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滋賀県日野町 旧正野薬店
Kyu Shonoyakuten,Hino town,Shiga


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Sep.17.2014 中山辰夫

旧正野薬店 (日野まちかど感応館) 
蒲生郡日野町村井1284

初代正野玄三は1676(延宝4)年18歳の時、木曽路から東北方面への行商を始め、26歳で独力行商になった。35歳(1693・元禄6年)の時京都で医業修行に入った。5年後に開いた医業は評判上々であったが、1701(元禄14)年、売薬業へ転身した。日野商人活躍の原動力となった「萬病感應丸」の誕生であり「日野売薬」の始まりである。豪商中井源左衛門や山中兵右衛門もこの感應丸で基礎を成したと言える。
正野本家の薬は「日野薬品工業」に引継がれ「正野萬病感應」の名で今なお健在である。

店舗を兼ねた本宅の間口は50mにも及ぶ。その外観は富を誇らず質素であるが、良質材を使い、丁寧につくられた佇まいである。
1999(平成11)年に「店舗棟」「東蔵」「包装場棟」が国登録有形文化財に指定された。その「包装場棟」が再建中であった。
今回は外観と付近の撮影に終わった。
感應館廻り外観

一部内部

包装場再建工事

付近
蒲生家の菩提寺(信楽院―改修工事中)や願証寺が並ぶ

願証寺
宗派:浄土真宗

信楽院の近く、同じ通りである。
1570年〜1574年にかけて石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の桑名市)を中心とした地域で本願寺門徒が蜂起した一向一揆、いわゆる長島一揆が起こり、織田信長との間で三度にわたり激しい合戦が行われた。
この長島一揆で信長に攻め滅ぼされた願證寺の一族が、千草峠を越えて日野にたどり着き、蒲生氏家の庇護のもと、長島願証寺を建立した。
天正16年、松阪に移った蒲生氏郷と一緒に願證寺も松阪に移った。

願証寺は浄土真宗高田派として日野に残った。



 

Mar. 2010 撮影/文: 中山辰夫

旧正野薬店(きゅうしょうのやくてん) 《日野まちかど「感応舘」》

蒲生郡日野町村井1284

感応舘は、かつて日野椀に代わり日野商人の行商の主力商品となった合薬「萬病感應丸」の創始者正野法眼玄三の薬店であり、現在は日野まちかど感応舘(観光協会)として利用されている。
平成8年(1996)に日野町に寄贈され、店舗・東蔵・包装の計3棟が平成11年11月16日付で国登録有形文化財建造物になった。
近江日野商人舘(旧山中兵右衛門家住宅 既報)も同様の指定を受けている。

今も一階屋根上に「創業元禄十四年 萬病感應丸」の大きな看板が掲げられている。 元禄14年(1701)

館内には、日野町の薬業の資料展示、喫茶コーナー、観光協会事務所があり、日野町の観光案内や散策時の休憩に利用されている。
建屋は国登録有形文化財建造物に指定されている。

「八幡表に日野裏」といわれるが、家の外観は富を誇示せず質素であるが、良質の材を使い丁寧に造られた佇まいを見せており、質素倹約を旨とした日野商人の姿勢があらわれている。
商家の外観ではあるが、その間口は50m余りにおよび、建物も数棟が並び重なっている。

生活の場であるため、現在の公開部分にとどまる。店舗は改修のために撤去されている。

登録有形文化財指定の建屋

店舗
国指定登録文化財:H11.11.18 :基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの
構造:木造2階建、瓦葺、建築面積117u:
建築:明治初期
店舗棟は切妻造、瓦葺、二階建で、西2間半は落棟である。
2階壁面に格子入りの窓を2カ所開けている。1階部分は東蔵とのつなぎ部分半間と壁部分半間を板張りとし、続いて3間半をガラス戸、半間を陳列窓とし、さらに1間と2間の格子を建てる。

東蔵
国指定登録文化財:基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの
構造:土蔵造り2階建、瓦葺、建築面積117u:
建築:大正期

