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滋賀県東近江市 甲津畑
Kozuhata,Higashiomi city,Shiga

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Mar.25,2016 中山辰夫

東近江市永源寺町甲津畑

「案山子と棚田の風景、信長の通った千種街道を歩く」−ハイキングに参加した。
八風街道や千種街道はよく耳にするが歩く機会がなかった。現地で配布の資料に期待して何の準備もなく参加した。
が、資料の配布はなく、ボランテイアの説明を聞きながらの散策となった。

永源寺の最寄りは近江鉄道八日市駅である。そこからバスにのる。一時間に一本程度しか走らない。
      

この地域は、名刹永源寺と木地師の里・君ケ畑がよく知られている。山間地で辺鄙な地域である。
永源寺町は、北・東・南は1000m級の山々が連なる。鈴鹿山系に接し、鈴鹿山脈から流れでて北東から南西に流下する愛知川に沿って集落が開けている。
 

鈴鹿山脈を越えて伊勢四日市を結ぶルートが二本あった。八風峠を越える八風街道と杉峠を越える千種街道である。中世頃から近江商人が大いに活用した。

愛知川に沿って国道421号が町域を横断している。この道は中世の八風街道とほぼ同じで、八風峠を越えて伊勢に入る。
 

千種街道のスタートである甲津畑を目指して東近江市永源寺支所よりスタートする。まず国道421号線に沿って歩く。ラフな地図を片手に・・・・
  

国道沿いに並ぶ安養寺〜日登美美術館〜古民家 (永源寺町山上)
   
安養寺は山上藩稲垣氏の陣屋跡に建つ。日登美美術館は、「図師禮三・清子」が50年以上に亘って収集した美術品を展覧する私的美術館。
収蔵点数は約1000点。 その中で、特にバーナード・リーチの作品が、300点以上と国内外屈指のコレクションになっている。
日登美美術館では国産の生ブドウを100%使用したワインが飲める。ブドウ畑と工場がすぐ近くにある。
    

リアルすぎる案山子
           
カラスは来なくなったが、代わりに人間が多く来て・・・・。在住の北村氏が、定年後畑作業をする中で、知恵のあるカラスと闘う過程でうまれた傑作!

新田地域と稲荷山 図書館を目指す
広々とした田園の中の散策は気持ちがいい。 桜は「永源寺桜」、かつて永源寺の境内にあったことから名付けられた。減少して、今は幻の桜となったとか。
    
立派な永源寺図書館
   

のどかなヨモギ摘みの姿やため池を過ぎると茶畑や桑畑が広がる。桑の葉はブームの健康食品用に栽培されている。
    

千種街道に入ったと告げられる。想いはもっと幅広だったが、さもありなんと気づく。
    

千種街道
千種街道は、甲津畑から渋川沿いに進み、杉峠、神崎川源流、根の平峠(千種峠)を経て朝明川沿いに下り、千草から菰野を経て四日市に至る道である。
山越商人の権益の及ぶ商業路であった。今でも鈴鹿越えの中では舗装されていない、一番長い山道である。
中世八風と千種のルートを支配していたのは近江商人の山越商人で、わけても今堀の保内商人が大きな力を持っていた。このルートで伊勢に至り、彼地の商品を仕込んで湖東地方へ搬入し利益を得ていた。その後ろ盾は佐々木六角で、利益の一部を上納していた。後の織田信長-八風越えは有名である。
 

茶畑と桑畑 土が黒く、茶は黒茶で有名であった。
  

田中長佐衛門の碑
「井水功績進問之碑」は分水を巡る水論に活躍した庄屋田中長左衛門の功績を讃えるために1961(昭和36)年に建立された。
今でも堰の水利に浴する集落の住民により、毎年9月12日に追悼供養が行われている。
    

和南新田を出て、和南川に沿って南へ、川上の甲津畑を目指す。

街道の両脇は桑畑と茶畑、手の入ってない田畑も多く見かける。昔の街道らしさを味わう。
  

甲津畑棚田(和南) 高台から望む 高齢化で棚田の維持が課題となっている。
       
今も貴重な灌漑用水、その導入口。鈴鹿山系が間近に迫ってくる。甲津畑の集落が近くに見えるが歩くとかなりの距離があった。
   

甲津畑
千種越の最初の集落である。甲津畑は最奥の集落ながら戸数は多く、人家が密集している。江戸期の寛永の石高帳では551石とあって、かなり裕福であったが
この時期に領主が5代も代わっている。
甲津畑集落である。交通の要衝として上の津と呼ばれたことから名付けられたとされる。
     
