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滋賀県日野町 近江中山の芋くらべ祭
Imokurabe Matsuri,Hino town,Shiga

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Sep.1, 2013 中山辰夫 


日野町中山

国指定重要無形民俗文化財
800年以上の伝統を持つ日野町中山東・中山西の野神を祀るお祭り。祭の最後に芋の長さがくらべられる。昔から西が勝てば豊作、東が勝てば不作とされる。
”民”の中から生まれ育てられた祭。その中にはルールがあり、所作も決まっている。過大、華美でなく、物差しにあった祭具、台詞の掛け合い、味わいのある舞、など重要文化財に指定されていることが納得できるものであった。今年は降雨のため拝殿で行われたが、山上の祭場で行われるのを是非見たいと思っている。

■■■会場ヘのアプローチ
付近地図

■■最寄駅の近江鉄道日野駅前には祝祭日はバスもない。タクシーもない。まして祭の案内もない。熊野神社を目指して約2qを歩く。今にも降りそうな空模様。
交差点のある三十坪は大化の改新(645)直後に行われた条里制が残る地名。法養寺(真宗)を右手に見て日野川橋を渡る。

■日野川橋から中山に入り県道178号線を進む。

■熊野神社付近
案内の立つ交差点を右折する。まもなく熊野神社、金剛定寺の参道へつながる石段が右側に並んで見える。

■■中山集落
芋くらべ祭が行われる中山集落は、近江鉄道朝日野駅より約1.5q、日野駅より2qの所にある。南東には遠く鈴鹿山脈を望み、東は日野川の清流が見下ろせる場所にある。
中山集落は、金剛定寺によって発生し、寺と共に生き、古代〜中世の興隆、そして退廃へ、さらに近世に至っては武家が支配する陣屋の郷となって、今日まで一千有余年、盛衰興亡の歴史を歩んできた。その間の農民の心の支えは信仰であり、その表現が山神や野神の祭として今日まで伝承されてきた。
この伝承儀礼の一つが「芋くらべ祭」である。

中山付近と金剛定寺

■■■祭礼の概要と特色
■■系譜
大字中山は、日野町西部の必佐(ひっさ)地区に位置し、東谷・西谷・徳谷の三つの集落からなる。東谷・西谷と徳谷には、それぞれ「芋くらべ祭」という祭礼行事が伝えられている。
芋くらべ祭は、中山の熊野神社の氏子である東谷・西谷の二つの集落がそれぞれ里芋(トウノイモ)を奉納しその長さを競う祭礼で、野神山に設けた祭場で行われる。近年は毎年9月1日を祭日としている。くらべる芋は集落で育てられ、長さは、親芋から葉の先までの長さをいう。

■■祭の始原
日野町周辺で見られる野神祭りの系譜を引くもので、秋の実りを祈る農耕儀礼の性格を帯びている。神饌に早稲(わせ)の加工品や秋の収穫物を供える事、子どもたちによる角力が神事の中にあることも野神祭りの特色である。
尚、芋が祭礼に於いて重要な役割を果たすのは、芋が稲作伝来以前の常食であったことの名残であり、米食普及前の畑作を中心とする文化のあり方を示す。
さらに、古式を伝える神饌や意匠、それに独特の所作や台詞の存在は、祭礼の流れに演劇的な効果を加えている。
その他、祭祀組織や準備から祭礼の当日に至る東谷・西谷の競争と補完の在り方も双分制と呼ばれる原理が徹底されている。

■■■起源と伝説
残念ながら確実な史料が残されていない。「金剛定寺縁起」の中に記述があって、嘉応元(1169)年とあるが傍証がないとされる。
伝承としては大きく三つある。最も知られるのが、大男ダザボシにかかる伝説で、近江国の真ん中の土を駿河国に運んで富士山を作っていた時、ちょうど中山の所で芋茎(ずいき)で出来た天秤棒を折ってしまい、代わりになる芋茎を村人に探させたのが、芋くらべ祭の由来とする話である。
他に「妹比べ」「天女の芋くらべ」という話を起源とするなどが知られる。

■■■祭りに関わる人々と祭具
祭礼当日の主役である山若(やまわか)、山子、指導にあたる勝手(かって)、大老人(おとな)などと呼ばれる東西両谷の男性の役割がある。それぞれ細かな取り決めがあるが、昨今は員数不足でままならず、同じ人が毎年繰り返し登場することが多いようだ。