店舗の東に隣接する東蔵は切妻造、瓦葺、2層で、白漆喰塗りの土蔵である。規模は桁行3間、梁間2間である。
腰は竪板張りで、上部の壁は漆喰塗りである。
道路に面する前妻の各階に窓、店舗に面するに西面に入口を設け、切妻側に平屋建ての納戸が附属する。
生薬を収納していた蔵であり、機能的にも景観的にも店舗と一体の施設として重要

包装場
国登録文化財:基準 再現することが容易でないもの
構造:木造2階建、鉄板葺、建築面積147u
建築:大正期

包装場棟は現当主の先代が大正時代初期に住宅として建てたが、後に包装場として使用された。
切妻造、瓦葺、妻入りで、平面構成は、通り土間に沿って店・店台所・包装場の3室を配す、にわ型の町屋形式である。
「にわ」には井戸・ナガシ・大釜付き三口クドなどがある。
床部分は「店4畳半」(5畳)・「店台所」(8畳)・「包装場」(6畳)と並び、西側と北側には縁が付く。「包装場」は押入れを設け「にわ」と仕切る。
建築年代については、過去帳に安政2年(1855)に「本店新築」との記述がある。
南西隅に式台付き玄関、北面東部に便所・浴室棟が張り出し、南面東部に東蔵に至る吹き放しの廊下が附属する。
薬店の構成要素として重要な施設。

正野玄三
正野家は16世紀の初めより関東方面に商いをしていた旧家で、玄三は18歳の時日野椀や茶・布を持ち行商に出たが母の病気で帰郷、当時京の名医として名高い名護屋丹水の診療で母の病気を治すことが出来たことから、門下を希望し人の命を救う偉業への道を志した。
35歳で入門が叶い、医師になった後は医薬に恵まれない山間僻地の人や日野商人の長旅の道中薬として感応丸を作った。
その後「萬病感應丸」と改称され、全国に拡大して行った。

日野町について

日野町は近江八幡市の南東約20kmに位置し、穏やかな丘陵に南北を挟まれ、東西に延びる町である。
日野の地名は耕作に適した肥えた地を意味するといわれる。蒲生氏の勢力下で式内社の綿向神社は128村の総社となり、その門前に当たる当地も賑わいを見せていた。
近世には当地内を御代参街道が通り、鈴鹿峠越えで伊勢国へ往来する商人たちが多く通り、市も開かれた。
応永3年(1426)の神社文書には「日野市」との記入も残る。その他、呉服本座を巡る争論や日野塩を扱った等の文書もある。
天文3年(1534)頃に仁正村地内に築かれた主城・中野城の城下町として成立。
大永7年(1527)蒲生貞秀が中野城築き当地に城下の町割を行なった。東西路、南北路が長く、全体は卵型で、各通りには屈曲が設けられた。
天正5年(1577)織田信長は安土城下に対し楽市・楽座令を発したが、これを受けて蒲生氏郷は当地に12ケ条の掟を下し、経済の発展を図った。

天正12年(1584)蒲生氏郷が伊勢松ケ島(現三重県松阪市)へ転封となった。この転封にあたり秀吉は7ケ状の掟を下し、当町を保護した。
転封後、城下町としての性格は失われたが、秀吉朱印状と家康禁制が下されていた関係で、在郷町として発展し、蒲生郡東部の経済の中心であった。町人の伊勢への流失もあって町の規模は縮小した。松ケ島城下には日野町が形成された。
寛永4年(1627)当町は伊予松山藩の領となり、在郷町の扱いとなった。その後も各町の領主は代わっていった。
江戸時代の郷村帳類では日野村井町・日野大窪町・日野松尾町の三町からなっており、各町の庄屋−惣名代が町政を取り仕切った。
宝暦6年(1756)の日野大火時には1027軒が焼失したとある。天明8年(1788)当町を訪れた司馬江漢は「人家千軒余」と記す。
この後、日野商人の町として栄えた。中心部には今も城下町時代の街路の原形が伝えられる。

