょいりんかんのんはんかぞう)
金銅弥勒半跏像 (こんどうみろくはんかぞう)
紺紙金泥妙法蓮華経(部分) (こんしきんでいみょうほうれんげきょう)
紺紙金泥妙法蓮華経 入黒漆蒔絵函(重文) (こんしきんでいみょうほうれんげきょう いりくろうるしまきえばこ)
日吉山王神像(重文) (ひよしさんのうしんぞう)
日吉山王神像(部分) (ひよしさんのうしんぞう)
黄不動尊像 (きふどうそんぞう)
三十六歌仙屏風 (さんじゅうろくかせんびょうぶ)
石引図額 (いしびきずがく)
神馬図絵馬 (しんまずえま)
金銅唐草文磬 (こんどうからくさぶんけい)
信楽古壺 (しがらきこつぼ)
如意輪観音像 (にょいりんかんのんぞう)

参考資料《滋賀県の近世社寺建築、郷土資料辞典、百済寺物語、他》




Nov.2009 撮影:瀧山幸伸 HD video

1st camera

                                                                    


2nd camera

                                                                        



道の駅 東近江市あいとうマーガレットステーション

     








Nov.2008 撮影:瀧山幸伸 HD video Video FAQ
鐘の音 0,1,2,3 (24bit 96KHz)

   

参道
         

庭園前
       

本堂へ
              
本堂
            

   

庭園
                                                  

    

    

   

    


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