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滋賀県米原市 柏原宿

Kashiwabara,Maibara city,Shiga

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March 27, 2021  野崎順次 source movie

滋賀県米原市柏原
中山道 柏原宿


JR東海道本線柏原(かしわばら)駅のあたりを中心に、かつて柏原宿が広がっていました。東西13町(約1.5km)にもおよぶ中山道の中でも大規模な宿場町で、344軒の家があったと伝えられていますが、現在では、常夜灯(じょうやとう)や街道沿いの宿場町特有の2階建の軒の低い数軒の家が面影を伝えています。
京から江戸へ向かう場合、柏原の宿から東へ近江(おうみ)の国と美濃(みの)の国の境にかけて長久寺(ちょうきゅうじ)、今須の宿をへて常磐(ときわ)御前の墓、不破関(ふわのせき)、関ヶ原と続いていました。また、柏原宿は伊吹もぐさの産地として有名で、「木曽路名所図会」にも紹介されています。昔は多くのもぐさを商う店が街道沿いに軒を並べていましたが、現在はいぶしがかった落ち着いた構えの店が一軒残るだけです。看板や店内の大きな福助人形をみても、もぐさを買い求める多くの旅人で繁盛していたことがうかがえます。
(滋賀・びわ湖観光情報ウェブサイトより)

パンフレットと現地説明板
   


西の一里塚跡あたりの橋からスタートして東へ進む。川に降りる石段や、小さな橋を越える。かつての商家を示す表示があるが、江戸時代から残る文化財建造物はなさそう。でも、落ち着いた町並みである。
               


左手は御茶屋御殿跡、斜め右に火の見櫓のある商家
             


薬師道道標(やくしどうどうひょう)
最澄が創立したという明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。この道標は享保2年(1717年)と古く、正面が漢文、横二面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。
(人力旧街道紹介サイトより)
   


さらに東へ
         


柏原銀行跡と西の荷蔵跡
     


そして、さらに歩くと、「滋賀県下三番目に創立 柏原小学校跡地」の看板、そして日枝神社
           


屋根の重なりが特長的な重厚な住宅は、伊吹もぐさ亀屋佐京商店の分家、松浦良平氏が大正六年に建てた住宅で、現在は柏原宿歴史館として利用されている。主な建物(主屋、門、展示館、収蔵庫)は国登録有形文化財である。

パンフレットと現地説明板
         


国登文 主屋 大正(1917)
木造2階建、瓦葺、建築面積285㎡
中山道関ヶ原宿と醒井宿の間の宿にあたる柏原宿の中程に位置し中山道に南面して建つ。染料関係で財をなした松浦氏の邸宅で,中山道に向けて三つの入母屋造妻飾りを重ねる重厚な表構えに特徴がある。地棟墨書から上棟年と「大工頭梁西村豊太郎」が判明する。
国登文 門 大正
国登文 木造棟門、瓦葺、間口2m、左右屋根塀延長9.6m附属
主屋前面西寄りの角屋の南西端から発する桟瓦葺の屋根付板塀で,ほぼ中央に棟を高くした一間幅の門を開く。屋敷の表構えを形成する上で欠くことのできない要素であるとともに,中山道宿場町の景観を整えている歴史的景観構成要素としても貴重である。
      


主屋1階
                      


主屋2階、映画監督吉村公三郎(祖父が柏原宿最後の庄屋で、実家がここ)、福助(伊吹もぐさ本舗亀屋佐京商店の番頭がルーツのひとつらしい)などの展示が目立つ。
                          


庭園
                  


なお、主屋の展示の一部、展示館全部は撮影禁止である。

歴史館から東に向かって古びた街並みが続く。
            


伊吹堂亀屋佐京商店
伊吹もぐさの老舗で、現在も当時の建物のまま、伊吹堂亀谷左京商店を営んでいる。
(人力旧街道紹介サイトより)
         


市場橋を過ぎると、高札場跡
高札場跡(こうさつばあと)
高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。高札は江戸中期以降幕末まで、正徳高札6枚・明和高札1枚・その時の両隣宿迄の運賃添高札1枚、計8枚が懸かっていた。高札場は、道沿いの長さ4.86m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの高札懸けの建物があった。なお柏原宿には、出町(小字)長沢にも小さい高札場があった。
(人力旧街道紹介サイトより)
   


