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滋賀県東近江市 木地師の里
Kijishi no sato,Higashiomi city,Shiga

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Sep. 2013 中山辰夫 


滋賀県東近江市政所町・蛭谷町・君ケ畑町

■■■奥永源寺の蛭谷町や君ケ畑町は現存する木地師文書に著されている通り、全国に分散する木地師集団の根源地とされる。
白洲正子の「かくれ里」にある「木地師の里」は、目にした読者誰しもを一度は訪れてみたい気分にさせる。
だがその一帯は深い谷あいの中に佇む集落で、細い山間の道を進むことになる。秘境の里を訪れる。

「木地師の里」は東近江市に属する。町名は町であるが、高齢化の進んだ戸数も少ない山村である。

■■しばらくは、行く道中の景観を紹介する。
八日市ICを降りて、琵琶湖に流れ込む愛知川沿いに国道421号線(八風街道)を進む。八風街道は中山道と東海道を結ぶ。
古刹永源寺前を過ぎる。この周辺の秋の紅葉は見事である。

■8月16日、日本各地に大変な被害をもたらした台風18号の影響で、愛知川も普段の景観とは異なっていた。
景観(冬・秋と台風直後)

■満々に水を蓄える永源寺ダムを眼下に見ながら進む。桜の頃、この周辺は絶景である。
ダム築造の際には集落も埋没した。「田んぼ」跡が顔を見せる時があるが、まさに遺跡の味わいがある。
台風18号で泥水化している。
景観比較

■永源寺付近の相谷集落から日本最古の小さな女性像が発見された。(相谷熊原遺跡)

この女性像が、縄文人が抱いた「カミ」の造形で、縄文人が抱いた神の心象は「母性」であった。その祈りのためには、顔も手足も不要であった。
母性を象徴する乳房と、神が宿る「穴」があればよかった。そして、この造形は小さい。人の移動と共に、この造形も移動した。「大沼芳幸氏談」

■しばらくは八風街道を走る
国道421号線は、中山道八日市から鈴鹿山脈を八風峠で越え、桑名・四日市に至るこの街道で、古くは近江商人が荷を運び賑わった街道である。
即ち、八風街道は旧東海道から山越えで伊勢に抜ける間道で、標高938mの八風峠を越えてゆくところから付けられた名前である。

■「京の水」
途中421号線から脇道に入る。そこには湧き水「京の水」がある。質素な水汲み場が何ともいえない感じである。

遠く江戸から、伊勢路から鈴鹿を越えてここ近江の里へ、はるかな京の都に思いを馳せる時、幾多の旅人が喉を潤し、心を癒したことか。
「京の水」とは、いつとはなく旅人が名付けたとされる。古より今もなお、限りなくこんこんと湧き出る清水。大自然の恵みに心から感謝である。
三重県から汲み取りに来る人も多いとか。昼食時にお茶とお湯割りを少々所望する 最高!

いよいよ木地師の里へ向かう。

■■愛知川に合流する御池川を遡り、旧道(木地師街道)を清流沿いに遡ると木地屋の里、秘境の小椋谷の山郷に至る。
谷また谷の連続である。山が迫る。

■■木地師の里・小椋六ケ畑
愛知川の上流、ダムで埋没した谷奥の御池川沿いに、政所畑、九居瀬、黄和田、箕川、君ケ畑という六集落がある。
ここを小椋六ケ畑といって昔から木地師が住んだ。中でも木地師の伝承は蛭谷と君ケ畑に色濃くとどめている。
そこには全国の木地師を統率する本家があり、分脈といわれる遊民の木地師が北は秋田から南は鹿児島の遠隔に流れ、土着の木地師となって、山々の木を伐(き)り、盆、腕、台所用品、指物などを作った。近江の木地屋が、日本の細工師の源流といわれるのはそのためである。

ここで木地師及びその関連情報についてまとめを行う。

■■ろくろ技術の起源
木地師にとって重要な技術・ろくろの発明は、紀元前6000年前から紀元前2400年前の間とされ、そのはじまりはメソポタミアとも中国ともいわれる。青銅時代には広く使用されていた。
日本における轆轤の存在については、奈良時代にあったことが文書で確認でき、734(天平6)年の正倉院文書に「近江轆轤工 ろくろ」の名も確認されている。
近江轆轤は、5世紀後半に渡来系の秦氏が率いた技術集団に起源があるとされる。秦氏は精銅・製鉄等の鉱山・冶金関係、治山・治水の土木、木工、製陶、酒造、養蚕、機織、製紙など多義にわたる技術集団を抱えていたとされる。近江は大陸伝来のろくろ技術の先進地であった。
正倉院文書には「愛知良林」とあり、愛智郡は奈良時代から良材で知られていた。今の東近江市周辺には木工を生業とする技術者たちが集住していたとされる。
また、鍛冶は轆轤の付帯技術であった。工具づくりにフイゴやその他の鍛冶道具が必要で、これらの製作技術も重要であった。

■■■ろくろ工からろくろ師へ
木地師という職業の歴史は古く、奈良時代には活動していた記録が残る。律令制の時代には「ろくろ工」と呼ばれていた。この頃は朝廷や太宰府等の地方官衙、或いは大寺に付属して特定の用途に供する木地のみ作っていた。よって「漂泊の民」としての習性は無かった。
平安時代中期から中世にかけて、ろくろ工は「ろくろ師」と呼称を変え、都のほか全国各地での活動が確認できる。彼らの多くは国衙や荘園領主である大寺社の庇護を受けて給免田(税金免除)を与えられた。
平安~戦国時代の武家の居館や庶民の集住地でも多くのろくろ挽きの漆器が発掘されている。武士から一般へと使用が広まった。
その後近世にはいると各藩の産業奨励策や流通整備もあって、漆器生産が盛んとなり、木地師の活動も全盛期を迎えた。

■■■木地師の里の惟喬親王伝承
職人や芸能に従事する人々は、それぞれ職業の祖「祖神」を持ち信仰している。
大工の祖神は聖徳太子、琵琶法師は蝉丸法師である。木地師の場合は惟喬親王が職業の祖神とされる。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子として844(承和11)年に生まれた。母は紀静子である。しかし当時は藤原氏が勢力拡張の時期で、藤原氏を母とする異母弟が皇太子の座(清和天皇)についた。
皇位につく機会を失った親王は、官人として生きた半世紀には風雅を愛し、在平業平とも遊興の日々を過ごしたが、29歳の時病を理由に官を辞し出家している。出家後、比叡山麓の小野に隠棲したため「小野宮」とも呼ばれた。20年余をその山里で暮らし、897(寛平9)年、54才で亡くなられた。
以上が正史や物語に記された惟喬親王の姿である。これからは木地師の係わりがわからない。
惟喬親王像と系譜

