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滋賀県彦根市 中村商家保存館
Nakamurake,Hikone city,Shiga

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Oct.9,2014 中山辰夫


彦根市旭町3−23

国登録有形文化財:主屋・旧酒蔵:文庫蔵

中村商家保存館はJR彦根駅から歩いて数分の距離にある。


立派な構えの商家である。(前面)

■■■建屋とその関連
彦根城下の東部地区を南北に通る町屋街の角地にある元酒小売店舗。
明治末に改築された建物であるが、江戸期の様式が残り、城下町の歴史的景観を先導する建物とされる。

当家はおよそ370年前の江戸時代の寛永年間(1624〜1644)に、現在の地に地割りをもらい本家から分かれて居を構えたことに始まり、
現当主は12代目を数える。
分家して間もなく酒造をはじめ、生業として長く受け継がれてきたが、明治の初めから販売専業に転じ、敗戦後の環境変化に追随できず1950(昭和25)年廃業に至った。その後昭和55年頃まで、生活空間を除く部分を貸店舗とする時代があったが、建物の老朽化が進み、大修理後1997(平成9)年より商家保存館として再生された。
建物は現存の三棟即ち主屋、旧酒蔵、文庫蔵が平成11年国の登録文化財となり、主屋の生活部分と文庫蔵を除き、日にちを限定して公開されている。
三棟共に明治の終わりに大修理されているが、内部の細かな造作を除き、修理前の江戸時代の姿を残している。
■■主屋
主屋は、間口約14m、奥行約12mの規模。表棟は、平入り、切妻造りで、店部分の二階は厨子「津市」二階となっており、二階部分のみ外面は塗籠となっている。
表棟は、横に二分されて、下手の商用空間とその隣の接客空間となっている。三つの主要空間が三角配置になっている点が他の町屋と異なる。
■土間とみせの間

商用空間は、広い店土間とみせ間からなる。入口左手の独立部屋はおなごしの部屋。土間と床上部の境に大黒柱が立ち、天井は根太天井である。
大暖簾は幕末、文久年間のもの。

■接客の間
持仏堂と座敷部とからなり、専用の前栽を持っている。客間は棹縁の高い天井で、客に対する儀礼から二階は持たない。部屋の四隅には長押を回し、釘隠しを用い、古くからの浄土真宗の家らしく、一間幅の大型仏壇を置く。

■仏間

京都西本願寺から下付を請けた像高50cm余の木造が本尊・阿弥陀仏如来立像で、西本願寺専属の仏師初代康雲の作である。
在家にこれだけの法量の木仏が下付された例は珍しいとされる。
■正信偈と三帖(浄土,高僧、正像末)和讃三種

地味な表装の方には嘉永の年号と宗主の証判が入っている。
■前栽

■小屋組の実物展示

当家で一番古い建物であった酒蔵を平成8年に解体撤去した。
登り梁に残る蛤刃の手斧(ちょうな)からこの建物が17世紀中頃の建築、即ち建築当初のものである。
明治の大修理前の主屋が建築当初のものであった。
■無双窓付き戸

■■二階
厨子二階で畳部屋は低い棹縁天井になっており、船底型に湾曲している。この部屋は丁稚部屋である。天井の無い部屋は物置である。
建物の小屋組が分かる。

大黒柱の上から四方に太い梁を投げかける傘建構造(からかさだて)の骨格となっている。往時、この地は雪が多くそのための対処である。

■■台所

■上水道

井戸は湧き水井戸でなく、溜め水井戸である。この付近の土地は地下水が浅く水質が劣るので、江戸時代の中頃の宝暦年間(1751〜1764)に約1km離れた良水脈系に井戸を掘り、この水を太い竹を導水管として、地中に埋めてこの地まで導水した。江戸時代の民間上水道として全国的にも珍しい。

■■文庫蔵 (非公開)。

文庫蔵は、2階建ての瓦葺切妻屋根の土蔵。桁行約7m、梁間約4mの規模で、扉や額縁廻りの漆喰装飾が丁寧な造りの蔵である。

■■旧酒蔵展示館
酒蔵は、2階建ての瓦葺切妻屋根の土蔵。桁行約15m、梁間約7mの規模の酒蔵で外部は改装されているが、内部は旧状を留めている。
この建物の入口は現状と異なる。扉は分厚い土蔵製の大きな観音扉で、その内側に木製の大きな引き戸があった。
蔵内部はかなりの広さにも拘わらず、内部の支柱は大黒柱一本しかなく、周囲の側柱は半げん毎に太い柱が建てられ、それらの間を数多くの貫で通し固め、壁は竹の小舞いでがっちりと堅く固めてある。天井も太い丸太の根太が入っている。