それから
   


本陣跡(ほんじんあと)
本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。
柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣を務めている。間口はこの家の両隣りを合わせた広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われる。明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。その後、建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。
(人力旧街道紹介サイトより)
 


本陣南部家俳人の説明、映画監督吉村公三郎の実家、造り酒屋などと続く。
          


さらに東へ、旅籠屋白木屋藤兵衛
        


問屋場跡と東の荷蔵跡
問屋とは、街道の運送問屋のことで、宿場第一の業務を担当した。公用の旅人・荷物と幕府ご用状の、両隣宿までの運送を継立(駅伝方式)で行った。宿屋の斡旋も仕事であった。
柏原宿では、江戸後期には6軒の問屋が、東西3軒づつに分かれ、自宅で10日交代で勤めた。中山道の人足・役馬は、50人50疋が義務づけられ、下役に帳付・馬指・人足指がいた。村年寄りが問屋役を補佐した。
人足・馬を出し、問屋業務を助けた助郷村は、当初近隣16ヶ村。彦根藩村々の離脱から、51ヶ村かつ遠方が多くなり、宿場・助郷村とも苦しんだ。
(人力旧街道紹介サイトより)
   


壁にべんがら(赤い顔料)を使用した建物が目立ってきた。
                


八幡神社と芭蕉句碑
芭蕉は、元禄2年(1689年)敦賀から「奥の細道」結びの地大垣へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。その後、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会で、この句文を残している。
その席で伊吹山は、花や雪や月の借景がなくても、ただ単に聳立する孤山としてだけで、立派に眺め賞し得る山容を備えていると褒めている。そして言外に句会の主人斜嶺の人柄は、伊吹山のようだと述べた。
  戸を開けはにしに
  山有いふきといふ花にも
  よらす雪にもよらす只
  これ孤山の徳あり
 其まヽよ 月もたのまし 伊吹山
(人力旧街道紹介サイトより)
                 


何故か奇妙な形の石が集められている。庭園跡か?
          


古い建物がまばらになってきたら、東の見附跡についた。
柏原宿東の入口で、道の両側に喰違いの形で土手(土塁)が築かれていた。見付とは、本来城門のことで宿場用語となった。見付は宿場西口にもあった。東の土手は、古図に幅二間・奥行き二間半、土手上面に灌木が描かれている。宿東西の見付は、貴人の当宿到着時、宿場役人の出迎場所だった。
(人力旧街道紹介サイトより)
         


ここでJR柏原駅に戻ろうとしたら、さらに東にシダレザクラが見えた。その家の人に聞くと、昔はもっと枝が大きく垂れていたが、トラックなどの交通の邪魔になるので、枝を切ったとのこと。惜しい。
        


May.2,2018 柚原君子

中山道 第60宿 柏原宿

概要


前宿で、寝たままで国境を隔てた隣の旅籠の住人と話ができる、という美濃の国と近江の国のほんの数センチの巾の国境「寝物語の里」を越えています。従って、ここ柏原宿が近江の国の第一宿。現在は滋賀県米原市ですが、当時は江州・ごうしゅう、近江の国坂田郡と呼称された地域です。
1318年~1368年頃までの約50年間を書いた軍記物語である『太平記』にも記されているほどの古い歴史のある宿です。
近世には彦根藩をはじめとして10を数える藩の藩領であり、さらに飛び地としての領が20数藩もあります。さらに宮家や公家などの所領も点在して非常に複雑な所領関係のあった地域でしたが、江戸時代に入ると徳川幕府の直轄地となり、その後は大和郡山藩(柳沢氏)となり、明治維新に至っています。
柏原は伊吹山から産出されるヨモギを原料にしたモグサが特産品。モグサはお灸を据えるときに使う草で、やいと、ともいいます。宿の往来には最盛期には10軒以上のお店が軒を連ねていたそうです。現在はいぶしがかった落ち着いた構えの店が一軒残るだけ。
柏原宿を訪れた日は休業日で店の中に天井までもある大きな福助人形を見ることはかないませんでしたが、福助はこの店の働き者の番頭だったそうで、全国にある福助人形はここが始まりではないかといわれています。
柏原宿は東西13町(約1.5km)にもおよぶ中山道の中でも大規模な宿場で、1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、柏原宿の宿内家数は344軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠22軒で宿内人口は1,468人となっています。
柏原宿は長さが約1.5kmもあり、これは美濃・近江の中では最も大きい宿場町ですが、現在では柏原宿の北側方面に鉄道、南側方面に国道が通っているために、宿の中心は歴史的建物の残る有静かな中山道となっています。

