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滋賀県甲賀市 水口宿
Minakuchishuku, Koka city,Shiga


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Nov.2010 撮影: 中山辰夫

甲賀市水口町水口

甲賀市の北西部に位置する水口は、古くから伊勢参宮路上の宿村として開けていたが、天正13年(1585)、鈴鹿峠を控えた軍事的要衝として水口岡山城が築かれ、近世城下町として整備された。紡錘型の「三筋町(みすじまち)」はこの時に成立した。

関が原戦に勝利した徳川家康が、慶長6年(1601)東海道を整備し各地に宿駅を定めた時、水口も宿駅に指定され、岡山城の旧城下町が宿場町になり、さらに町並みは西へ延び、約2.4kmの市街地が形成された。
その後、寛永11年、三代将軍家光上洛に際して、宿西部に水口城が築かれ、天和2年(1682)には水口藩(二万石)が成立し、城下町の性格を持つようになった。
天保14年(1843)の情報が記載された「東海道宿村大概帳」によると、東西22町6間、家数692軒、人数2692人で、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋41軒、を数え、家数・人数の点から見れば、東海道と中山道の分岐点であった草津宿よりも大規模であった。
宿場町には大きく分けて在郷町型と城下町型に大別される。在郷型はあくまで町の中央を貫く一筋の幹線道路の両側に家屋が並列しして単線的な街路形態であるが、城下町ではすくなくともこれに平行する幾筋かの街路が存在している。水口宿は城下町型といえる。

水口宿東見附跡
水口町片山

宿の東端に設けられたもので、枡形土居と柵で区画し、木戸や番所を置き旅人を監視した。これに対し、西端には西見附が置かれそれぞれ「江戸口」「京口」と呼ばれた。「伊勢参宮名所図鑑」ではこの付近の景観を描く。
現在も土居のあとは残っている。

水口宿脇本陣
甲賀市水口町水口
作坂町の南側に所在。やや屈曲した上り坂に位置した。本陣に次ぐ格式をもった旅籠で本陣を補佐した。今も一部が現存する。
なお、西側の建物は宿内有数の旅籠枡屋市兵衛の遺稿である。

水口宿本陣
甲賀市水口町水口
宿東部の作坂町に東海道に北面して所在した本陣の跡。本陣は広大な敷地や門、格式の高い部屋を備え、大名・公家・幕府役人などの休泊に供される旅籠で、鵜飼伝左衛門氏家が代々本陣職を勤めた。
明治20年代には取りこわされた模様で、指図や宿札等の史料は伝わらない。現在はその一角が公園になっている。

水口宿高札場跡
甲賀市水口町水口
宿東部の作坂町に所在。三筋の内南筋と旅籠町で合流した中央の東海道と北筋の合流点に東向きに設置している。正徳2年(1712)に整備され、同年の「御高札并文言之覚」(東海道水口宿文書)に高札場の構造規模、および掲示された高札の文面が保管されている。
高札場とは幕府の法度・掟書きなどを書記した板書を、通行の多い場所に建てた場所をを指す。明治維新後撤去された。

水口宿問屋場跡(といやば)
甲賀市水口町水口
宿内大池町の東端南端に置かれた、水口宿の問屋場跡。
延宝6年(1678)の水口町地子赦免帳では伝馬か会所は、旅籠町に所在することから、後に当地に移った。
水口町立歴史民俗博物館が保管する慶長6年(1601)水口宿伝馬定書ほかの「東海道水口宿文書」は、この宿問屋場に伝来したものとされ、町指定文化財になっている。問屋場跡については終わりに説明あり。

善福寺

からくり時計

蓮華寺
甲賀市水口町水口
真宗高田派
東海道から分かれる伊賀道と信楽道の分岐点に接して所在する県内唯一の同宗寺院。水口山太子堂と号しその立場から古い寺歴を有するとされる寺院お一つ。
本尊である平安時代作の阿弥陀如来立像は市指定文化財である。

からくり時計・水口石橋
甲賀市水口町水口
旧宿内天王町所在。水口を東西に分けるポイントとして古くから認識された。江戸時代から石橋がかかり地名の由来となる。
水口岡山時代の城下町の西端。その東側で道が3本に分かれる独特の景観を見せる。中央の通りが東海道である。