■展示品
当家の銘酒三銘柄の資料、建部氏関係文書が並ぶ。

町役関係書類、多賀大社社馬頭人関係分書、林屋辰三郎先生関係資料、などが展示される。机上には日常の生活用具が並ぶ。
■旧釜屋
酒を腐敗(これを火が来るという)から守るために、仕入れた酒を低温殺菌する操作で、このための大きな竃(かまど)を有する釜屋建物があった。

■中村商家年表

■■■建部氏関連

■■建部伝内賢文
中村家は建部家と縁戚関係にあったことより建部家関係の資料が多く残っている。
建部氏は代々、近江守護佐々木六角氏に仕え、近江国神崎郡建部郷の地を本領とし、佐々木氏の重要な支城箕作(みつくり)城主を努めた。
室町末期、佐々木六角氏の最後の当主、承禎義賢(じょうていよしかた)が出るにおよんで、その能書で広く名が知られるようになった。
伝内賢文(1532〜90)は、当主義賢の「賢」の一字をもらって「賢文」と名乗り、当主の出家の際には共に出家するほどの忠勤ぶりであった。
しかし織田信長の戦で佐々木軍が敗走したため本貫の地で蟄居し、もっぱら書の道に精進した。信長からの仕官の招きにも応じず、旧主への節を全うした。
安土城の「ハ見寺」建立の際には、総門の掲額を揮毫した。後に豊臣秀吉にも請われて京都聚楽第の扁額も書した。
■伝内秘伝書、ほか
伝内が創始した書法は京都青蓮院の尊圓新王の流れを引くもので、字形よりも、筆線の勢い、力強さ、重みに重きをおく謹厳、端正な書風で、後に「伝内流」「建部流)と呼ばれた。

69才で生涯を閉じた伝内賢文は近江八幡市安土「東光寺」に葬られている。

その後も建部家一統は人材に恵まれ、各界で活躍した。其の事例である。
■■筆頭右筆家としての建部家
建部伝内賢文が創始した伝内流書道は、1596(慶長元)年に、伝内の三男の建部昌興(まさおき)が徳川家康に召しだされ、伝内流を以って徳川の御家流とするとの沙汰を受け、書の指南と右筆に取り立てられた。江戸幕府では御家流をもって公用書体としたため、庶民階級に至るまでこの書体を学んだ。これが寺子屋隆昌の端緒になった。この一連の動きは、江戸時代文化発展の基礎ともなった。
建部家は昌興以後も数代にわたって幕府の奥右筆、表右筆を勤め、右筆筆頭の家柄として重きをなした。

■■和算の家柄としての建部氏
伝内の曾孫に、賢雄(かたお)、賢明(かたsき)、賢弘(かたひろ)の三兄弟がいたが、ともに和算の才に恵まれ、中でも1664(寛文4)年生まれの賢弘は特に秀れ、天文、暦学にも秀れた。
徳川吉宗に幕府の顧問として迎えられ、日本和算学の初代関孝和の跡を継いで二代目となった。和算学においては独自の微分学の基礎を開いたことで知られる。
測量事業においても、享保期の地図制作にあって、賢弘は方角の正確さに重きをおいて『享保日本図』を完成させた。二枚作られた清書は、長く所在がわからず、縮図や関連資料が知られるのみであったが、今年5月に広島県立歴史博物館寄託資料より発見され、大きな話題を呼んだ。

■■松前交易商人としての建部氏
織田信長との戦に敗れた建部氏の一族が、爾後仕官を止めて彦根に近い柳川村に住み着き商人となった。
中村家が縁組みしたのはこの氏族であった。
江戸時代寛永の終わりごろ、柳川村の建部七郎右衛門と田附新助が琵琶湖を船で北上し、山越えで小浜若狭に出て、船を建造し、今の北海道松前の地に至った。
松前・奥羽地方を調査した後、柳川・薩摩2カ村の有志を募って「両浜組」を結成し、松前での商業・漁業に取組んだ。
そしてそこに御場を開拓し、交易を始めた。建部七郎右衛門と田附新助、この二人は北海道交易の開拓者であった。

松前や江差に入った商人の出身地は99%が八幡と柳川・薩摩の出身者で、寛永年間(1624〜44)に集中した。
その後も蝦夷との交易は、近江商人の独断場であった。
蝦夷江差の図・ほか (田附新五郎氏所蔵:近江商人事績寫眞帖)



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