 

1,東見附跡~本陣
柏原宿は東の見附跡から出発です。江戸方面にあるの江戸口とも呼ばれます。当時は道の両側に食い違いの形で土塁が築かれて潅木が植えられていて、宿に到着する貴人を出迎える場所でもありました。

竜宝院跡の石碑を通り過ぎると八幡神社。その先の家の前に立て札『旅籠屋、大和郡山藩 坂田郡内取締大工 惣左衛門』とあります。近江は多くの藩が入り混じって統治をしていたと概要で書きましたが、ここは山藩だったのですね。旅籠をしながら大工さん?大工さんの総取締役だったのでしょうか。

「問屋場跡」と「東の荷蔵跡」の立て看板が立っています。問屋場は街道の荷物の運搬の継ぎ立てや、宿泊所の斡旋などを行ったところ。柏原宿には6軒の問屋場があり、自宅において10日間交代で勤め、そのうちの一軒は吉村家が勤めて庄屋を兼ねていたとあります。
中山道では大体五拾人50疋が義務づけられていて、もちろん宿の人数だけでは足りませんので近隣の村々が助郷といわれて宿を助けることになっていましたが、当初は近隣16カ村であったそうですが、後に彦根藩村々が離脱したので、遠くにある村も助郷として借り出され、宿も村人も苦しんだとあります。大名は大いばりで通ればいいのですが、下々はそのたびに大変だったのでしょうね。「東の荷蔵跡」の方は、当日に処理できなかった荷物や年貢米などをしまった蔵です。
造り酒屋や旅籠屋の看板が下がった家もあります。柏原宿には22軒の旅籠、その他に同じ頃に記録された文書のなかの職業記録では、もぐさ屋9軒、造り酒屋3軒、請負酒屋10軒、炭売り茶屋12軒、豆腐屋9軒、煮売り屋ほか商人28軒、大工10軒、鍛冶屋1軒、 諸職人13軒、医師一軒。もぐさ屋の数が多いことは柏原宿らしいですが、同じようにお豆腐屋3も多かったのは驚きです。

「脇本陣跡」。本陣を務めた南部家の別家である南部源右衞門が問屋も兼ねていたとあります。
続いて「本陣跡碑」。敷地は526坪もある広大なもので、立て札のあるお隣の酒屋さんの自動販売機の奥にも、南部家の説明札が立っています。本陣の一部であった説明のようです。皇女和宮が宿泊の時には増築。またこの本陣は和宮の夫君である徳川家茂が長州征伐途上に宿泊したともありますが残っていないのが残念です。明治になってからは小学校となり、その建物は明治中期に垂井の南宮神社宮司宅に移設されたと書かれてあります。

秋葉山常夜灯の脇には「高札場跡」の立て札。市場川橋と名付けられた小さな橋を渡った向かい側に「伊吹堂」の看板を掲げた商店。伊吹モグサで有名な「亀屋七兵衛左京」で広重の木曽街道六拾九次にも描かれている商店です。連子格子のある古くて大きなお店の構え。中には大きな福助もいるはずですが、残念ながら休日のようです。伊吹堂の主人松浦七兵衛はなかなかの商売上手で江戸吉原の遊女に「江州柏原伊吹山のふもと亀屋左京のきりもぐさ」と歌わせて宣伝したそうで、その効果大で多くの人が会に訪れたそうです。商家としては建物も大きく中庭もあり、商家の持つ庭園としてはめずらしいそうですが公開はされていません。

                                               