一方、蛭谷と君ケ畑に伝えられる、近世制作と推測される巻物「御縁起」の中では、親王と小椋谷と木地師の関係が説明されている。
この世をはかなみ、(命を藤原氏に狙われて、とするものもある)地位も家族も捨ててわずかな供だけを連れて都を出た親王が湖東の地にたどりつき、さらに愛知川を遡って小椋谷に入った。出家しこの谷で暮らすうちに法華経の軸が舞うのを見てろくろを発明し、山に沢山あるドングリの殻を見て木椀を作ることを考え付く。 親王は近隣の杣人にろくろの技術を伝授、ここから木地師が生まれた。
そして親王は筒井峠に八幡宮を勧請してこれが筒井八幡となり、死後大皇大明神と称された、と。
「御縁起」の記述には木地師と親王を結びつける創作が組み込まれている。しかし「惟喬親王がやってきた」という伝承が小椋谷だけでなく、湖東の各地に残されおり、親王に関する伝説や祭祀が多くある。
残された記録からは、17世紀前半には惟喬親王と木地師と小椋谷の伝承は文字化され定着していた。
惟喬親王がろくろ技術を開発したとされるは貴人流離譚である。
円空作の親王像

しかし、小椋庄は惟喬親王の子である兼覧王の所領で神祗伯家の始祖でもあった。そこから一種の神話が出来上がったという説もあるが、逆にいえば元から縁故のあった土地へ、親王が隠れたともいえる。その前は紀氏の領地で、惟高の母は紀名虎の女、静子であったから或いは短い期間世を避けた事実があったのかもわからない。兼覧王といい、紀氏といい、どちらにしても親王とは縁の深い土地である。

親王にろくろ技術を伝授された木地師たちは、その後近在の木を伐り尽くし全国にちらばって行った。よって木地師の祖先はすべて当地(蛭谷または君ケ畑)の出身で、惟喬親王を共通の祖神として奉った。
各地に赴いた仲間との関係を維持し、信仰対象となる筒井神社(蛭子)、大皇器地祖神社(君ケ畑)を守る事を目的として、小椋谷のうちでも最奥部に位置する蛭谷・君ケ谷は、この由緒を以て蛭谷が「筒井公文所」、君ケ畑が「高松御所」という支配所を結成し、近世に全国的な木地師統括を行った。
惟喬親王を祀っている筒井神社と大皇大明神(現在の大皇器地祖神社)

支配所である筒井公文所は、筒井八幡宮(現筒井神社)の常神主大岩氏と帰雲庵住持が、高松御所は金龍寺(きんりゅうじ)の住持と、親王を祭神とする大皇明神(現大皇器地祖神社)の年番神主小椋信濃が主宰した。
木地師の多くは材料となる樹木を求めて家族と共に山から山へ移動していくが、両支配所は各地に散在かつ移動する木地師たちのもとを訪れる「氏子かり」という手法で、それぞれの神社への奉加など様々な名目で金銭を徴収し、神札を配り、人別を把握した。

帰雲庵と金龍寺(高松御所)

この木地師という特定の職人を対象とする稀有な廻国・集金の記録が、蛭谷の「氏子駈帳」と君ケ畑の「氏子狩帳」である。
これらの支配所は、各々すべての木地師を自らの氏子と称し、保護したため、全国最大の木地師集団の支配組織が確立した。

現存の木地屋文書は、ほとんどが徳川中期以後のもので、特に末期のものが圧倒的である。従い、本山の最盛期は徳川中期から末期にかけてで、全国の山々に勢力を張って、木地屋の統括と本山の威信を高めた華々しい期間は約150年間だったといえる。
地方にも流布した木地屋文書

■■「筒井公文所」や「高松御所」は、その権威を高めるため、お墨付と称する朱雀天皇や正親町(おおぎまち)天皇のりんじをはじめ足利尊氏・丹羽長秀・増田長盛等の免許状の写しを木地師に下付した。こうして与えられたお墨付きや支配所から発行された往来手形・宗門手形をもっていると安心して活動ができた。

■■木地師の七つ道具
①錀旨(りんじ) ②惟喬親王に始まる縁起文書 ③木地師の免許書 ④宗門手形 ⑤往来手形 ⑥印鑑 ⑦木札

■■「氏子駈帳」と「氏子狩帳」
両所は、各地の木地師を訪ね氏子を確認し、氏子狩り料・初穂料・奉加金などを集めた。氏子には神札・お墨付を配付しながら、紛争があれば解決した。この廻国の記録である。
「氏子狩り」の制度は。九州豊前国の宇佐八幡宮の制度を模倣したものといわれる。
現存する最古は、1647(正保4)年であるが、「大岩助左衛門日記」には、天正年間(1573~92)に廻国が始まったと記してある。最も新しいものは1893(明治26)年のものである。これらの資料からは、その約300年間の全国木地屋師4万数千人の分布と変動が読める。氏子駈帳には必ず序文があって、その時の廻国目的が明記されている。

廻国するときには十六弁の菊花を描いた「筒井公文所」とか(高松御所御用)の木札をもち、「先触」の廻状を行先の氏子村に渡しておいて現地を廻った。

■1637(寛永14年)に天草一揆島原の乱が起き、幕府は1640(同15年)にキリスト教撲滅を国策とした宗教統制を行った。宗旨手形に「切支丹邪宗門との疑いをかけられたときは、拙僧が直ちに罷り出て、申し開きをする」とあり、265年間にわたり氏子狩が行われた背景には幕府の行った切支丹禁制の宗教政策とも関係があるとの見方も成り立つとされる。

■■大岩助左衛門日記
筒井八幡宮の神主であった蛭谷の大岩氏助左衛門重綱は、惟喬親王の供として小椋谷に来たとされる藤原(小椋)実秀の子孫と称した。
この大岩氏が親王伝説を画策したとされている。大岩氏はかつて小椋姓を名乗っていたが、領主の小倉氏にはばかって改姓したといわれる。
小椋実秀像と系譜

■この記録は、三十三代大岩助左衛門尉重綱が、1695(元禄8)年にまとめたものである。
筒井八幡宮の神主は、一年間神主として、各地の木地師の名門から選ばれて勤めていたが、あまりに煩雑だったので、大岩氏が常神主となった。この日記からは、蛭谷が江戸時代に朝廷や公家と接触を保っていたことがうかがえる。
本書は木地師史料としてだけでなく、中世・近世の周辺集落の様子を知ることが出来る貴重な記録である。