■隊列
熊野神社や祭場へ移動する際の隊列

■■山若
若者の集団で、本来は家の跡継ぎで構成する。員数は7人。数え16歳以上の男子。年齢順に一番尉(いちばんじょう)、二番尉と呼ばれる。

■一番尉は「神事掛」と呼ばれ、神座の脇に座り、神に神饌を捧げたり、神の三三九度の盃の儀礼など、直接神に接する役割を果たす。その衣装は、東西とも黒の素袍(すおう)、袴を着け、烏帽子を着用する。一番尉の素袍には大紋があしらわれており、東谷は「上下対鶴」、西谷は「束ね熨斗(のし)」を用いる。

■二番尉は神事の進行役で、東西間の打合せや、三三九度盃の補佐,芋くらべの審判などを行う。衣装は麻の裃(かみしも)。

■三番尉は芋を比べる役割を負い、「芋打ち」とも呼ばれる。「神の相撲の行司」も行う。
山若共通のいで立ちは、腰に大小の刀を差す、足袋を付ける、腰に印籠を提げている。

■■山子と勝手

■山子
神事に奉仕する子どもたち。かつては8歳〜14歳までであった。年長順に一番尉・二番尉と決まり,祭場の石並べや竹組み、当日は「神の角力」神事を行う。
服装は紺絣(こんがすり)に兵児帯(へこおび)を締める。

■勝手と正装した神主
山若を経験した人で、東西で1名が務める。神事の作法の指導や、当日は神饌の準備や祭具の手渡しなど、裏方的な役割を果たす。


■■大老人
山若を終えた者のうち、東西各6名の計12名で構成される組織。祭礼の総取締に当たる役目を持つ。神事の作法の伝承や、祭祀の準備、会計事務にあたる。

■■■祭具
幣と笏(しゃく)は山若の一番尉がもつ。

■■幣は毎年作り替えられ、長さ約60cmの篠竹に紙垂(しで)及び麻をつけたもの。
笏は東西で大きさや表裏に描かれる図柄に差異がある。東谷は表にマムシ・裏にムカデを描き、西谷は表に剣・裏にムカデを描く。

■■「定尺(じょうしゃく)」は、芋の長さを測る物差しで、その製作は毎年東西が一年毎に交代で当番を努め、当番の山若三番尉が製作する。直径60cmほどの樫の木を長さ24cm程度に切り、祭礼の前日に当番の三番尉が、他方の三番尉立会いの下で真二つに割ったもの。当日「定尺改め」を行う。
定尺は祭礼が終わった後、年号や芋の長さなどが記録され、保存される。

■■■当日までの準備

■■神饌
神事の中心となる人々だけでなく、早稲や秋の収穫物からなる神饌も大きな要素である。男性だけでなく家の女性も加わって作る。
神饌は、餅・伏兎(ぶと)、御鯉(おり)、センバ、ササゲ(ササギ)、カモウリ(冬瓜)の6種類である。
餅は直径20cmの鏡餅で約70個準備される。伏兎はコメの粉を水で練り、平たく伸ばし、5cm角に切ったもの。
芋茎をきって茹で上げたセンバ、水炊きしたササゲ(小粒の小豆)、水炊きしたカモウリ

■御鯉は、鯉の形をした団子の一種で、米粉を練って臼でつき、木型に入れて伸ばしたもので、葉鶏頭の紅の葉を絞った汁で着色したもの。中山の各家の女の役割とされ、決まった数を作る。
お土産用と油で炒めた御鯛 懐かしいシンプルな味で結構おいしかった。

■■カワセノハンギリ
大きなハンギリの中に、人形などを用いて「忠臣蔵」など歴史的な物語の有名な場面をあしらった「ダシ」の一種。このダシには、里芋の葉の上にヒノキの葉が敷かれ、その上に御鯉が敷き詰められている。カワセノハンギリを進上するのは、四番尉の役割で、進上者の氏名を記した半紙が付けられる。

降雨が懸念されるので、先に祭場を写しておいた。結果としてラッキーであった。今年の野神山での祭りは降雨で中止となった。

■■■野神山祭場作り
野神山は標高約160mの山で、今は熊野神社の飛び地である。祭場は山頂部にある。

■祭場模式図

■菱垣(竹矢来)で取囲まれた幅約13m、奥行約8mの楕円形をした祭場。内部には洗い清められた石が敷き詰められ、中央奥に御神木が祀られる。

■御神木の左右には東西それぞれの神座が設けられ、御神木に向かって右側が東谷、左側が西谷の領域となる。

神座は、洗い清められた石が縦横約80cm、高さ約50cmの枡形に積み上げられたもの。この四隅には先が三つ叉になった樫の木が立てられており、その上に漆枝を組んだ枠が置かれ、さらにその上に竹で編んだ棚をのせる。