2,西の荷蔵跡~
「西の荷蔵跡」の立て札があります。年貢米を貯蔵しておく場所ですが、中山道荷送りでその日のうちに次宿に出せないものの保管場所でもあります。関ケ原宿と番場宿の間は九里半と長い陸路で、木曽川、長良川、揖斐川等から川で運ばれてきた荷物が、次の水運である米原の湊に行くまでの間はここを通っていくので、中山道の中でも特に荷物の往来が激しかったそうです。また柏原宿は中山道の中でも寺院が多く、荷蔵に入らないものは寺院でも預かっていたそうです。
西の荷蔵跡の隣は柏原銀行の跡です。明治の後期に艾屋(もぐさや)山根為蔵が自宅別棟に創立した銀行で近郊の長岡、今須などにも支店を出し亭ます。昭和18年に滋賀銀行と合併されるまで当地の経済を支えていたそうですが、特産品の艾が屋号になっているところがすごいです。

その先には薬師道道標。最澄が創立したという明星山明星輪寺薬師堂へと続く道。門前には明星村があったそうですが今はなく、道だけが続いています。道標は1717(享保2)年のもので正面が漢文、その他の2面は変体仮名と平仮名で書かれています。
「問屋役跡」があります。山根甚左衛門さんが年寄りを勤めたとあります。柏原銀行設立者と同じ名字。その向かい側にあまり見ることのない立て札。「郷宿跡」とあります。宿場の宿泊施設は本陣、脇本陣、旅籠となりますが旅籠よりは少し良くてけれども脇本陣よりは少し落ちるという位置づけのところのようです。看板は字が薄れてきて良く読めませんが、武士や公用の庄屋様が宿泊したようです。
綺麗に舗装された一本道の柏原宿中心を過ぎて、京に向かう西口の西見付跡に。一里塚もあります。一里塚はこじんまりとして綺麗すぎます。復元です。

                        

3
山の中腹に六地蔵。見たかったのですが猿の群団がいて、ちょっと怖いので通り過ぎることにします。
ちょっとここで思案。この先は醒ヶ井宿へと続いているのですが、時間はすでに15時。本日は関ヶ原駅より自転車で来ているので、自転車返却時間を考えるとこの辺りでユータンしなければなりません。これより来た道を引き返します。柏原駅を通過して1時間半くらい自転車で走れば関ケ原駅に到着するでしょう。
この先は気に掛かりますが西見付跡を終了したところで柏原宿を終了します。

                                        


May 9, 2016 瀧山幸伸 source movie

西から東へ

                                                    


Apr.2012 中山辰夫

柏原宿

JR東海道線柏原が最寄駅である。

北8kmに伊吹山(標高1337m)がある。柏原は「霊気を息吹く山」の南麓にあって、町並の長い静かな町であった。

    

伊吹山はどこからも見える。 町中には芭蕉の句碑が多く立てられている。

    

街なみ

柏原地区は、江戸時代の中山道六十七宿の六十番目の宿場で、近江中山道筋では規模が大きく、重要な宿場であった。

    

道路には、江戸時代から昭和30年代までに建築された建築物(切妻造瓦葺入町家、入母屋造草葺入民家)等が軒を

連ね全体として調和の取れた街なみを形成している。街なみは東西1.4kmほどである。

    

この街なみ全体を博物館として捉え、地区を象徴する旧家を活用した街づくりが進められている。

    

お土産店が一つもない街道の佇まいは喧騒を忘れさせてくれ、落着いた気分にさせてくれる。

   

柏原宿は、醒ヶ井宿と今宿宿の間にあって、古代の東山道に沿い、古くは太平記にもみえる中世からの宿駅で、美濃国との境をなす

宿であった。

中山道分間延絵図「文化3年(1806完成)」と慶長7年(1602)柏原村絵図(個人蔵)

  

旧中山道に沿って街なみを見てまわる。中山道を右手に折れて本線をわたり、さらに700mほど行くと成菩提院(じょうぼだいいん 天台宗)がある。

寺伝では、最澄が弘治6年(815)に建てた柏原談義所(学問寺)に始まる。「別掲」

 

宿場時代の家の職業を表示しているのか、木札が取り付けてある。

東荷蔵跡、問屋蔵跡の表示がある。荷蔵は公用荷物引継ぎのための一時保管倉庫で、江戸時代の市場の中心で、問屋6軒があった。

     

