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滋賀県彦根市 高宮宿
Takamiya post town, Hikone city, Shiga

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May 9, 2016 瀧山幸伸 movie

                                                                                                                   

東に進む。鳥居元宿方面へ
      


Jan.2011 撮影/文:中山辰夫

彦根市高宮町

愛知川宿を出でて中山道を進む。豊郷・尼子を経て、犬上川に架かる高宮橋(無賃橋)を渡ると高宮宿である。
高宮宿は、中山道の宿場町と多賀大社の門前町として、さらに、この地で織られる麻織物「高宮上衣(じょうふ)」の問屋町として大いに繁盛し豊かな経済力を持っていた。近江国全村中でも、志賀郡下坂本村についで二番目の村高であったとされる。
今も高宮の街中には多賀大社の大鳥居がどっしり構え、古い民家も残り、かつての宿場町の面影を感じさせる佇まいである。
    

江戸時代に入ると、幕府は宿駅制度の整備を始めた。
慶長7年(1602)、高宮はその基本となる伝場継所に定められ、中山道六十九次のうち六十四番目となる彦根藩領の宿場となった。
天保14年(1843)の記録では、町の南北の長さ七町十六間(約800m)、総戸数835軒、人口は3560人で、中山道10番目の本庄宿(埼玉県本庄市)に次ぐ中山道第二の大宿で、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋は23軒などの施設を持つ宿場であった。
また近くの多賀大社の門前町としても賑わい、多賀大社の一の鳥居が宿中ほどに建っている。
さらに、この地で織られる布は「高宮上衣(じょうふ)」と称され、室町時代頃から全国的に有名で、商人や職人の多い宿でもあった。

宿場は幕府の道中奉行と領主の二重の配下にあった。宿場には宿場機能を維持するために、旅宿のための本陣・脇本陣・旅籠屋・茶屋といった施設が設けられた。
本陣・脇本陣には、大名や勅使・公家・旗本などの公的旅行者が休泊した。一般の旅行者は旅籠屋に泊まり茶屋で休息を取った。
参勤交代などで大名が高宮宿に宿泊したり、休憩したりする時には、彦根藩は受け入れ準備や接待に随分気を使ったようだ。

江戸時代宿場絵図・道中記からみる高宮宿
          

高宮町(宿)案内
 

無賃橋
彦根市高宮町
中山道が高宮川(犬上川)を横切る地点は平常時の干水期においては通行には支障なかったが、一度出水をみると川越人足が川越賃を取って旅人を越えさせていた。しかし、明和4年(1767)仮橋の施設が行なわれ、天保初期には有志により募られた義損金で橋が架けられ、旅人に無料で開放する「無賃橋」がうまれた。
   

無賃橋石碑とその周辺
高宮川の右岸堤防上に建つ石碑 表面は「無賃橋」、左右面は「むちんばし」、裏面は「天保3年壬辰十一月」の各銘文がある。
周囲に無賃橋地蔵が新設された。橋を過ぎたあたりから元宿場の雰囲気が漂う。
   

本陣跡
本陣跡を示す表門が円照寺向かいの小林家前に残されている。
小林宅は嘉永元年〜幕末の本陣役を勤め、高宮宿本陣の表門と絵図のみが現存する。
その絵図より、間口15間4尺、裏にて、16間2尺5寸、奥行28間、敷地448坪。内建坪123坪、残り315坪が空地であった。
他の宿と同様、主客と側近社用の書院と家族の生活空間の三つの領域があり、利用者の身分によって空間が四段階に序列化されていた。
    

脇本陣跡(塩谷家)
塩谷家は慶長13年〜明治維新(1608〜1868)まで人馬継立をおこなう問屋と脇本陣を兼務した。門脇に高札場が設けられていた。
建坪は74坪であった。 絵図が現存している。 
本陣と同じく、門塀を構え、主客用と側近用と家族用の三つの領域がり、利用者の身分で空間が四段階に区分されていた。
    