■■木地師の最盛期

現存する木地屋文書のうち、御綸書、御縁起書、免許状と称する特殊なものを除くと、ほとんどが徳川中期以後のもので、特に末期のものが圧倒的である。従い、徳川中期から末期にかけてが本山の最盛期で、全国の山々に勢力を張り、木地屋の統括と本山の威信を高めた華々しい約150年間だったといえる。

■■現在の小椋谷
明治までは全国どこの山にも入れ、8合目以上の木々は自由に伐採してもよかった。明治以降は自由に出入りが出来ず、伐採もできなくなり、木地師たちは廃業や転職に追い込まれた。
小椋谷も、高齢化が進み、若者の流出が多く、空き家が目立つ傾向にある。
現在、蛭谷筒井八幡宮氏子7戸、君ケ畑大皇子器地祖神社氏子37戸程度と聞く。
かつては筒井千軒と呼ばれ、蛭谷で2800名、君ケ畑で600名いたといわれる。その中で現在現役の木地師は君ケ畑の小椋昭二氏のみである。

■■毎年7月の、「海の日」の祝日に全国の現役木地師が集まる惟喬親王祭が開催されている。

■■■木地師と能面
政所・蛭谷・君ケ畑に能面が残されている。
政所・八幡神社には三十点、蛭谷の筒井神社の「毘沙門」と「若い男面」、君ケ畑の大皇器地祖神社の「翁」「三番叟」「父尉」「延命冠者」である。
八幡神社に残る「べし見」という面からは、木地師と能面打との深い関係が想定されるようである。

≪参考≫
■■■木地家の生活記録
残された木地家文書から見える本山の尊厳や、公文所の役割、木地屋の生活の一端である。

■■木地屋は他人を弟子として技術を授けることは一切しなかった。自分たちは尊いお方の血を受けている者であるため、後継ぎは息子か族の者に限られた。
■一人前
男の子が年頃になり、鉋(カンナ)使いが一人前に出来るようになると、本山に出向き、筒井神社に詣で、烏帽子という儀式を挙げる掟があった。木地職を受ける者は、不動滝に打たれ身を清める。烏帽子単衣をつけ社前に行き、神主から、献饌狩り、再拝して幣を振るとき、神前に進んで額づき氏名名乗りを神に告げる。
この儀式が終わると、烏帽子親を定めて、名を改め(小椋某となる)、拝賀して三三九度の神酒を戴く。
この儀式が終わると始めてその職の一人前として認められる。そして一台のロクロと免許状、又必要に応じて往来手形、宗問手形、絵符など凡そ木地屋として、その身分を裏付けるに足るだけの証書が下付される。
これで天上の御許可になった木地師として、全国どこの山に入り、木を伐採しても差し支えなしの資格が与えられた。

■山移動の申請の礼状
一族十人以上ともなると大量の材料を必要とし山の移動が必然であった。移転に際しては本山も多くの書類の発行に迫られた。手続きが終わった、木地屋からのお礼状が一族連名で届く。

■権利の譲渡
この時代のロクロは二人挽きで協力者が必要だった、用材の入手も一人ではできなかった。協力者がいなくなると権利を返却することになる。ロクロ一台といえども軽々しく取り扱いできなかった。

参考資料≪木地屋のふるさと、かくれ里をゆく、近江・大和、滋賀県文化財報告書、永源寺町史、木地師の里、滋賀県の地名、他≫



政所(まんどころ)
東近江市政所町

訪問日:Sep,19,2013

永源寺からは約8km。
3日前の台風18号の影響で、一部道路が不通になり開通した直後であったため台風のツメ跡が各所に見られた。永源寺ダムの水は泥水で茶褐色、ダム際にあった墓所は滑ってダムに沈んでいた。
ダムを過ぎると、山が迫り、谷深く渓流が流れ、人家もない谷沿いの道を曲がりくねりながら進む。
約30分弱で、小椋谷と呼ばれる渓谷の集落、政所「政所」に到着する。政所は小椋谷六ケ村の中心である。
村名から中世、日吉神社荘園の政所が置かれた地ともされるが未詳である。戸数60戸余り。若い人が町を出てゆくため、お年寄りばかり。

やっと人家が見えた政所の一つ前の集落・黄和田を過ぎると、道路の左側、やや高台に寺院がある。

■教宗寺(真宗大谷派)
東近江市政所町1448

すこし前進する。
■唯一の目立った建物は廃校になった政所小学校
中学校も廃校になった。町起こしの拠点として使用されるかも。

■道路に面した集落散策

■人家の屋根
昔は茅葺であった。最近は茅葺の上にトタンを被せるようになった。5~6年毎にペンキ塗りをすると結構長く持つようだ。「木地屋の里」はいずこもトタン葺である。

■山側から見た人家

■茶畑
山裾や川沿いの斜面に茶畑が見える。谷間の狭い斜面を切り開き、石を積んで作り上げた小さな茶畑である。

■政所集落の中心であろうか。光徳寺の前、八幡神社参道前である。

■■光徳寺(真宗)
東近江市政所町

■■八幡神社(産土神)
東近江市政所950
祭神:誉田別之命
風情のある茅葺とトタン屋根の建物二棟が近接して建っており、この建物と建物の間の狭い路地が神社の参道である。明治頃からこの状態だったとも聞く。
その路地を抜けると目の前に鳥居が現れ、その奥が結構な広さの境内である。

■境内
杉の大木が固める

■拝殿
入母屋造、間口二間二尺 奥行二間二尺

■本殿
二間社流造、間口一間三尺 奥行一間三尺

本殿の向って右側に惟喬親王を祀る小社殿がある

■宝筺印塔
境内の左手に石の玉垣で囲まれたマウンドがあり、中央に南北期のものとされる宝筺印塔が建っている。コセチ千軒址より移された

宝筺印塔は惟喬親王の塔とされる。高さ1.02m、基礎の四面に挌狭間を作る。
政所から君ケ畑に及んで、惟喬親王の伝説がある。

■木地屋藤川千軒
藤川谷の水源日本コバは標高934m。山名は木場からとも、九州型焼畑の名にちなむとも。隣国五国を眺望できる憩いの場から転じたともいう。筒井千軒とともに木地屋発祥伝説の地「藤川千軒」の集落が営まれていた。

■■政所茶
愛知川源流近くに点在する東近江市君ケ畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、杠葉尾、蓼畑の7地区で生産されるのが「政所茶」である。
「宇治は茶所、茶は政所」と歌われたように歴史は古く、室町時代に退蔵寺を開山した永源寺の僧越渓秀格が茶の種子をまいたのが始まりとされる。
1618(元和4)年六ケ畑に茶運上が課せられた。政所六ケ畑では地味も低く、霜の害があって栗や黍(きび)などの雑穀しか作れなかった。気候などが茶に合ったらしく、幕末から明治にかけては飛躍的に生産が伸びた。
小椋には「宇治は茶所、茶は政所、娘やるのは縁所(中略)男よいのは杠葉尾に黄和田、お茶の良いのは政所(中略)宇治は茶所、茶は政所、味の良いのは九居瀬の茶」という茶摘唄のほか、炉元唄・木挽唄・粉すり唄などが伝わっている。

