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滋賀県日野町 中野城跡

Nakanojo ato,Hino town,Shiga

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Sep.17.2014 中山辰夫

(日野川ダムを併記)

蒲生郡日野町西大路日野は有名な戦国武将蒲生氏郷の出生地であり、鎌倉時代から安土桃山時代にかけての400年間は蒲生一族の城下町として栄えた。

氏郷が三重の松阪城に日野から赴いたときに同行した三井家は三井財閥の元祖とつたわる。中野城は、蒲生氏郷公の祖父定秀公が築いた城で、定秀・賢秀・氏嵯の三代の居城であった。

平地に築かれた城は、主郭の周囲に堀(幅約9m、深さ3m)と土塁(幅約9m、高さ3m)がめぐっていたという。

築城年代は、1504(文亀4)、1524(大永4)、天文年間(1532〜55)と諸説がある。築城には約3年間を要し、延べ10万余人の人夫が動員された。

その周囲に城下町が築かれた。当時は本格的な城下町が余りなかった時代で、大変先進的なことであった。今に残る日野の町割りにその姿を留めている。

案内

本能寺の変で、信長が明智光秀によって京都で討たれたとの情報はほどなく安土へも届いたが、多くの人がただ混乱する中、賢秀は信長の妻子たちを中野城へと避難させた。その当時、近江国内でも光秀に従う武士が多い中、それに従わなかった賢秀の判断は適格で、先見の目が備わっていた。

賢秀・氏郷父子のこの功績により、氏郷には知行の宛行(あてがい,給付)が行われる。本能寺の変を境に、蒲生家の当主の座は氏郷に譲られた。

現況図

土塁や堀の一部が残っている。土塁上に建つ神社や石垣は江戸時代のものである。土塁の高さは約4〜5mで、盛土であることが特徴である。

城跡

中野城を囲む土塁や堀などは、市橋氏の仁正寺藩が成立したのちも、破壊されずに残されていた。

蒲生城跡見取図

破壊されずに残されていた中野城を囲む土塁や堀などは、第二次世界大戦後の開墾や日野川ダム建設工事で旧状は大きく改変された。

西大路藩藩庁跡

1584(天正12)年に蒲生氏が伊勢国松ケ島(松阪市)へ転封となった後、中野城は慶長年間(1596〜16159)に廃城となった。

江戸時代には、仁正寺(にんしょうじ)藩主市橋長政が当城跡の北東部に陣屋を構えた。

少し離れたまちなかに建つ

中野城碑と氏郷公産湯の井戸

日野城下町は、中野城(西大路)の北側に家臣居住地が配置され、その西側に町人居住地が広がる後世になっていた。

日野城下町周辺地籍図

日野城遠景

★日野川ダム日野川ダムは昭和41年に完成した治水・灌漑ダムで、周囲約3.2キロ。

ダム湖周辺には、散策道やダム公園、休憩広場が整備されており、日野城跡も隣接している。

関西では有数のヘラブナ釣りの場として釣り客の間で知られている。

参考資料≪近江日野の歴史、他≫

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