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滋賀 日野祭
Hino Hinomatsuri, Shiga


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May 2010 撮影/文: 中山辰夫

蒲生郡日野町

県無形民俗文化財

日野町の春を華麗に彩る日野曳山祭は800年の伝統を持つ湖東地方最大の祭。
馬見岡綿向神社春の例大祭で、日野商人の財力が贅をつくして仕立てた絢爛豪華な曳山の数々がみものである。
曳山は全部で16基。古い町並みをゆっくりと曳山が巡行し、古式豊かな神事が織りなす渡御は一大時代絵巻である。
辻を方向を変える「ギンギリ回し」や、神社の境内に曳山がズラリと勢揃いして並ぶ雄姿には思わずため息がでる。
この後、神輿とともに曳山も祭囃子とともに御旅所へと出発する。

 

馬見岡綿向神社は、綿向山(標高1110m)を神体山とする神社で、中世には、蒲生上郡全体の惣社として、荘園領主や蒲生氏による保護・尊崇を受けた。
江戸期には日野商人が厚い信仰を寄せており、今なお日野町内で最も広い氏子圏をもつ神社である。

祭りの特長は各町から曳き出される曳山を中心とした華やかな「山鉾の祭り」と、神社と御旅所との間を、御輿や神子と呼ばれる稚児の行列が渡る古風な「神幸の祭り」が並存する所にある。

現行の日野祭では、三基の神輿による渡御・還御の行列が一番の見せ場となっているが、その行列を先導するのは「神調社」と呼ばれる組織で、一団を総称して「芝田楽」と呼ばれている。
大字上野田の16歳以上36歳以下の男子で構成される。
「神子」3人は数え年8歳前後の男児の中から神籤で選出される。

宮入り

3日の午前9時前に、締め太鼓を轟かせ威厳を正した「芝田楽」が神社に到着の後、続いて神幣や神輿を担ぐ若者が神社に入る。
各町の曳山も山倉から曳き出され、神社目指して連なって次々と宮入する。
道中の家々では、この日のためにつくられた板塀の切り窓を、一年に一度だけ開けて見物する姿は日野特有のものだ。
境内には16基の曳山がズラリと並ぶ。これの見物や拝殿内の輝く神輿の見物および本殿の参拝などで境内は人で一杯である。

渡御の出発

「日野祭」のクライマックスは午前11時すぎの渡御の出発時である。
神輿の前において渡御盃の儀が終わると、出発の太鼓の音と共に御旅所(ひばり野)に向かい「芝田楽」「警固」「「獅子太鼓」「大榊弓矢」「御太刀」「神饌唐櫃」「剣鉾」「巫女」「大幣」「小幣」「神馬」「神主」の順に渡御の行列が次々と神社を出発していく。
その時、境内に並ぶ曳山は、一斉に祭囃子を演奏し、「日野祭」は最高潮の時を迎える。
御旅所に近い曳山も一緒に巡行する。
室町時代には、蒲生家の殿様や家来、西明寺などの僧も祭に参加していたことが、絵馬殿に掲げられた大絵馬によって知ることができる。

御旅所

神社から御旅所までの約3kmに近い大通りは祭り一色にぬりつぶされる。家の中で祭料理に舌鼓を打ちながら曳山や神輿を簾越しに見物している粋な様子が方々で見かけられる。先人の智恵と粋な贅沢さに驚くばかりである。
御旅所に入ると昼食となるので祭りは一旦中断される。
午後3時になると、渡御出発前と同じく神子との盃の儀式が行なわれて芝田楽を先導として還御に移行する。
神酒に酔った神輿はすんなりと宮入できず、本祭の終了は神輿の還御宮入りの時間に大きく左右されるようだ。

桟敷窓

日野祭ならではのもので、とおりに面した家々の板塀に常設されている祭り見物専用の切窓をいう。家の中から祭礼を見るためのもの。
切窓には緋の毛氈を掛け御簾を垂らす。祭りと暮らしの結びつきが、町並み景観として息づく全国的にも類例にない貴重なものである。