西荷蔵跡

   

続いて煮売屋の木札がある。煮売屋は“おそうざい”を売るお店と思われる。

     

吉村公三郎の実家と医者宅の木札

  

町並が宿場らしい景観を呈し、旅籠が並ぶ。

一般の旅行者が利用した。

     

天保14年(1843)で、総家数344軒、本陣1軒脇本陣1軒、旅籠22軒あった。

旅籠「京丸屋五兵衛」

    

郷宿(ごうやど)跡「加藤家」

柏原宿でただ一軒現存する郷宿(ごうやど)跡の加藤家を特別に見学させてもらった。

郷宿とは、脇本陣と旅籠やの中間で、武士や公用で旅する庄屋の休泊に使われた。

    

通常の旅籠屋とは構えが異なり、上段の間をもつ書院がある。書院は広く建具も立派である。。

    

襖、欄間、釘隠しも凝っている。

   

奥庭も構えてある。

    

造り酒屋

切妻、平入の二階建 連子格子付 面影を残す遺構である。4軒ほどあったようだ。

      

伊吹艾(もぐさ)本舗の「亀屋左京店」

昔の面影を残す唯一健在である。創業以来350年を経る。亀屋には庭園もあり、諸大名や旅人に評判だった。

広重が「木曽海道六十九次之内 柏原」の「か免や」で描いた、あの福助人形はいまも健在とのこと。

   

かつては旅籠もかねていた。連子格子の二階屋で、「伊吹堂」の大額を掲げている。

    

現在の建物は文化12年(1815)のもの

   

艾を扱う店は10数軒あったようだ。全部の店が亀屋を名乗った。

 

艾は灸治に用いるもので、ヨモギの葉が原料である。日本の伝統的な治療薬としてその歴史は古く、別名「医者ごろし」と

呼ばれるほど高い評価を受けていた。

伊吹山は、古来、薬草の宝庫として知られ、数百種にのぼる薬草が生育する。伊吹艾となる良質のヨモギも産した。

「初旅は灸も支度の数に入り」と川柳に歌われるように、艾は旅の必需品であり、重宝なお土産ともなっていた。秋葉山常夜燈

伊吹艾本舗のすぐ側をながれる市場川東詰北側に建ち、安永6年(1777)の銘文がある。

市場川の近辺に本陣、脇本陣があった。

 

日枝神社

祭神:大山昨命 創祀年代は不詳であるが、元暦元年と伝えられる。明治以前は、山王社と称せられた。

拝殿:入母屋造 間口二間三尺 奥行二間:本殿:1間社流造 間口一間三尺 奥行二間

      

柏原宿歴史博物館 (平成10年(1998)開設)

国登録有形文化財

染料関係で財をなした松浦氏の邸宅で,中山道に向けて三つの入母屋造妻飾りを重ねる重厚な表構えに特徴がある。

地棟墨書から上棟年と「大工頭梁西村豊太郎」が判る。旧松浦邸を修築して宿場の歴史資料を展示している。

    

豪壮な屋根組みに魅入る。

  

柏原銀行跡

明治中期から昭和初期まで開業。今の滋賀銀行の前身)

切妻、平入の二階建、連子格子付。面影を伝える遺構である。

   

御茶屋御殿跡

柏原銀行跡から少し先の交差点の一帯。現在御茶屋前という小字が残る。

  

天正16年(1588)、徳川家康の上洛の折の宿舎として、在地の土豪に西村勘介屋敷を使用したのに始まり、その後、元和9年

(1623)の家光上洛に際して御殿を建立。以後元禄2年(1689)に廃止されるまでの66年間、将軍休泊の御殿として機能した。

野洲市永原御殿、甲賀市水口御殿(水口城)、能登川の伊庭御殿とともに近江の四御殿である。

古い柏原宿絵図に描かれた「御茶屋御殿」個人蔵と柏原御殿之図(中川泉三氏原図)

  

その他の目だった建物

     

一里塚

通称仲井町と呼んでいる住宅内(北側)と中山道沿いに流れる天の川を隔てた土手上(南側)にあった。

北側は現在愛宕神社の登り口。

  