蒲生氏
日野は古代末期に都の社寺の荘園が置かれ、その荘官の中から蒲生氏が勢力を伸ばした。
15世紀末に蒲生氏は日野町から4kmはなれた音羽山に城を構えたが、大永4年(1524)頃、現在の市街地の東端に中野城を建設した。
中野城は半島状の台地に本丸を築き、その北に上屋敷、下屋敷、政所を設け、その周囲に「竪八町横六町」の武家屋敷地区をつくり、その周りは惣掘で固めた。そして惣堀の西に新たな東西に長い城下町が造られた。中野城と日野城下町は16世紀に完成した。

蒲生氏郷は天正12年(1584)「定条々」という13ケ条の掟書を下し、城下の秩序維持と商工業の振興を図ったがその直後に転封となった。家臣や有力商人も移住したため日野は消沈の道をたどった。。

日野の特産品
城下町時代、蒲生氏の商工業者の集住・保護政策により、武具を中心とした工業製品の製造が盛んであった。中世末〜近世にかけては日野鉄砲や砲弾発射用の玉薬や日野鞍、饂飩・五器などが特産品であった。
日野鉄砲は蒲生定秀が中国人鉄砲鍛冶、長子呂を当町に住まわせたことに始まる。鉄砲鍛冶屋は慶長7年(1612)頃には300軒余あったとされる。関ケ原の戦時には300挺が家康に献上され、大阪夏の陣の折も100挺が届けられた。が、元禄元年(1688)鉄砲所持禁止令が
出されたため、当町の鉄砲生産は衰退した。
近世、当町の特産品には日野椀と日野合薬があった。日野商人が持下り商品として携え、全国に販売した。
日野椀は優美さより日常に必要な堅固さを特長とし、紀州根来・黒江・奥州会津などと並び、日野が塗椀の産地と知名度があがった。
日野城下町形成時には、塗師町・堅地町が成立下。他には木地屋・絵師もいた。
18世紀に入ると日野椀に代わって、合薬が持下商品となった。
日野合薬は、正徳4年(1714)に医師正野玄三が萬病感應丸を創製したことに始まり、寛保3年(1743)には109軒の合薬屋があったと伝える。薬箱を製造する指物屋の延享5年(1748)には28軒で構成されていた。

当地は、鉄砲・椀・合薬のほか保知煙管あるいは保知張煙菅とよばれた煙菅が特産品であった。他に、寛文10年(1670)後水尾上皇に献上されて朝日山と命名されて名産品となったと伝える茶も加わる。

日野椀
かけご付日野椀・梅花錫蒔絵日野椀・鶴亀松竹・紅柄漆絵日野椀

箱絵日野椀・中井家伝来箱絵日野椀・宝尽くし蒔絵日野椀
「写真は幻の日野椀より引用」

日野鉄砲
日野鉄砲のいろいろ

美しい日野鉄砲
 

鉄砲鍛冶屋

曳山を飾った金具師

「写真は日野鉄砲より引用」

日野商人

江戸時代には当地に本家を置き、関東地方を中心に諸国で活動する多くの商人が輩出した。すでに中世当地には市が成立、近江国内や伊勢国などの市場間を往復する足子商人の足溜となっていたが、蒲生氏郷の伊勢松ケ勢、ついで会津黒川(若松)への転封に従って
多くの城下商人も移動、その活動範囲が広がった背景があった。