■昔からの「在来種」を育てているが、現状は細々とした生産である。今も株仕立ての在来茶園で無農薬栽培、手摘みが主で二番は摘まず、ほとんどが煎茶となる。『まちおこし』に政所茶を検討されているようだ。
■政所にある樹齢推定300年を越える大茶樹の古木。滋賀県指定自然記念物に選ばれている。台風18号の影響で、支えの柵が倒れた。
茶木は大丈夫のようだ。

■初秋

■■木地師が打った能面
産土神八幡神社には室町・桃山時代の能面・装束が沢山所蔵されている。特に桃山時代の作の能装束二領は国重要文化財である。
神社の神主は回り持ちで、村の長老がお蔵の鍵を預かり保管されている。

年に一回、虫干しをされる。その時が公開日である。今年は9月16日が虫干し日であったが、台風で中止。19日に行われた。急がれた理由は彦根城博物館で9月22日より「近江と能」の特別展があり、そこに出品されるためである。
社務所に並べられた作品を見てビックリであるが、文化5年の火災で、資料が焼失してしまったのが惜しい。
詳細は別途「能面」のコーナーでまとめる。

『お能の翁に白、黒(三番曳)、父の尉の三人がいる。この能面もご神体であろう。この面は木地師の手になったものでなく、本職の面打ちが作った田舎作なのである。
近江は能の盛んなところで、特に日吉神社には座付の猿楽師がおり、神事の能に携わっていた。その関係で、政所八幡にも、このような能が伝わったのでないか。それらは実際の演能より、雨乞いとか豊作の祈りなどに用いる場合が多かったと思われる。』
≪白洲正子 かくれ里より≫



蛭谷
東近江市蛭谷町

政所から渓谷に沿って山道を進むと箕川、次いで蛭谷の集落となる。
箕川村の北東、御池川上流の谷間にある。西は筒井峠を越え大萩村(廃村)、東は君ケ畑である。標高7~800mの位置にある。

ここ蛭谷は、「六ケ畑」の中で君ケ畑と同様に、木地師発祥の地とされ、今も「物づくりの聖地」として尊崇されている。
蛭谷の木地師の歴史は平安時代に遡る。平安初期、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王は皇位継承の勢力争いにより都を逃れ、ここ、奥永源寺に幽棲された。
山深い集落の良質な木々に着目し、書簡の巻物が回転する様子から「ろくろ技術」を改良して、木地製造に着手したとも伝わる。その技術がやがて全国に広まり、この一帯はろくろ木地発祥地として名をはせた。
このエリアは「小椋谷」と呼ばれており、現在も木地師の多くは「小椋」姓を名乗っているとされる。全国の木地師のルーツを辿ることが出来る場所である。

■■■蛭谷集落
戸数は減る傾向にあると聞く。
大昔はこの辺一帯を小椋の郷といわれていたが、寛文年間(1661~72)には筒井村と称し、その後昼滝と称え、元禄年中(1688~1703)より昼谷となった。
またヒルが多くいたので蛭谷と書くようになったともいわれる。


■集落入口の橋を渡ると、集落の中央を流れてきた水が、愛知川に流れ落ちてできた滝がある。不動滝といわれる。惟喬親王が落飾された所とされ、蛭谷を訪ねて木地業を習う者は、この滝で水垢離を捕ってから登ったという神聖な所とされた。

■案内
戸数が少ない中で小椋姓が目立つ。村中の所々に庚申塚が立つ。

■■■筒井神社
祭神:宇佐八幡宮 惟喬親王 
かつては、筒井正八幡神社・筒井八幡宮とも呼ばれた。
君ケ畑の大皇器地租(おおきみきぢそ)神社とともに全国の木地師の故郷の神社である。
平安時代前期の貞観7年(865)、この地に隠棲していたが宇佐八幡神を勧請、奉祀したのが起こりと伝えられ、現在の場所よりもさらに山深い筒井峠付近に建立された。
親王逝去後は、合祀して木地屋の祖神として崇め、村人こぞって奉仕したが、山中の木地師たちが次第に全国へ出ていき、祭事などが不便となったため明治のはじめに現在の所へ移築された。
全国の木地師とその子孫達は今日もなお、惟喬親王をろくろの祖神と尊崇し、この筒井神社とともに君ケ畑の高松御所(金竜寺)、大皇器地祖神社に訪れる人が多くある。

■由緒書と石碑
高い石垣を背にして神社下に立つ。高さ4尺幅2尺。青黒い表面に立派な苔が付いている。

■境内
子連れ狛犬が立つ。子連れは全国に多い。

■■拝殿

扁額は「東京都金属加工挽物協同組合」が奉納したもの。木地師だけでなく、ロクロを使って金属の挽物を業とする人たちにも信仰が引継がれている。

蟇股の彫りがいい

■■本殿

施されている彫刻がいいが写せない。

■一年神主
筒井神社のお世話は一切木地屋がした。その代表が神主であった。神主は全国の木地屋が交替で務めた。遠隔の地に入る者も本山に帰ってきて、一年間奉仕して、祭祀を一切取り仕切った。これを一年神主といった。天文年間(1532~54)にはすでに行われていた。1649(慶安2)年に至って常時神主を置くようになった。

■■小椋家長屋門
神社へ行く石段の途中右側に建つ.惟喬親王を擁立した藤原朝臣太政大臣小椋実秀にゆかりのある小椋正清家
小椋正清氏は平成25年2月に東近江市市長に就任された。

■■『帰雲庵』
筒井神社に登る石段の途中右にある。

惟喬親王昼滝で御落飾の後、庵を結ばれたのにはじまるとされる。その後寂室禅師永源寺開基の後、荒廃を修して禅庵とし、滝王山帰雲庵と称した。
以後、臨済宗永源寺派に属し、建物も幾変遷経た。現在の建屋は、寛文6年(1666)、僧豊山の改築した間口七間半、奥行五間のものに改装をくわえたもの。
本尊は観世音で、一説には鎌倉中期のもので立派といわれる。又親王の御像と木地師の元祖ともいわれる小椋実秀(おぐらさねひで)卿を祀る。