徳源院

御茶屋の北800mには、清瀧の集落があり、その西側の山麓に清瀧寺徳源院(天台宗)がある。

近江の守護佐々木氏信(京極家の祖)が、弘安9年(1286)に開き、一族の菩提寺にした。

本堂の裏山に京極氏の墓所がある。鎌倉から江戸時代までの一族の墓が並んでいる。

他に、佐々木道誉が自ら植えた道誉桜の大木や?葺の三重塔がある。

   

徳源院から500m南の丸山南麓には、北畠具行(きたばたけともゆき)の宝篋印塔がある。

北畠具行は後醍醐天皇に使えた公卿で、元弘の変(1331)に加わり、幕命によりここ柏原で、佐々木道誉に処刑された。

 

≪参考≫

滋賀県の伊吹山の南に位置したところに旧中山道の柏原宿がある。かつては伊吹艾で名を売っていたが、今では艾の

製造販売の店が一軒残っているだけである。

柏原村は古くは豊臣秀吉の蔵入地だったが、その後、徳川幕府の直轄地となり、本郷村にあった陣屋の代官の支配下

にあった。

そして江戸時代中頃の享保9年(1724)から大和郡山藩領となって神崎郡金堂村(五個荘町)の陣屋の代官の支配の

まま明治維新に至っている。 

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康により、主要街道の整備が始まり、まず東海道が整備され

中仙道がこれに続いた。

よって柏原を通る街道は、鎌倉時代からは東山道、江戸初期は中仙道、江戸中期(正徳6年・1716年)からは中山道と

呼び名が変わっていった。

美濃の国から近江へ入った最初の宿が柏原で、そこから醒ヶ井、番場、鳥居本、高宮、愛知川、武佐、守山と続く。柏原は国境の町であり、織田信長、豊臣秀吉等その当時の権力者達は必ず柏原で休憩したり宿泊したりした。

信長、秀吉は成菩提院を使ったが、徳川家康は柏原西部の土豪西村氏の邸を使った。家康が8回以上、二代将軍秀忠

も4回使い、元和9年(1623)三代将軍家光の上洛のとき、御茶屋御殿(柏原御殿)を建築した。

しかしこの柏原御殿は、柏原宿の整備、つまり本陣や脇本陣が完成したのと、上洛が無くなり不要となり、元録2年

(1689)に終止符をうち、解体されるまでの66年間この御殿は将軍の休泊施設として機能した。

天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると、宿駅の町並みが13町、家数344軒、人口1468人、旅篭22軒

本陣・脇本陣各一軒、人馬継立問屋場5ヶ所が存在していた。本陣・脇本陣ともその成立以来、廃止にいたるまで

当地の有力者の南部氏が世襲していた。 

柏原宿は中山道の宿駅の中では比較的大きいほうに属していた。

旧中山道筋には、江戸時代以来の旅篭の建物や古い商店が幾つか残っており、宿駅の名残をよく留めている。

市場川の橋を渡り西に下ると、伊吹もぐさを今も製造販売している「伊吹堂亀屋佐京店」がある。伊吹艾はこの宿駅の名物で、「木曽路名所図会」にも「此駅は伊吹の麓にして名産伊吹艾の店多し」と記されている。

盛んな時期には十数軒のもぐさを商う店があった。

もぐさは旅の必需品であり、また旅のみやげものとして重宝がられていた。でも今はこの店一軒のみである。

切妻造り、白と黒のコントラストの漆喰の塗り込めの中二階建、平入り、桟瓦葺、格子がついていて、古めかしい

大きな看板が軒の上に揚がっていた。

形の整った見越しの松も手入れが行き届いていた。店内には大きな福助の像が置かれており、亀屋佐京店のトレード

マークになっている。江戸時代に歌川広重が描いた「木曽街道六十九次」柏原宿かめやの店頭風景と同じである。この亀屋の松浦七兵衛が寛政の頃(18世紀末)江戸へ下り、吉原の遊女に「江州柏原伊吹山の麓の亀屋佐京の切り艾」

という唄を教えこみ、毎夜宴席でうたわせ、伊吹もぐさの宣伝につとめた話は有名である。 



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