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滋賀県甲賀市 大徳寺

Daitokuji,Koka city,Shiga


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Sep.2010 撮影: 中山辰夫

甲賀市水口町本町3-3-46

浄土宗

本尊:阿弥陀如来座像

水口神社から徒歩で約12分の距離にある。

長い参道を進むと背の高い山門があり。その上に本堂が見える。

地蔵堂と大師堂が並び、本堂前には水子地蔵が、その下には奉納の小地蔵が並ぶ。

徳川家康とのつながりが深く、徳川家光以降朱印状を与えられただけに、御朱印寺の風格が感じられる。

元禄2年・宝暦8年(1758)にあったが、その都度水口藩主加藤氏の援助で再建された。昭和56年(1981)にも火災に遭い、平成2年(1990)に再建された。

最初は禅宗の林慶寺であったが天正16年8岡山城主中村一氏(かずうじ)が同寺を香花寺(こうげいん)と定め、小田原の大連寺の僧「叡誉(えいよ)」に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号した。

大徳寺と徳川家康との縁は深く、開山の叡誉(えいよ)住職が家康の重臣本多平八郎の伯父だった関係から、家康は上洛に際して水口に宿泊し家康の「家」の字と松平の「松」の字をとって「家松山」の山号を賜り、また慶長7年(1602)、第二世叡誉のとき大徳寺の寺号や香木、寺領等を寄進して大徳寺と改めさせた。大徳寺の寺紋は、徳川家の定紋である葵(あおい9を入れた立ち葵であり、山門には徳川家紋の三葉葵が刻まれている。

また、山門の前の石垣は珍しい積石法で、小堀遠州の手法といわれる。

境内には、鐘楼の傍らには「腰掛石」、天保義民を弔う「五輪塔」が建つ。

門前の松、本堂前の松、椎の大木は見事である。

山門

慶長13年(1608)東西二間余、南北百三十六間の道を家康公より賜り、寛政10年(1798)第十二世明譽上人の時に再建された山門である。

山門の上部中央に徳川家の定紋「三ツ葉葵」が付けられている。

本堂

本堂内

客殿

地蔵堂

釣鐘堂

慶長5年(1600)家康公が上洛の際に当寺を訪れ、長野蔵之丞の申し付け鐘桜を建立し、叡誉上人に御下賜され、慶長18年(1614)に建立。

寛文11年(1672)に完成されたという銘が残る。

家康公の腰掛石

慶長5年(1600)に家康公がお立ち寄りになった際に、休憩して腰掛けたとされる石。

その時、大徳寺に莫大な寺領を下賜されている。「家康の天の下しる重き身の しばし いこひし 跡ぞ この石」「読み人知らず」の一首が伝えられる。

小堀遠州石垣

山門の両側に、石堤の土堤を設ける。積石法による「植石伏土堤」といわれるもので、遠州の作と伝わる。。

甲賀騒動義民の霊位 五輪塔

天保13年(1842)10月、幕府の検地に反対した甲賀。野洲、栗太の農民1万余人は一揆を起こして抵抗した。

その指導者11名は天保14年3月6日江戸に送られて処刑された。

翌弘化元年(1844)9月、当山第17代光誉上人は刑死者の霊を慰め、その冥福祈らんが為に水口城主の点許を得てこの五輪塔を建立し、これを無縁塔と称して亡き霊を弔う。

明治2年大赦の令下って刑死者の名を現し、甲賀騒動義民の霊位五輪等と称し、毎年10月追弔会と称し修行している。

「世につくす甲賀の民の赤心(まごころ)の堅きしるしの石のあららぎ」と詠まれる。

名木・古木

大徳寺説明(パンフレット)

「伊勢参宮名所図会」 寛政9年(1797)より

天正20年2月19日増田長政寄進状

参考資料《甲賀市史、滋賀県の地名、近江甲賀郡志、甲賀をひもとく、大徳寺文書目録、他》

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