日野に残った人々は特産の日野鉄砲や日野椀の生産に励み、キセルの製造も始めた。人々はこの日野椀や呉服、麻布、合薬などを天秤棒に担いで遠国へ遠国へと行商に出かけた。これが「日野商人」のスタートである。
日野商人の出店は同じく近江商人の八幡商人から「日野の千両店」と呼ばれ、千両貯まったら店を増やすと言われたように、商人組合も結成して非常に活発な商業展開を行った。出店は近世の最盛期に全国で100店以上あったとされる。
明和7年(1770)当時、東海道・中山道には大当番仲間指定の定旅宿が98軒あったが、定宿は商品の託送から代金取立ての代行なども行い、全国行商の便宜が図られた。
日野商人の商法は他の近江商人と同様、天秤棒による行商が基本である。当町の特産品を上方の産物を地方へ持下り、帰りには地方の産物を仕入れて売りさばく鋸商法とも称されたが、行商で少しでも資本が蓄えられると、小規模な出店を各地に設けて行商の拠点とした。
(日野千両店)活動の地域は長崎貿易に携わる者もあらわれた。

数多い商人中でも「中井家の商法」に注目される。

商人本家
日野の伝統的な建物で、残っている主屋は切妻造・桟瓦葺・平入りで平屋建のものがほとんどである。
平屋建でも屋根は下屋を設け、勾配の途中で2段に分ける形式のものが多い。
通りに面する部屋には細かい格子戸を取り付け、座敷等の前は板塀を設け、間に庭木を植えることが一般的である。
主屋に並んで白漆喰塗りの土蔵を構える家もある。

概して、日野の町屋は通りに向かってやや閉鎖的な構えといえる。が、これが静かな町並み景観をつくっているとされる。
仕手町の山中家や越川町の正野玄三郎家、清水町の岡喜三郎家などは大規模な邸宅風の本家の代表例である。

全国的に名の知られた日野最大の豪商中井源左衛門家は18世紀の後半に広大な敷地に3つの門を構えた大規模な本宅を建設したが、失われてしまった。

参考資料《パンフレット、滋賀県の地理、近江蒲生郡志、滋賀県の歴史散歩、幻の日野椀、日野鉄砲、他》

今も生きる日野商人のスピリッツ(日本経済新聞 平成22年6月16日)

日野祭とまちづくり
日野祭は日野町村井にある綿向神社の代表的な祭りとなっている。これは日野商人達が祭りを盛り上げて出来た結果である。
宝暦の大火で焼けた曳山を再建し数も増やした。日野商人が招いた名匠による豪華な彫刻や見送り幕で飾られ、祭囃子は関東囃子を習って日野独自のものを作ったとされる。
さらに神輿や曳山が練り歩く本町通に面した家々ではこの祭りを見物するため板塀に「桟敷窓」を設けた。
遠国に出かけていた日野商人の多くはこの祭りに合わせて帰郷した。

日野祭に示された日野商人のふるさとへの思いは、まちづくりにも及び、町内ごとの大きな曳山蔵を中心に会所や納屋地蔵堂、小さな祠、防火井戸などを配した広場を設け、地域コミュニテイの核としてきた。
日野の人々は住居をつくるにあたり、内部はその財力や趣味に応じた意匠や材料に吟味をつくし独自の世界をつくったが外観は共同体の一員として周囲と調和した落ち着きのあるものとしてきた。

司馬遼太郎 街道をゆく 
日野町は、豊織時代、もっとも知的で武力に富んだ大名として知られた蒲生賢秀・氏郷の古い城下町であった。
蒲生氏は鎌倉時代からの地頭だったが、租税徴収だけをする地頭でなく、歴代、よく百姓を介護した。
特に、賢秀・氏郷は商人を保護し、このため氏郷が伊勢松阪に移封されてからも日野商人たちはあとを慕って松阪に移った。このことが、伊勢における商業を盛んにした。

戦国期の近江においては武士から、商人になる者も多く、たとえば三井家を興した三井越後守高安なども日野出身ではないが、近江で興り、伊勢に移った。やがて松阪木綿を扱ったり酒造業を営み、江戸に移って呉服商を営んで大をなした。
越後守であったために、家号を三越と称したことは、よく知られている。

参考資料《近江蒲生郡志、近江の文化財教室、近江の商人屋敷と旧街道、野道の歴史を歩く、司馬遼太郎 街道をゆく 近江・奈良散歩、 国指定データーベースより引用・他》


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