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滋賀県米原市 蓮華寺

Rengeji,Maibara city,Shiga

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Nature
 もみじ
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 桜 ミツバツツジ 紫陽花 
Culture
 
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Apr.2012 中山辰夫

米原市番場

重要文化財:梵鐘宗派:浄土宗

本尊:阿弥陀如来 釈迦如来

昔の面影が残る中山道鳥居本宿から、摺鉢峠を越えると閑寂な佇まいの番場の宿場にでるが、今は面影もない。

蓮華寺はこんもりとした山を背負って立っている。米原からは国道21号線の「番場口」から入る。お寺は旧蓮華寺村集落の中央にある。

南北朝争乱期に、北条仲時以下多くの将兵が自刃した遺跡が残ることで有名。

長谷川伸の「瞼の母」の番場の忠太郎で番場の名が知られるようになった。

境内正面には大きな本堂、その左手にまだ新しい斉藤茂吉歌碑、右手の山道へ入った林の中に、北条仲時ら

四百三十余者の墓が建っている。勅使門

参道を直進すると正面に建つ。十六菊の紋章が輝いている。

境内とさくら

左側の石垣と植込みに囲われた小道を進むと境内である。訪れた4月16日、桜は満開であった。

本堂

後水尾天皇御宸筆(元禄11年(1698))の寺号額

鐘楼

銅鐘が国重要文化財

高さ:1.19m、鎌倉中期の典雅な形が好ましい。

刻銘によると、弘安7年(1284)に願主畜能、大檀那沙弥道日によって造立されたもので、道日は土肥元頼である。

舎利塔

宝篋印塔

本堂横に立つ。

相輪上部を失うが、高さ:1.86m、笠の隅飾が三弧になり、鎌倉後期の貫禄を示している。土肥元頼の塔とされる。

☆紙本墨書六波羅南北過去帳

国重要文化財

本道裏の陳列室にある。南北朝時代

北条仲時以下432人が自刃した際、時の住僧同阿良向は彼らの菩提を弔うために48日間の常行三昧念仏を修し

陸波羅南北過去帳を作り、その名を記した。寺中に今も彼らの墓がある

なおこの過去帳には仲時らが自害したのは「番場宿米山麓一向堂前」とある。先の念仏堂と辻堂・一向堂は同一の堂で、

当寺付属の御堂であったと思われる

☆絹本著色一向上人絵像と一向承認坐像

滋賀県指定文化財

一向上人伝(5巻)・釈迦涅槃像・観経曼荼羅など多数ある。

☆絹本著色観至曼荼羅図

北条仲時一行の墓

本堂の右手奥にある。当時の寺僧が墓を造り葬った。現在、後世のものも含めて大小の五輪塔が寄り添うように並んでいる。

仲時一行は番場まで来たとき京極導誉に退路を絶たれ、仲時以下430人余が当地の辻堂で自刃した

太平記にはその惨状を『死骸は庭に充満して、屍所の肉に異ならず』と記している

五輪塔

石塔群が並ぶ所から奥の一段高いところに祀られている。

開山、一向上人俊聖の塔である。室町時代のきゃしゃな形を見せている。

忠太郎像

境内には、番場の名を有名にした長谷川伸の小説「瞼の母」の主人公・番場の忠太郎ゆかりの忠太郎地蔵尊が建つ。

幼くして親と別れ、股旅暮らしをしながら百両の金をつくり、いつかそれを捜し求める「瞼の母」に届けようと念じた番場の忠太郎。自らも同じ境遇に育った作家の長谷川伸は、この母子別離の物語を、義理人情の大衆文学に仕立て上げた。

歌碑 

斉藤茂吉の詠んだ歌

歌聖・斉藤茂吉は、第四十九代和尚佐原窿応(りゅうおう)を師と仰ぎ、蓮華寺を訪れ多くの歌を残した

『松風の 音聞くときは 古への 聖の如く我は寂しむ』

樹齢700年の巨木「一向杉」と貝多羅樹(ばいたらじゅ)

一向上人の火葬跡に植えられたとされる。

≪参考≫

由緒

寺蔵の縁起によれば、推古天皇23年聖徳太子の発願で建立された法隆寺を前身とする

のち法相宗の憲宇が寺観を整えたが、建治2年(1276)雷火で焼失した

その後、草堂のみが存したが、弘安7年(1284)北陸遊行中の一向俊聖がこの地に着き、住僧蓄能・畜生の好意と箕浦庄地頭土肥元肥の帰依を受け、堂舎を再興し、蓮華寺を創建したという

蓮華寺の開基一向俊聖(しゅんしょう)は踊り念仏をすすめる聖(ひじり)として、全国を旅する遊行僧であった一向上人の念仏の旅は九州に始まり、四国・中国をまわり京都を巡歴した後、番場の草堂に止宿し、この草堂を蓮華寺として再興し、同10年(1287)に同寺で没した

北条仲時以下432人の一行が番場で自刃したのは元弘3年(1333)である

度重なる戦乱のため衰微したが、天文8年(1539)浅井亮政に復興再建を許された。

江戸時代になると、幕府の宗教統制により、一向俊聖を祖師とする一向宗は時宗の一派に組み込まれた。

江戸末期ないしは明治初期の蓮華寺境内絵図には当時の境内が詳しく描かれている。

明治17年(1884)より浄土宗への改宗を願出たが、末寺56カ寺とともに浄土宗へ改められたのは昭和17年(1947)になってからである。

参考資料≪米原町の文化財、パンフレット、他≫

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