馬見岡神社金銅装神輿
一基、総高224.8cm、本体高173.5cm、基台幅133.7cm、轅長423.5cm
方形で、むくり屋根に金銅製鳳凰を戴く鳳輦。露盤は側面に紗綾形文地板を張り、隅丸長方形の落としこみに筒形三つ巴紋金具を据える。
縁に雲文八双金具を打つ。屋根は金泥皺皮塗りとし、雁の羽文は毛彫、眼は透明ガラスである。
本神輿は文化9年(1812)に下番各区により再興された。

日野曳山

日野祭で曳山が登場する18世紀前半以前には、「練り物」と呼ばれるものが奉納されていた。
練り物としてはノボリ・笠鉾・踊り仮装姿・三河万歳・などが推測される。
その後、ダシの人形やカラクリ人形などが練り物の主流となり、曳山へつながってゆく。
下記の写真は、文化9年(1812)板地著色綿向神社渡御之図で、蒲生氏郷が生まれた弘治3年(1557)の渡御を再現したもの

18世紀初頭は、日野が経済面で一大発展を遂げる時期であった。特に合薬の製造・販売業が盛んとなった。
「合薬仲間」が組織され合薬仲間商人が居住する町で集中して曳山が建造された。
合薬業の成功の影響が大変大きかった。その曳山が現在にまで残っている。

最初がどのようなものであったかを推測する資料が残っていないとされる。
今日の曳山の語彙は延享4年(1747)が初見とされる。
曳山の当初は、台車に飾台が付いたような単純な構造で、その後、上部に登るための階壇が付き、さらに階壇の上部に唐破風屋根が設けられ装飾性が付加されていった。

曳山の部位。部材詳細名

本町曳山―「鳳仙社」

宝暦5年(1755)にはすでに存在しており、明和7年(1770)以後何度かの修理がされている。
修理履歴から現存の曳山は文化年間 (1804〜18)の再建が主体に残っているとされる。
構造・様式は、四輪・外輪・御所車形である。台車は木鼻形で、階壇は船木一体の形式である。
下場は二手先組物を備え、正面階壇は擬宝珠向欄と木階五級で構成されている。
躯体は正面三間、背面三間、側面三間で内柱黒塗り、外柱には飾金具を巻く。
下場は和様の二手先組物を使い、囃子場の天井は根太天井(ねだ)である。
上場廻縁には擬宝珠向欄を廻らす。
上場の内法長押(うちのりなげし)上には和様三手先組物を使い天場を支える。
天場は擬宝珠を廻らし、祭礼時にダシを飾る。

装飾のうち、木彫りは下場に素木(しらき)彫りの謡曲選集をちりばめ、上場の木鼻には龍、欄間には樹花鶏獣を金箔で、組物間の蟇股彫物は素木彫りの十二支を配している。
飾金具では下場縁葛や台車桁側面に波兎文の飾金具を、階壇親柱に唐獅子牡丹の巻金具を使う。
さらに、上場長押釘隠の四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)文透金具のほか、一文字や八双金具など多彩な金具を用いている。
絵画は側面脇間板に鶴松図、腰板に亀図を配し、鶴亀でめでたさを描いている。

山倉

近年になって、祭りという無形の文化財を記録に留めるようになったが、日野祭について、すでに江戸時代の初めにその伝統を保存せんがために筆をとった人がいる。

それは弘治3年(1557)の祭礼に「もどき打ち」の参加が見られたが、彼らが踊りと共に歌った「もどきうちうた」を寛文8年(1688)申ノ八月吉日に記録した人物である。
その人物は次のような歌を最後に記している。
 かきおくも かたみとなれよ ふての跡 われは野中の土となれる身

この31文字の作者は、日野祭のもどき打ちの姿が久しく見られなくなったのを惜しんで記録したのであろうし、また後世の日野祭に、もどき打ちの晴れやかなる姿が再び復活することを強く願いつつ記録したものであろう。

日野祭に強い愛着をもちつつ野中の士となった故人の冥福を祈るとともに、あとがきにかえて、ここに広く顕彰させていただきたい。
(近江の曳山祭・木村至宏編 より引用)

参考資料《近江蒲生郡志、近江日野の歴史、パンフレット、近江の曳山祭、他》




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