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滋賀県東近江市 山部神社,赤人寺

Yamabejinja/Shakuninji ,Higashiomi,Shiga

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東近江市下麻生町214 赤人寺七重塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 文保2(1318) 石造七重塔 文保弐年戊午歳九月日の刻銘がある 19600209


Sep. 2010 撮影: 中山辰夫

 

下麻生村

上麻生村と同様に中世麻生庄の遺称地。古く当地は下七板(しもなないた)と呼ばれた。嘉暦4年の山部神社文書にも地名が散見できる。

田園風景が広がる下麻生辺りは、12世紀頃に花山院家領の麻生荘として開かれた地域で、荘園時代の歴史を伝える社寺や中世の石造物が数多く残されている、

麻生口バス停から西へ500mほど行くと、下麻生町の集落となりその中央部に山部神社がある。

今も万葉の香りが感じられる場所とされている。赤人はこの地で生涯を閉じたと伝わる。

山部神社

東近江市蒲生下麻生祭神:山部大神山部神社は、赤人寺(しゃくにんじ)と隣り合って建っており、万葉の歌人・山部赤人を祀る。旧村社

麻生口バス停から西へ500mほど行くと、下麻生町の集落となりその中央部に山部神社がある。

今も万葉の香りが感じられる場所とされている。赤人はこの地で生涯を閉じた、と伝わる。

境内には《田子の浦に 打ち出て見れば 白妙の 富士の高値に 雪はふりつつ》の新古今和歌集の歌碑が建つ。

言い伝えでは、赤人寺の本尊は、山部赤人が田子浦より招いた観音像とされる。田園風景が広がる下麻生辺りは、12世紀頃に花山院家領の麻生荘として開かれた地域で、荘園時代の歴史を伝える社寺や中世の石造物が数多く残されている、神社は、鎌倉時代以降は荘園や地方水論にかかわる等、当地の中心的な存在としての役割を果たしたと伝える。

造営に関する記録が少なく建立年代は不明であるが、様式上は16世紀初期と推定される。万葉歌人にまつわる寺社とあって、明治時代には境内で盛大な歌会が催され、全国から多くに歌が寄せられた。

戦後まで、集落では厄年の男性を囲んで酒宴を開き、出席者が各自1首ずつ、その男性へ和歌を贈る風習があったといわれる。

 赤人寺とともに山部赤人の伝説の地とされるが、中世には小松宮、江戸時代には小松大明神と称されることが多く、古くは松の木を神木とする産土神であった。

18世紀以降、地誌類などで当社と山部赤人との関係が取りざたされ、慶応元年(1865)桂園派の歌人渡忠秋の勧めで領主であった旗本関盛章の撰により赤人廟碑の碑文が刻まれ、明治元年その碑が境内に建立された。

碑文には赤人寺は山部赤人の創建で「小松社は」は赤人の廟にあたり、近くには赤人の墓や赤人桜とよぶ桜木があったと記す。

廟碑建立に奔走した忠秋は高島郡南船木村(現安曇川町)の出身で、近世後期の国学隆盛といった社会状況が背景にあった。

廟碑建立を契機に赤人の山部神社が定着して行った。

拝殿

入母屋造 間口二間五尺 奥行二間五尺

本殿

一間社流造 間口三尺一寸 奥行四尺四寸 覆屋あり、柿葺 様式手法から室町後期のものとされる。

社宝

藤原期のものを含む古鏡4面、室町時代の掛仏3面が残る。境内社:八幡神社 津島神社 稲荷神社

赤人廟碑

山部神社中世文書

この神社には、平安時代から室町時代にかけての古文書63点が伝わっている。

この古文書は「蒲生郡志」編纂に際して見つかったもので、内容は、麻生荘の支配に関するものから生産活動・信仰生活に関するものが含まれている。

麻生荘は鎌倉時代には市子壮・綺田壮とともに花山院家の荘園であり、中世村落の姿を物語る貴重な資料である。

ケンケトまつり

国選択無形民俗文化財

旭野神社・高木神社・山部神社3社合同の春祭りで、千年近い歴史を有する。この辺りが平安〜室町時代に藤原氏一族や京都の社寺の荘園だったことから、装束や儀式が当時の風習を伝えるとされる。

祭りの中心の一つは、小学生以下の子どもら7人が担当するカンカというお囃子と、中学生以上の少年による長刀振りである。役に当たった子どもたちは「鐘の叩き方が難しい」「裸足で足がイタイ」等と言いながらも練習に熱中。

無事に祭りが終わる頃には、「今の祭りをずっと続けたい」と頼もしく言い放つ。

保存会の人たちは、高齢化が進みいつまで続けられるかと不安が抱きつつも、「祭りがこの地区に生まれた子の誇りになってくれている。

それがうれしい」と目を細めて子どもたちの言い分を聞いている。参考資料《近江蒲生郡志、滋賀県の近世社寺建築、滋賀県の地名、蒲生町の文化財、他》


赤人寺(しゃくにんじ)東近江市蒲生下麻生天台宗下麻生集落にある。山部神社と隣り合っている。

蒲生巡礼十九番目の札所である。

寺伝によれば、万葉歌人・山部赤人の創建で、本尊も赤人の作と伝える。

観音信仰を核とした村堂「観音堂」が山部赤人との関係を取りざたされ、江戸時代後期に赤人創建の寺という伝説が定着したとされる。

境内には、鎌倉時代に建てられた石造七重塔は国の重要文化財である。

寺と神社は同じ方向に建てられており、権現造りといわれるもの。

寺伝によれば万葉の歌人山部赤人の創建で、終焉の地とも伝える。里人の言として同様の伝承が「輿地志略」にも見られる。

本尊観世音は赤人が田子浦より夢想の告により迎え来て安置した所で、赤人の作とも云うが、事古くして創造時代の史料も存在しない。

鎌倉末期よりの寄進状は十余通残存しており、これらが観音信仰の盛況さを証明する。

しかし中世の寄進状には「あかう寺」と記し、又下七板の御堂とも見られる。下板七は下麻生の古い名である。その後、「赤人堂」の表記が最も多くなる。実際には観音信仰を核とした村堂(観音堂)であり、やがて地誌類などを通して山部赤人との関係が取りざたされ、江戸時代後期には赤人創建の寺という伝説が定着したとされる。

慶応元年(1865)山部神社境内に建てられた赤人廟碑では「養老年間(717〜724)赤人による創建」と刻され、赤人の墓がこの地にあるとされている。近年に入ると歌会なども行なわれるようになる。

石造七重層塔

国重要文化財

境内裏庭に建つ。文保2年(1318)の作とされ、赤人塔と通称される。

この塔は、下から基礎・塔身・七個の笠からなり、相輪は欠失しており、別のものが載せてある。

基礎から塔身までの高さは2.1mである。

この塔は、各部が良く揃っており、鎌倉時代在銘の七重塔として貴重とされる。

参考資料《近江蒲生郡志、滋賀県の地名、滋賀県の近代寺社建築、他》

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