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滋賀県甲良町 甲良神社

Korajinja,Kora town,Shiga

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犬上郡甲良町尼子1 甲良神社権殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永11(1634) 一間社流造、檜皮葺 19150326


March 3,2024  大野木康夫 source movie


境内入口

   

拝殿

   

幣殿、本殿

      

権殿(重要文化財)

                                          


Jan.5, 2013 大野木康夫 source movie

境内各所

      

権殿(重要文化財)

寛永11(1634)年の建築

一間社流造、檜皮葺

                            


Nov.28 2012 瀧山幸伸 source movie

 

A camera

                   

B camera

                          


Nov.2010 撮影/文:中山辰夫

甲良町尼子

祭神:武内宿禰命

配祀神:田心姫命(たごりひめのかみ) 湍津姫命(たぎつひめのかみ) 市杵嶋姫命(いちきしまひめのかみ)近江鉄道尼子駅から東1kmほどのところにある。

この神社では広々とした境内の中で、三様式の神社造りの鑑賞ができる。

三様式とは、本殿の神明造り、拝殿の入母屋造り、権殿の一間社流造りのことである。

御輿・祭礼衣装ははっぴの紋章は近江源氏佐々木氏の神紋で四つ目が使われている。

山陰の戦国大名・尼子氏と同じで、同地出身の国人が京極氏の被官となり、応仁の乱後、出雲で自立して大名化した。

                

甲良神社は天武天皇の時代(7世紀後半)、筑紫国(福岡県)の久留米・高良明神を勧請したといわれる。

武内宿禰命(たけうちすくねのみこ)は、「日本書紀」に二四十年余年の神寿を全うしたとあり、長寿の神として平安時代の頃から甲良荘三十三カ村で篤く信仰されてきた。当社は治暦年間(1065〜69)には、甲良荘の総社とされていた。

本殿横の権殿(ごんでん 国重要文化財)はもと甲良神社の本殿で、江戸時代の建物である。

明治16年(1883)本殿改築の際、隣へ移転された。向拝の奥肘木に「寛永11年(1634)」の墨書銘が発見された。

拝殿

間口四間二尺 奥行三間二尺 入母屋造

    

中門・幣殿

     

本殿

一間社流造、神明造 間口三間三尺 奥行三間二尺

規模の大きな一間社である。屋根の勾配がやや緩く、装飾が少ない古式な外観である。外部前面に装飾が施されている。

紅梁の絵巻は渦のみで、頭貫は木瓜形、装飾は単純な渦とする。中備蟇股は足元が不釣合いに大きく、実肘木もぼってりしている。

藤堂高次が氏神のために建立したもので、大工は伊勢国津在住の賀藤又左右衛門尉良次である。高次が伊勢を領していたので、自領の大工を使ったのであろう。

当社近辺には法養寺、尼子に二つ甲良神社がある。前者は県指定、後者は重要文化財である。墨書より寛永11年(1634)と判る。

当社を含め三者はほぼ同時期に造られたと思われるが、構造には各々差があり、当社は一番簡素といえる。

   

権殿

国指定重要文化財

一間社流造 間口一間三尺 奥行一間二尺(重分)

もと本殿であったものを、明治16年(1883)の改築にあたり権殿として境内の一隅に移築したものである。現在では本殿西側に並列して配されている。

建立年代は向拝実肘木(さねひじき)上端の墨書銘より寛永11年(1634)であるとされる。

正面を除く3面は一間社の通例通り板壁であるが、背面のみ中間に柱を立て、2間として扱うのは珍しい。

内部は内外陣に分れ、外陣の床は縁より一段高くなっており、正面では腰長押の下に格狭間の蹴込み板が入っている。この蹴込み板は様式手法から室町期とされる。

               

四つの扉をもつ。

一番左端には氏神さんの御輿、残り三つに各小字の太鼓が入っている。この御輿や太鼓が出る4月中旬の春祭りは見事である。

お旅所に渡る前にお寺(住泉寺)に参拝するというのも見所である。

各小字が三年に一度、御輿と太鼓の両方をかくが、直径190cmほどの大太鼓が70〜80人のかき手によって渡御される姿は荘観である。

 

甲良石

本殿の右側にある。

高さ60cmほどの三角形の石だが、その底はどれだけ大きいかわからないほどの巨石といわれる。

そしてこの石に触れると災難が起ったり不思議なことが起こるので、周りに縄を張って人が近づけないようにしている。

  

 「尼子」の由来と近江尼子氏について

古代に筑前国(北九州市)胸形地方を支配した豪族胸形氏は、玄界灘と付近の農民を支配し強力な航海力をもつ海洋族であった。

そして朝鮮半島、中国への渡航に熱心であった大和朝廷と関係を持ち、特に胸形君徳善(むねかたのきみとくぜん)の娘の尼子姫が、天智天皇の弟大海人皇子(おおあまのみこ 後の天智天皇)の宮人(側室)となって、第一皇子(高市皇子 たけちのみこ)を生まれてから、胸形氏は一層大和朝廷との関係を深めていった。

往古より胸形氏は、航海の安全を祈願するため、天照大神の三女神のうち田心姫神を玄界灘の孤島沖ノ島の沖津宮に、湍津姫命を宗像海岸に近い中津宮に、市杵嶋姫命を玄海町田島の辺津宮にお祀りしてきた。この宗像三社を総称して宗像神社としている。

この故に、宗像神社は海の護り神としての信仰が往古から現在まで連綿と継がれてきた。

胸形氏の尼子姫は、結婚して大海人皇子と大津の宮におられたが、壬申の乱から逃れて当尼子の地に入られ、生誕の地の筑後高良大社(こうらたいしゃ)は武内宿弥命を、宗像神社からは田心姫命・湍津姫命・ 市杵嶋姫命の三女神を勧請され甲良神社に奉斎された。

大化改新(645)に始まった政治改革は壬申の乱(672)を経て大宝律令(701)で国郡里制が確立するが、この時から当地は尼子姫の名を頂いて尼子と呼ばれるようになった。近江尼子氏の歴史については定かな資料がなく不詳のままになっているようだ。

近江の尼子一族が、山陰山陽の各地に強大な勢力を張ることになった雲州の尼子氏に従って出て行ったからでないかとの説もある。尼子氏の発祥は、婆裟羅大名の京極高氏(道誉)が、孫のみまに自分が一番気に入りの尼子郷を譲り与えたのが始まりとされる。

このとき道誉は嫡子の高秀に「甲良の尼子郷ほど安心な所はないのでみまに譲り与えることとした。その上で今後のことが心配なので120年のあとまで守ってやってくれ」と手紙を出した後、応安6年(1373)73才で亡くなった。

みま長じて高久は尼子郷に勝楽寺の前衛として尼子館(城)を築き、郷名をとって尼子備前前守高久と名乗り尼子氏の祖となった。高久の嫡男詮久は近江尼子氏を名乗り、次男も持久は京極氏の出雲守護代としてくだり、月山富田城(がっさんとだ)を築き、「明徳3年 1392」雲州尼子氏の祖となる。持久の孫経久(つねひさ)は、山陰山陽11ケ国を領した200万石の大々名となり、天下に尼子氏の名を知らしめた。

一方の近江尼子氏は詮久以後全く不明で、何の手がかりも無い状態にある。

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