■■筒井公文所
帰雲庵に設置されていた。
全ての木地師は自らの氏子であると称して保護したため、江戸時代には全国最大の木地師支配組織が確立した。公文所は、その権威を高め、通行の自由・諸役免除といった木地師の特権を保護するため、お墨付きと称する朱雀天皇や正親町天皇の綸旨をはじめ、為政者の免許状の写しを下付した。木地師はこれらを持参して全国に飛んだ。
また、公文所は、氏子として木地師の身元を確認し、氏子狩や初穂料・奉加金などを集め、氏子には神札・御墨付などを配付しながら各地を練り歩いた。
その廻国の記録が「氏子駈帳」「氏子狩帳」である。

■■■木地師資料館
昭和54年に文化庁の助成に依り建設され、民俗学上貴重な資料とされている氏子駈帳其の他重要な文献並びに作品を数多く展示している。
全国の伝統木製品なども展示。木を求めて全国を渡り歩いた木地師の足跡が分かる。

■木製品

■■手挽きろくろ

昭和40年頃まで使われていた手挽きろくろ。
「軸二巻きつけた紐を左右の手で交互に引っ張り、もう片側で回転する木を加工する」という二人がかりで作業をする。
■■木札・印鑑・など

■■免許状・往来手形・など
足利尊氏・織田信長の御免状で、公文所当てに発行する者と、公文所の支配人から諸国木地師に発行する二通りがある。
近世の諸大名が木地師文書を追認し、領内での産業振興に利用したとされる。

■■惟喬親王御縁起

■■御綸旨

真偽を含めいろいろの説がある。歴史学者の間ではこれらが偽文書であるとされている。朱雀天皇(923~952)・正新町天皇(1517~1593)

■■氏子駈帳

1647(正保4年)から1893(明治26年)までの245年間にわたり、氏子狩利が行われてきたことは紛れもない事実である。

■■寄進帳

蛭谷から少し上に行くと道が二手に分かれる。右に取ると君ケ畑に続く。左に取ってしばらく行くと惟喬親王の墓所と筒井千軒址がある。




君ケ畑
東近江市君ケ畑町

年に一回行われる道路工事に出会って車が入れず、君ケ畑集落に入る手前、1㎞から歩く。標高700mの山々が迫る谷あいの道を歩く。山々の緑と渓谷の水音が暑さを吹き飛ばしてくれる。

■■■君ケ畑 かくれ里
民俗学のほうでは、山に住む神人が、冬の祭などに里へ現れ、鎮魂の舞を舞った後、いずことなく去ってゆく山間の僻地を「かくれ里」という。
君ケ畑に着きほっとする。山奥のかくれ里には「畑」の字のつく所が多いが、畑は焼き畑、切り替畑の意があるとともに、一つの国の傍らとか、端をあらわしてもいたのであろう。≪白洲正子 かくれ里より≫

■■■君ケ畑集落

蛭谷村の北東、御池川沿いにある。鈴鹿山系深部の秘境にあって、蛭谷から約3km、惟喬親王御陵から約4㎞強離れた距離にある。永源寺からは16km余りの道のりである。
古くは小松ケ畑といい、惟喬親王が当地に幽閉されたことから君ケ畑と呼ばれるようになったと伝える。全国の木地師がふるさととする地である。


六ケ畑の一番奥の君ケ畑が最もひらけているようで、暮らしも安定している感じ。戸数は30~40戸前後と思われる。屋根は茅葺にトタン屋根がかぶせてある。
道路は1本である。
茶畑の向こうに、神さびた森が見え、大皇大明神の社が建つ。その神社の隣に、金龍寺がある。

■政所茶で総称される茶が栽培されている。室町時代に始まる。旧来の栽培法を続けている。

■■木地屋根元地伝説
蛭谷と同様に小椋六ケ畑村の一つとして木地屋発祥の伝説があり、本居宣長の「玉勝間」巻六に「あふみの犬上ノ郡の山中に、君ケ畑村といふ有て、大公大明神という社あり、惟高親王をまつるといへり、村の民ども、かわるがはる一年づつ神主となる」と書かれている。
全国の木地屋たちに尊崇される大皇器地祖神社と高松御所と称したその別当寺の金龍寺があり、同寺に近世に奉加料・初穂料その他の儀式料などを集めて回った氏子狩帳が残る。元禄7年(1694)から明治にかけての五十三冊で滋賀県指定民族文化財に指定されている。
君ケ畑は、犬上郡の大君ケ畑(おじケはた 現多賀町)と混同されることがあり、いずれも惟喬親王流離譚に由来する地名である。実際には、大君ケ畑を含む犬上郡側を北畑、君ケ畑を含む六ケ村を南畑と呼んだが、中世末に両者が争い、北畑側が破れ、木挽の原料を近江の他に求めていった。君ケ畑は北畠に勝った後、今度は蛭谷との対立が始まるが、六ケ畑の中で君ケ畑と蛭谷が、木地師の伝承を色濃くとどめている。
ここには、元禄7年(1694)から明治23年(1890)までの氏子狩帳53冊が所蔵されている。さらに、文正6年(1823)には禁裏御所への「大皇大明神御祈祷札」の献上を再開しており、その時使用された「高松御所御用」などの木札が伝来する。
君ケ畑氏子狩帳 金龍寺に伝わる氏子狩帳附木地屋関係文書は、滋賀県有形重要民俗文化財である。

■■金龍寺
御池川北岸山裾にある。宗派:曹洞宗 本尊:釈迦如来
寺伝によれば、はじめは惟喬親王が当地に幽棲した時の御殿で、親王が創建した専光院と般若院を合併して金龍院とした。のち天台宗となり、寛文年間(1661~73)中興されたとき現宗派に改めた。大皇器地祖神社の別当寺で、高松御所と称した。
お寺ではあるが、仏教臭はほとんどなく、いかにも貴人が好む閑静な環境にある。
■山門

■境内

■鐘堂

■本堂

享保11年(1726)本堂再建した際の造営費は諸国の木地屋より勧進されたという。江戸時代二度の火災で本堂はじめ堂宇が大きな被害を受けた。
金龍寺の額は、中央に高松御所、左側に小さく蔵皇山金龍寺と書かれている。本堂・惟高親王堂には親王の木象が安置されている。

■■惟喬親王墓
金龍寺境内に隣接した苔むす石段の手前に石標が立つ。を登ると小高い丘の上に円墳があり小さな墳丘と石標が立つ。
「日本国中木地屋氏神惟喬親王御廟所」という石標

小高い丘の上に円墳があり、南北朝時代の宝篋印石塔があり、親王の墓所と伝えられている。石門には十六菊の紋がある。

親王の墓と称されるものは政所八幡や筒井八幡にも、京都の北山や大原、美濃の山奥にもある。よほど人気のあった方に違いない。
貴種流離譚は、日本人が最も愛した物語であるが、まして流浪の木地師たちにとっては、身につまされて哀れな境遇に思われたのであろう。