■神座にある棚には、「金石」という、叩くと金属音のする石が吊り下げられている。

■祭場の真ん中に位置する東西の境界上には「芋石」がおかれる。祭礼の当日には「芋竹」を突き当てたり、定尺を突き合わせる台となる。

■ムカデ道
野神山の麓から祭場に向かう道の真ん中には細長く栗の葉を並べる。ムカデが這っているように見えるのでムカデ道といわれる。

野神の祭場作りは、子どもの員数減もあって一週間前から地域民総出で行われるようになったと聞く。

■■芋おこし
用いられる芋は両谷で栽培され、各当番の三番尉が事前に芋の長さを測定しておき、祭礼の当日に掘り起こされ泥を洗い流し、芋の飾りつけを行う。
一番芋は孟宗竹に結わえつけて飾り付けられる。この竹を「芋竹」といい、竹は直径15cm、長さ約5mである。芋の葉が萎れないように他の葉で覆う。
芋竹の三か所に縄を結わえ付ける。その際に、藁で出来たタマといわれる膨らみを作る。次いで、半紙に包まれた定尺が芋竹に結びつけられる。

■■■熊野神社
お祀りの準備が揃いつある。拝殿〜本殿〜社務所

祭礼当日の午前八時頃には、神主をはじめとする大老人が熊野神社に集合し、山若や氏子から届く神饌の受付をする。
神事は午後13時より始まる。今年は雨が降っているため、勝手が違うところがあるようだ。

■■芋竹の到着
本殿に向かって右側に西谷、左側に東谷の芋竹が立て掛けられる。

山若と勝手は本殿への参拝を済ませて、社務所での神事に臨む。山子は境内で待つ。

■■社務所行事
東西の山若・勝手と神主が着席し、東西それぞれの五番尉・六番尉が酌人となって、東西の一番尉・二番尉に三三九度の盃の儀礼がある。三番尉以下は流れ盃でこれを回し、最後に神主に盃を収める。

■■祭場への移動
社務所での盃が終わると、正の二番尉が「山へ登って如何でござるか」と問う。これを受けて福の二番尉が「如何にもよろしい」と答え、東西の三番尉以下に伝達されて山へ登る準備が始まる。連帯を組んで「ソーライ ワーライ」と唱えながら進む。東は約800m、西は約1100mを異なった道を歩く。
東谷と西谷とは異なったコースをたどって祭場へ向かう。

今年は雨の為、芋くらべの行事は拝殿で行われた。

■■拝殿が祭場
拝殿の床に芋石に代わる角材を床に打ち込む。祭場とほぼ同じ並び方をする。拝殿に全員が入るとやや手狭である。

■■「水廻し〜神を拝す〜芋を添える〜神の膳を供える」の儀式が行われる。
双方の最末席に座る七番尉が酌人となって、一番尉から順に水で口をすすぐ。以下全て順番が決まっている。担当の番尉の台詞が山若全員に伝わって動きが始まる。所作が決まっている。神饌は六種類、順番に受け渡しが行われる。一番尉は、神饌を竹箸で取り分けて、竹で組んだ「神の膳」に供える。

■■「神を拝す〜神の三三九度」(この作法は、小笠原流の作法といわれる)

■■「神を拝す〜吾々の膳を出す」
膳へ出されるものは神へ供えられたものと同じ。個々人の盆にかなり粗っぽく投げ込むような入れ方である。

■■「カワセノハンギリ」を出す
「ハンギリ」の中に入れた人形を交換する。

■■「神の膳を徹す」〜「神を拝す」〜「吾々の膳を下げる」〜「吾々の三三九度の盃」〜「芋打ちの酒肴を出す」〜「釣石を切る」

■■「神の角力を取る」
東西別々に3組取る。行司役の三番尉が扇子の軍配を下し、山子の間に割って入り勝負がつけられることはない。

■■■芋打ち神事
芋打ちの所作は芋くらべ祭の最大の見せ場であり、山若三番尉を中心としたその所作・台詞にも観客の注目が集まる。
芋打ちの儀式の次第は、定尺改め、一回目の芋打ち、東西の突合せ、二回目の芋合わせ、東西の芋の長さの発表の順に行われる。
芋打ちの回数は三回が多いが制限はない。