高宮寺「別に記載」
奈良時代に行基と婆羅門が、仏教応化の地を選んで伽藍を建立して称讃と号したのにはじまるという。
   

円照寺「別に記載」
   

妙蓮寺
真宗大谷派、もと天台宗。
慶長5年(1600)浄土真宗大谷派の初代門跡光寿(教如)が、関東で家康に謁しての帰路、関が原で三成に阻まれ危機に瀕したのを当寺院の宗如が信徒を率いて保護したので教如は無事であった。その恩賞として慶長16年(1611)、当寺院は寺号を得る。庭園がある。
   

徳性寺
  

紙子塚
芭蕉着用の紙衣を壷に入れて埋め、自然石に「紙子塚」と刻んだもの。
由来は定享元年(1684)の冬、芭蕉は門人の僧季由を訪ねた際、同宗派の当地の円照寺(住職は慈雲)に滞在した。
三日後、寺に来客があり、慈雲は芭蕉のもてなしを小林猪兵衛忠淳に頼んだ。忠淳は芭蕉を行脚頭陀と思い泊めた。
その夜、芭蕉は「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠み、僧の元へ贈ったので、翌日慈雲が芭蕉を訪れた。
忠淳はその時初めて僧が芭蕉と知り、大変感激して芭蕉に新しい着物を着せ、この吟を自分に譲って欲しいと慈雲に頼んだ。芭蕉は快く自画像を描き、吟を記して忠淳に贈った。
芭蕉の没後、忠淳は彼画賛を掛幅となし、かたみの古紙子で装飾し、余った紙衣をひとつの壷に入れて庭園に埋めて碑を建造して紙子塚と名づけた。
  

高宮道(多賀道)
中山道の高宮宿から多賀大社への正式な参詣道(表参道)である。大社はここから3km先にある。
寛永8年(1631)将軍秀忠の病気平癒祈願のため、春日局の代参が行なわれた折、彦根藩がこの道の整備を行った。
    

尚白句碑
「道端に多賀の鳥居の寒さかな 尚白」と刻まれる。芭蕉の門人で大津の医者であった。
 

多賀大社の大鳥居
県指定有形文化財 県下最大級
江戸時代石造の大鳥居。高さ約11m、柱の直径1.2m、柱間約8mの明神型。多賀大社造営に伴い寛永11年(1634)に再建された。
鳥居に架かる扁額は寛永15年(1638)頃、後に天台坐主となる尊純親王(青蓮院門跡)の染筆と伝える。
   

常夜燈
大鳥居脇に一基現存する。「多賀不動院」と刻まれる。対をなす同形のものが打籠馬場に一基ある。
元々は当地で対をなしていたが、度々の洪水で流失するので一基だけは移築させたと伝わる。
    

御神燈
高宮道に沿って一町毎に立つ。「嘉永6年(1853)癸丑」奉納者名を刻む。
写真55〜56103×21×14cm 大鳥居の右脇にある多賀道の道標。「是より多賀道三十丁」と刻む。木曾路名所図会にも描かれている。

多賀賽銭箱と道標
中山道往来者で、社前まで参拝できない旅人のために設置された賽銭箱である。
文化5年(1808)に、古くより設置された記録あり。
103×21×14cm 大鳥居の右脇にある多賀道の道標。
「是より多賀道三十丁」と刻む。木曾路名所図会にも描かれている。

   

高宮郵便局と町並
宿場町の景観を考慮して設計された郵便局
郵便局前の提灯屋。 無賃橋近くの「とおし屋」、他にささらを作っている店もある。
    

宿駅跡と布惣跡
高宮布は麻の細糸で織った布。珍重され、彦根藩は毎年将軍に献上していた。

       

庄屋跡
現在の当主は14代目で、建物は250年前の築造と伝える。高宮神宮の表参道の左側に建つ。
   

高宮神宮「別に記載」
    

高宮駅コミュニテイセンター
    

    

木之本分身地蔵
高宮宿の入口に設けられた地蔵堂。周囲に石仏、石塔の集積がある。
    

木曾海道六拾九次之内 高宮 広重画
 





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