■ろくろと万年筆の碑
大正の頃、木地師が大阪で、轆轤の技報を活かして万年筆を生産。万年筆会社・惟喬親王奉賛会が万年筆用の足踏ろくろを奉納。記念に石碑を建立した。

■■大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)
祭神:惟喬親王
神社の風情、雰囲気を満々漂わせているお気に入りのスポットである。

社伝によると、貞観元年(859)勧請、寛平10年(898)の造営である。古くは大皇大明神社といわれた。その後、木地腕祖先の神であることを後世に伝えるために、器地祖の三字を加えて改称された(明治15年)。1893(明治26)年に内務省より当社保存金として金壱百円也を下付される。
全国の木地屋に尊崇されており、当社の改築には全国の木地師の寄進があって今日に伝えられ、今も全国から木地師が金龍寺に集まり、親王の法要を盛大につとめている。
同社の正月三日、九月七日に行われる御供盛はすし切神事で知られる。

■遠景

■アプロ-チ
石標は、木地師の根強い信仰を表す。

■鳥居の傍に建つ樹齢1000年を越すとみられる大杉、朽ちそうであるが天を衝く。

■境内散策
この社のスギは見事なもので、千年以上を経た大木が亭々とそびえる景色は、木地師の神の名に背かないものがある。
これらのスギ一本で堂宇修復の費用が賄えたとさえ言われる。

■拝殿周辺

■本殿周辺

■■ろくろ工房 君杢(きみもく) 小椋昭二氏
現在君ケ畑で唯一製作活動を続けておられる工房を見学する。
木地師は江戸末期から明治にかけて激減していった。小椋氏は1994(平成6)年に君杢を立ち上げた。岐阜の木材市場で仕入れを行うのは、トチとケヤキが主である。大まかな形に整える「木取り」をして3年、「粗取り」して1年、さらに1年乾燥させる。仕事場には用材が山のように積まれていた。
今は、盆や菓子箱が主で、木地のままでツヤを出すのでごまかしがきかない。何十年と使い込むうちに味が出てくる。見事な木目の製品に魅せられる。

ゴクモリ
君ケ畑は小椋谷六ケ村の中で地形的にも文化的にも、最もひらけているとされてきた。そのため住む人も比較的多い方であった。だが、現在は若い人が町外に出てゆき、定住者が減少している。その中で、ゴクモリという行事が綿々と続いている。
毎年正月三日、神社の社務所で20才から30才の男子11名が神殿で、蒸した米を輪にしたお供えを作くる行事である。この日だけは町外に出ている人も戻ってきて成立っていると聞く。村の若者たちが精進潔斎して、素襖姿に身を正し、全く無言のうちに荘厳に行われるという。厳格なしきたりと所作通りに行われ、今も女人禁制である。
1100余年続く神社の伝統行事も途絶えることのないようにと願うのみである。

 

惟喬親王御陵

蛭谷から百済寺へ抜ける県道を走ると、突然道幅が広くなった。そこが筒井峠であった、特別な所と思わせる場所、そこが御陵の入口であった。
案内板


君ケ畑
案内板によると、蛭谷まで1.7㎞、箕川2.3㎞、君ケ畑4.0㎞、政所まで5.3㎞とある。

ここ筒井は、蛭谷部落の西北にあり、昼なお暗い杉の大樹に囲まれた約四千五百坪の盆地を中心とした周囲の山地をいったもので、里人はまた御陵山とも言っている。惟喬親王に関わる神社跡、御殿跡、墓所などがある。

■■親王の御命日にあたる十一月九日には、蛭谷の男子は斎戒沐浴して、白布をもって口をおおい、無言の礼をもって内外の大掃除をする。女人の入山を絶対に許さず、男でもみだりに立ち入ることを堅く止められ、第一の聖地として、親王の尊厳を保つように努めている。
平成15年(2003)7月21日、この周辺に全国から1500人程が集まった。

■■■惟喬親王御陵
鳥居が目に入る。ここが惟喬親王御陵とされる場所である。
「惟喬親王御廟筒井正八幡宮日本国轆轤師等鎮守、当国麻生山庄京都江戸大阪木地屋惣中建之、元禄七甲戌三月五日」(1694)の石碑がある。
傍に立つ「敬天愛人」の石碑は原田観峰氏の作品で、西郷隆盛が最も好んだ言葉とされる。建立のいわれは不明である。


■■参道
狭い渓にかかった石橋を渡ると、左に高さ約2m、約30cm角の石柱が立ち、正面「惟喬親王幽棲之趾」とある。

■■冠石

親王様がここで休憩の際に冠を置かれたとされる。

■■惟喬親王尊像

惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子として844年に生まれる。藤原氏に追われ、897年この地にて生涯を終えたとあるが異説も多い。「これたか」とは、これ新たなりという言葉とされる。

■■御殿跡
南のやや高くなった数十坪とされる。

■■小祠
東向きの山腹に、石段を設け、二十坪程の平地に、一間に一間半、石の玉垣をつくり、左右の扉に菊花と五三の桐の紋が刻んである。

この囲いの内に高さ三尺の宝篋印塔が立っている。四面に梵字らしい刻跡がある。これが親王のお墓と称されるものであるが年代は不詳である。
その前に立つ石柱には、「素覚法師八百年会式塔 神道 皇太明神 延宝六戌子年年十一月九日 願主大岩助左衛門尉藤原朝臣重成」とある。
延宝六年(1678)は、親王の亡くなられた年から数えて、八百年に当たるので、十一月九日には全国の木地師が筒井の聖地に集まり、餅八百を始め多くの供物を神前に供えた。また、因幡、但馬二国の木地屋仲間より八百の献灯があって、全山昼を欺く明るさで、帰山の者どもを随喜させたといわれる。

■■拝殿
手造くりの拝殿

■■筒井八幡宮

愛知県一帯を勢力範囲としていた秦氏が、北九州の宇佐八幡神宮を勧請し、秦氏の氏神として筒井八幡宮を創建したともいわれる。

■■境内
平成15年(2003)7月21日、この周辺に1500人程が集まった。

■■筒井千軒址
延喜(901年)、延長(923年)の頃には、筒井を中心とする一帯の山々には、工人で埋まった。
宮跡といわれる北面の小高い平地から今では一面スギの密林地を言ったものだが、それはあまりに狭く千軒を収容できない。筒井を中心として、犬上川の上流から東、君ケ畑川の間一体の山地を言ったものと思われる。