■■芋を出すこと
先ず、正の二番尉の「芋を出しては如何でござるか」というと、副の二番尉が「如何にもよろしい」と受け、その意向が全員に伝えられる。
芋竹が本殿から拝殿に運び込まれ、山若全員が決まった役割につく。(山の場合は、祭場へ運びこむ)

■■定尺あらため
芋竹が出されると、正の二番尉が「芋を打っては如何でござるか」と問い「如何にもよろしい」と副の二番尉が「如何にもよろしい」と答える。

■■一回目の芋打ち
定尺が済むと一回目の芋打ちに入る。
正の二番尉が「芋打ち、いざ立って打ちたまえ」と双方の山若三番尉に命じる。これは芋を撫でるように調べる所作がなされる。

芋を打つ所作が終わると、四番尉が定尺の印ごとに芋を叩くに合わせて、三番尉は「神の踊り」を踊る。定尺を何回当てたか踊りの回数でしめす。
この手足の運びは、千鳥足で体を左右に古所作で、泥田に足を踏み込んだような奇妙な所作で「ドンジョフミ」と呼ばれている。
この所作は芋打ちの度に繰り返される。

■■東西の突き合わせ
「双方打たっしゃったか」「打ちましてござる」「双方打ったと申しますけれど、神事の芋の儀なれば互いに長短を争う次第、よって芋打ち立ち替わって打たせては如何でござるか」「如何にもよろしい」の台詞のあと、「芋打ち立ち替わって改めよ」と正の二番尉が三番尉二人に命じて東西の芋打ちが互いに相手側の芋を打つ。

■■二回目の芋打ちと東西の突き合わせ
東西入れ替わって芋を打つ。「うたっしゃったか」「打ちましてござる」「何と打たっしゃったか」「東の芋より西の芋は、七、八尺も九尺も、一丈も二丈も三、四丈も五、六丈も長う打ちましてござる」「東の芋より西の芋は七、八尺も九尺も、一丈も二丈も三、四丈も五、六丈も長う打ちましてござる」とお互いに勝を譲ることはない。
「双方長い長いと申されますが、互いに欲目もありがちのこと、もう一度改めさせては如何でござるか」と提案、「如何にもよろしい」と応じる。そこで、正の二番尉が「芋打ち、もう一度改めよ」と命じる。

■■三回目の芋打ちと東西の芋の長さの発表
双方の山若の三番尉は、正の二番尉の言葉に従い、自分側の芋をもう一度測る。所作はこれまでと同じである。自分の芋の長さを発表して勝負が決まる。
西の芋が長かった場合は、西から「東の芋より西の芋は、七、八尺も九尺も、一丈も二丈も三、四丈も、五、六丈も長いかと思いましたが、只今の儀につきましては、僅か一尺ばかり長う打ちましてござる」といい、これを受けて東谷の三番尉が「私は先ほど欲目でもござったか、西の芋より東の芋は七、八尺も九尺も、一丈も二丈も三、四丈も、五、六丈も長いかと思いましたが、只今の儀につきましては、わずか一分ばかり短こう打ちましてござる。」と答える。

西谷の方が、東谷より芋が長いと、芋の長短が判明すると、「芋の長短も相わかれば、例年通り芋を取り替えては如何でござるか」と問うと「如何にもよろしい」「芋打ち、尋常に芋を取り替えよ」となる。
「尋常」「尋常」の声に合わせて、東谷の芋は西谷へ、西谷の芋は東谷に渡される。

「まずは祭礼も滞りなく相済み、これにてお別れ致しては如何でござるか」「如何にもよろしい」となり、「山を下りること」と山若全員に言いつがれる。
これにて、野神山での神事は終了となる。

拝殿での神事は、若干割愛された部分があるかもしれない。

■昔から西が勝てば豊作、東が勝てば不作という伝えは今も残っている。

大字中山のもう一つの集落である「徳谷」にも芋くらべ祭りがある。この徳谷の芋くらべ祭は、神饌や祭具など東谷・西谷のものと共通する点も多い一方、実際には芋が比べられることがない。

参考資料≪中山史、近江日野の歴史、近江中山の芋くらべ祭利調査報告書、他≫




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