力岩「水口石」(ちからいし・みなくちいし)
歌川国芳(くによし)の作、水口宿「大力女の大井子」に由来がある。水争いで、大力女が使った大石に由来する。
小川町に曲がり角に道行く人になでられて美しいほど滑らかになった石がおいてある。

百間長屋跡
甲賀市水口町水口
水口城の西北に位置し、東海道に面して存在した東西に延びる長大な長屋で、「百間長屋」と称した。百間(約180m)の棟割長屋には主に足軽や下級武士が住んでいた。南側が郭内という武家地で玄関があり、東海道に面した北側は裏になり、武家地と町場とは自由に往来できなかった。往来に向かって小さな窓があり、ここから東海道を往来する物売りから者を買った。
現在はその数戸分が残存している。
水口藩成立後の建築で、南側に藩庁などの重要な施設があったことから、その防御的機能を果たしたともいえる。

真徳寺表門
甲賀市水口町水口
浄土宗寺院
その表門は、水口藩士の邸の長屋門を移転したもの。石高70石程度の中級藩士の長屋門で、改造は著しいが旧藩時代の家臣屋敷に関する唯一の現存建物である。
境内墓地には同藩出身で明治時代の代表的な書家である巌谷一六家の墓所ほか、旧藩士の墓が多く残る。

一里塚跡「林口」
甲賀市水口町林口
林口の氏神五十鈴神社の東側に位置し、東海道の北側に一基存在した。東海道屈曲以前は、やや南側に街道を挟んで二基あった。

水口宿西見附跡
甲賀市水口町西林口
林口集落の半ば、水口城の築城と城下整備により東海道が屈曲する起点に位置する。水口城下の京口でもあり、同藩の番所も置かれた。
今は全て取除かれて形跡が無い。


東海道五十三次之内 水口 名物干瓢
関、坂下、土山と鈴鹿の山道を越えてきた旅人も、水口の辺りではかなり開けた眺望を楽しみことが出来る。
水口宿は、加藤氏2万5000石の城下町で、現在も水口城址には本丸の堀が残り、角艪の一つも復元されている。
江戸の当時は小規模ながら風情のある城下町であったのか、シーボルトは「城のあるこぎれいな町」と記している。
水口の名物は煙管や葛籠細工の行李、そしてどじょうである。特に葛籠細工の行李は「東海道名所図会」でも真っ先に挙げ、「改元紀行」
にも「煙管・藤ごり(行李)など名物也、すべて葛籠細工のもの多し」とあつ。ケンペルの「日本誌」や、シーボルトの「日本」にも言及があるなど、旅人の目にもつき易い特産物だった。
しかしながら広重は、干瓢を製する場面を近景に描き出している。その製法は、干瓢が特産であった下野壬生(しもつけみぶ)の城主であった加藤嘉矩が正徳2年(1712)に水口に転封になった際に伝えたとされる。
野洲川の河岸段丘で水はけの良い、水口や美濃部の一帯が主産地となった。

問屋場跡(といやばあと)
慶長6年(1601)の「伝馬制度」が定められ、作坂(つくりさか)と旅籠両町が「伝馬町」に指定された。寛永12年(1635)には人足百人、馬百疋を常置することが定められ、新たに西伝馬町(天王・河内・北の三町)ができ、「人足会所」が平町に設置された。
家光の上洛や参勤交代制度も定められて宿場も繁栄した。
しかし、その後数度の大火や伝馬株の衰退によって西伝馬は廃止され宿駅の運営が困難になった。そこで「助郷制度」(伝馬の継ぎたてを維持するために人馬の提供を周辺集落に命じる制度)が導入されたが、窮迫続きはとまらなかった。それは駄賃が幕府によって統制され
公用の無賃馬の増加等が原因とされた。
そこで元禄10年(1697)幕府の命令で「人馬打込惣立制 じんばうちこみそうだてせい」(経費は惣町で分担する制度)が導入され、馬継・人足会所を併せて大池町東端に問屋場が設けられた。
問屋は宿駅の中枢で人足・馬の手配・管理などの業務を行なった。役人は問屋・年寄・助役・肝煎・問屋取締・馬指・人足差等で17〜18人であった。



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