筒井社地図
規模の大きさが推定出来る。

親王が筒井の里に隠棲のみぎり、即ち貞観7年(865)に宇佐八幡宮を御勧請され宮を造られたのに始まるとされる。親王逝去の後は、合祀して木地屋の祖神と崇め、村人こぞって奉仕していたが、明治のはじめに社殿を現在地に移した。

≪参考≫
氏子狩・廻国先地図

木地師の里訪問先地図
全国の山々を駆け巡り、木地師の里を訪問された岸本浩二氏の「木地師の里」より引用

参考資料≪木地屋のふるさと、かくれ里をゆく、近江・大和、滋賀県文化財報告書、永源寺町史、木地師の里、他≫





木地師の里

小椋谷の能面

木地師と面打・神像 ≪白洲正子「かくれ里」より≫
(室町時代の面打の名人)彼らの祖先たちは、山奥の木地小屋で、黙って神の顔を彫り続けたのであろう。
近江には能面ばかりでなく、神像もたくさん残っており、いつも私は仏師の彫刻とは一風違うと思っていた。
・・・・彩色よりも生地に重きをおき、彫りが生硬で素人っぽいこと、そのくせ刀の跡するどく、気迫に満ちていることなどで、その謎は今解けたように思う。
神像も、能面と同じように最初は木地師が作ったものに違いない。
木を職とし、糧とする人々が、樹木を神聖視しなかったはずはない。

■■世阿弥の芸術論「申楽談義」(1430年成立)に記述されているように、近江には赤鶴(しゃくづる)と愛智打ちという優れた面打がいたが、なかでも愛智打ちは、日吉社領荘園である愛智庄の奉行職を勤めた坐禅院(比叡山延暦寺末)に属し、女面を得意としたことで知られていた。
永源寺政所・蛭谷・君ケ畑には、室町時代までさかのぼる古面が数多く伝わっている。木地師発祥の地だけに、この地域の木地師が愛智打ちのように、面打ちも手掛けるようになったためでないかいう説もある。
能面は江戸時代初期にかけて完成時機を迎えるが、永源寺近辺にはそれに先駆けて、いまだに定型化・類型化をみない過度的で多彩な面が多数伝わっている。

■■■八幡神社蔵(政所)

能狂言面 三十面 』 長浜市市指定文化財 能衣装 4点、内1点国重要文化財

八幡神社は80才前後の集落の長老に管理が委ねられており、能面・能衣装は年一回行う虫干の日に限って公開される。場所は社務所内である。
この長老たちの先代の子ども時代には、この面をかぶって遊んでいたとのこと。1811(文化8年)の火災で、関係書類が焼けてしまい不明の「物」として扱われてきた。
1952(昭和7年)著名な仮面研究家の中村保雄氏が古面の存在を知り、初めて重要品であることが認識された。中西氏が広く紹介され、能面作家見市泰男氏の手で保守が行われ、現在に至っている。
中村氏は、演能に必要な面は50点ぐらいでかなり不足している。火災やその他の理由で流出したのであろうが、残念の一語につきると語っておられる。
今のような保管方法・状態には限界があり、何らかの方策の検討が急がれる。

所蔵の能面は、翁面・鬼神面・尉(じょう)面・女面・男面・神霊面に、狂言面と行道面を加えた多様な種類がみられる。
制作年代は、室町時代末期作と、室町時代末期~江戸時代初期、江戸時代中期~後期の作の大きく3つに分かれる。

以下に列挙する。
■■翁面

八幡神社に伝わる能面の中で最も古いものである。翁は天下泰平、三番叟は五穀豊穣、父尉は子孫繁栄をそれぞれ祈願する「式三番」という神事能で使われる。これらの三面は室町時代の作で、1811(文化8)年の火災で大きく損傷している。キリ材製で、切顎としている。

■以上3面は1811(文化8年)の火災までは、ご神体に準じ本殿内祀られていた。


4翁、5三番曳、6父尉の三面は、火災で損傷した1~3の古面に代わって新調された江戸時代後期の作。切顎で古面の姿を伝える。7翁はやや古く江戸中期。

■■鬼神面

8大飛出、9小飛出、10牙飛出は室町時代末期の作。飛出は阿形の鬼神面で、目が飛び出しているのが特徴。大飛出は冠型を表し耳が付く、天上を駆け巡る鬼神役。小飛出は地上を駆け巡る鬼神役で使われる。牙飛出は上下の牙から命名された。
これら三面は、大きく開いた目に金環を嵌入し、開口して歯列や牙に金泥を差したり、鍍金した銅版をかぶせたりする。

11は室町末期から江戸初期にかけての作で、吽形(うんぎょう)の鬼神面。口を一文字にきつく結ぶ意の(ヘシム)に由来する。本面は素地を表し、裏面までノミ痕を残さず平滑に仕上げており、木地師と面打ちとの関連が想定される。12は額の三日月のシワや耳がないのが特徴。室町末期の作。



■■尉面


13尉(住吉)、14尉(小尉 こじょう)は室町末期から江戸初期の作。尉面は老人の面で、頭髪を植毛して結髪を表し、眉・口髭・しわ・歯列の表現の違いから細分される。これらの面は上歯列のみを表し、眉・口髭を黒彩と銀泥彩で交互に毛筋描きし、額髭のみ植毛する「小牛尉 こうしじょう」の特徴を備える。
15尉(三光尉)は室町末期の作。歯列を上下とも表し、口髭・顎髭を職申し、深く太い皴を刻む。左右非対称の表情は、完成に近いもう面である。

16悪尉は室町末期から江戸初期の作。悪尉の「悪」は悪いという意味でなく、強力で恐ろしげな霊力をもつこと。眉間の深い皴や重く被さった瞼、額両脇の浮き立った血管が特徴。

■■女面

若い女面で、添毛の描き方から17~19「小面 こおもて」、20「孫次郎」21(増女)の形式に分かれる。小面は可憐で雅やかな若い女性の面の意で、三筋の添毛が特徴。孫次郎は、創作者金剛右京久次(孫次郎)が亡き妻の面影を写し取って作ったとされ、添毛が二段になる。増女は添毛が三段になる。

22は中年の女面で、「深井」の特徴を備える。深井は中年女性の心情や表情の深さから名付けられた。6面とも室町末期~江戸初期の作である。

■■男面

23~25は若い男面である。いずれも室町末期~江戸初期の作。23は十六歳で没した平敦盛の相貌を写したとされる。24・25はいずれも振り分けた髪の中央に銀杏型の前髪を表す「喝食」の特徴を備える。喝食とは、禅寺で食事の時間を知らせる稚児のこと。24は裏面右こめかみ部に「大喝食」の墨書名がある。
25は13尉と同じ作者である。