甲津畑集落地図
 

甲津畑集落内を散策する。

甲津畑は、2q程続く鈴鹿山系の山裾、伊勢国境の近くにある集落で、西部を北西に流れる和南川左岸にある。昔から交通の要衝であった。
1376(永仁2)年頃、速水泰氏が大和興福寺領の公文職として館を構え、その子信義は塩津の公文職を兼ねた。
甲津畑には甲津畑城があり、速水氏は、代々甲津畑城を居城とし、室町時代は六角氏に臣従した。後は信長に従った。
 

千種街道が甲津畑を通り、中世頃には山越四本商人が伊勢通商を独占していた。通商の特権拡張は、この地域を治める守護佐々木六角の後ろ盾で実現していた。その隊商、旅人の通行の安全は、この速水家が管掌して根の平峠までを支配していた。街道に出没する盗賊の取締りと、風水害による街道の保全など、甲津畑の村を挙げてそれに当っていた。

立寄れなかった藤切神社
東近江市甲津畑町
781(天応元)年勧請、808(大同3)年社殿造立 現在の社殿は1802(享和2)年の建立。付近は藤切神社遺跡として、平安時代の寺院及び神社跡として(滋賀県遺跡地図)に登録されている。社殿造営には約20の集落が奉加した記録が残る。苔に覆われた石段道が魅力とされる。
「藤切)の名は、四天王寺建立の際に、この地から黒葛を切り出したとか、聖徳太子が藤葛を刈り神体を彫刻したことからと伝わる。
祭神の田心姫命と市寸島比売命は「宗像三神」と称えられる神で、速い水の流れと深い縁がある。
当社は古来的の神事あり、佐々木氏の寄進による大幕を現存する。
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行二間 〔本殿〕三間社入母屋造向拝付 間口二間 奥行一間三尺
   

浄源寺(1411 応永4年)と浄光寺 いずれも浄土真宗
        
両寺とも甲津畑城の曲輪の一部でもあった。
小学校より一段下がった所に浄源寺、さらに一段下がった所に浄光寺がある。蓮如とゆかりがある。両寺はもと天台であったが、蓮如が来てから真宗に改宗した。

蓮如上人は寛正年間(1460〜66)に比叡山の荒法師に本願寺が破却されて、近江の堅田から日野に逃れ、この村人の案内で山道を塩津までのぼり、その山中の炭小屋で一泊して、根の平峠から伊勢へと教化に向かわれたとされる。


信長駒繋ぎの松

信長は三度永源寺町域を通過する伊勢越のルートを辿っている。一回目は1559(永禄2)年の八風越、二回目は1569(永禄12)年の千種越−伊勢国を領地化した時―三回目は1570(元亀元)年の千種越である。
 

信長駒繋ぎの松は、速水勘解由佐衛門宅の松である。この集落内には、現在も速水姓の人が多い。
   

信長は、越前攻めで浅井長政に背かれ急遽朽木越えで帰京、岐阜への帰郷の途中、浅井勢に中山道を閉ざされたが、甲津畑の速水勘解由らの援助を得て千種越えを行った。この時、佐々木六角氏の手勢杉谷善住坊が大岩で陰に待ち伏せしてた。弾は少し外れ信長は命拾いした話が残る
      

ボランテイアさんから聞いたお話→信長から勘六佐衛門への贈り物「あわいっこく」
 

甲津畑城跡→甲津小学校→日本ラチーノ学院
甲津畑城跡
和南川左岸の現甲津畑小学校一帯が城跡とされる。規模や遺構は不明で、浄源寺・浄光寺辺りまで地域が広大であった。
甲津畑小学校は、現在「日本ラチーノ学院」として、関西唯一のブラジル人学校となっている。
    

甲津畑の集落を東へ歩み、スタート地点への帰りとなる。この辺りからは目に入ったものを羅列する。
藤切川
   

千種街道は山路となる。

千種越えの道はこの辺りから山道に入り過ぎ杉峠を越えて伊勢に至る。杉谷善住坊の隠れ石もほどなく現れ、杉峠へと登り道が続く。
隠れ岩〜蓮如上人御旧跡石碑〜向山鉱山跡〜ブナ古木並木道〜杉峠(標高1042m)〜老杉〜雨乞岳〜鉱山跡〜更に続く
     

これから先は場所の特定はできないが、気付いたものだけ並べる
獣害防護柵
高さ3m強の作が蜿蜒と続。多雪による雪害の多い地域であるが、雪の少ない年は獣害が多い。
1759(宝暦9)年には領主の許可を得て村の周囲に猪垣を建造している。闘いは古くから始まっている。
 

多度神社

和南寺の守護神として山王権現を祀っている。
    

光明寺 1300(正安2)年創建される。その後衰退し、慶安年間に再興され、臨済宗永源寺の末寺となる。
    

池田牧場
搾りたての牛乳を使ったイタリアンジェラートが自慢の店。口にして生き返った!
    

参考資料≪永源寺町史、他≫



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