■■神霊面その他

26神体は室町末期の作。神体は神そのものの面で、見開いた瞳に金環を嵌入し、超人的な神威を表す。27怪士(あやかし)は室町末期から江戸初期の作。
見開いた目に金環を嵌入する。怪士は海上の妖怪で、海に沈んだ武将の亡霊薬に使われる。
28般若は江戸時代の神霊面。髪を中央で左右に振り分け、角二本を表し、瞋目(しんもく)に銅板を嵌入する。開口し、上下歯列と上下に二本ずつ牙を表す。
29賢徳は狂言師の男面。右上方を見つめ、上歯列で下唇をかむのが特徴で、馬・牛・犬などの動物に用いる。江戸中期の作。
30鼻高は行道面。悪霊退散のため、祭礼行列の先頭に位置する露払い役に用いる。室町初期の作で、別材製の大きな鼻先が特徴。

■■能面裏面集≪引用:政所若宮八幡神社の能面・能衣装より≫

■■保管箱
ケースに入っているのは数えるほどである。ケースはかなり古いものである。詳細不明

■■■能装束
八幡神社で、能面と一緒に所蔵され保管されている。 
唐織一領、ぬい箔一領、側次一領、狩衣二領の計五領の能装束が伝来している。加えて能装束を解いた裂(きれ)を含めた五枚の残欠裂も伝来している。
八幡神社に於いて神事能がいつごろからどのような形態で行われてきたか未詳であるが、桃山時代から江戸時代にかけての能装束の伝来から、八幡神社の神事猿楽が桃山時代にはかなりの体裁を整えていたといえる。
一点は国重要文化財の指定を受けている、

■■紅地花唐草入菱繋文唐織(べにじはなからくさいりひしつなぎもんからおり) 一領 身丈:144.0cm
国重要文化財

唐織と呼ばれ、女役の上着に用いる。紅地に各種の色糸の絵緯(えぬき 文様を表す横糸)で文様を浮かして織り上げている。
花唐草入りの菱繋文様を白・紅濃淡・藍濃・浅葱・萌黄など十色ほどで縫い取りにした唐織である。文様は全面に三重菱を割り付け、菱の中に菊花様の八弁花と唐草をおさめている。その割り付けた菱と菱との間には卍字菱・花菱を順次並べ、その交差点に六弁花を据えた菱繋のタスキ文帯を配置する。

■■白地貝藻草花紙散文肩裾ぬい箔(しろじかいもくさはなしきしちらしもんかたすそぬいはく) 一領 身丈:135.0cm
附 国重要文化財

■■紅地折枝綾狩衣(べにじせっしもんあやかりぎぬ) 一領 身丈:151.5cm

何れも桃山後半から江戸初期に製縫されたもの
表は紅の四枚綾地に12cm大のモモ・芙蓉・梅・牡丹の折枝文を段に織った綾、裏はガーゼ状に織った白平絹を用いた袷仕立て狩衣である。

■■萌葱地牡丹唐草文銀欄側次(もえぎじぼたんからくさもんぎんらんそばつぎ) 一領 身丈:88cm

表は萌黄地に牡丹蓮唐草文様を織り出した銀欄。裏に薄藍染の麻を用いて、袷仕立てとする。形状としては垂領・脇明毛で前身と後ろ身の裾を共裂でつないでいる。銀欄の特色として横糸の打ち込みがゆるく、全体に縦糸がよろけて見える。なお、銀の酸化や剥離で文様は分かりにくくなっている。

■■■大皇器地祖神社蔵 木造能面 六面
親王遠忌などに神能を興行していて、領主井伊氏に能面二面を見せたこともあるとされる。
現存する能面は制作時期により大きく二つに分かれ、1翁、2三番叟、3父尉(ちちのじょう)、延命冠者が室町末期、5翁、6三番叟が江戸中期の作とされる。
■■所蔵能面

■1翁(白色尉 はくしきじょう)は冠型を表す。
開眼して目の輪郭を山形に穿ち、二重まぶたとする。鼻孔を穿つ。開口し、上歯列二本を表す。顎髭の植毛痕を残す。胡粉地彩色で、冠型に墨彩、唇に朱彩を施す。キリ材製で、頭部から顎迄一材より彫出する。
■2三番叟(黒色尉 こくしきじょう」
開眼して目の輪郭を山形に穿ち、左目の下が台形状になっている。眉間から鼻にかけて斜めの皴線を刻む。全面を黒彩する。キリ材製で一材から彫出する。
■3父尉は冠型を表す。
開眼して目の輪郭を杏仁形でやや吊り目に穿ち、二重まぶたとする。キリ材で一材彫出である。
■4延命冠者は冠型を表す。
開眼して目の輪郭を山形に穿ち、二重まぶたとする。鼻孔を穿つ。開口し上歯列を表す。胡粉地彩色で、上歯列を墨彩する。
キリ材製で一材から彫出する。
■5翁は冠型を表す。
額から頬にかけて皴を刻む。開眼して目の輪郭を山形に穿ち、二重まぶたとする。胡粉地彩色で、冠型を墨彩する。唇は朱彩を施す。
ヒノキ材製で、一材彫出する。
■6三番叟は冠型を表す。
額から頬に懸けて皴を刻み、開眼して目の輪郭を山形に穿ち、二重まぶたとする。顎髭を植毛する。胡粉地彩色で全面を墨彩し、口髭
眉・顎髭などを白色系彩色で毛筋描きする。唇朱彩。上下歯列白彩、裏面は透漆塗リ。ヒノキ材製で一材彫出する。

■■■筒井神社蔵
「毘沙門」と呼ばれる狂言能「室町末期~江戸初期」と「若い男」の能面(江戸初期)が伝わる。

■■■今後に期待
この地域にはまだまだ多くの能面がある。萱尾(かやお)の大滝神社には翁面(江戸時代初期~中期)、黄和田の日枝神社には1757(宝暦7年)の墨書銘を持つとされる般若面、茨川(いばらっかわ)の天照神社にもかつては若い男の面(江戸初期~中期)が伝わっていたとされる。政所の年輩の方のお話では、個人的に持っておられるものもあるという。
能面の重要性とともに木地師との関連、この地域における猿楽の動向などの背景が、個々の情報の収拾でつかめないかと思われる。

<参考>
政所の能面と能衣装が虫干し終了後、彦根城博物館の企画展に駆り出されました。借出しに際しては、能面のキズや変色の度合い、小さな塗料剥離の塊、など意匠もおり方、など双方で確認してから梱包となります。文化財の搬送時の雰囲気に少し触れました。

近江の能について、説明の中に少し触れてあります。

参考資料≪永源寺町史、日野町史、政所若宮神社の能面・能衣装、他≫




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