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滋賀県大津市 園城寺 (三井寺)
Onjoji(Miidera),Otsu city,Shiga

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新羅善神堂
円満院
三尾神社


大津市園城寺町246 園城寺一切経蔵(経堂) 重文 近世以前/寺院 室町中期 室町中期 桁行一間、梁間一間、一重もこし付、宝形造、檜皮葺 19060414
大津市園城寺町246 園城寺金堂 国宝 近世以前/寺院 桃山 慶長4(1599) 桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、向拝三間、檜皮葺 厨子1基、厨子1基 19060414 19530716
大津市園城寺町246 園城寺鐘楼 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長7(1602) 桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 19670615
大津市園城寺町246 園城寺食堂(釈迦堂) 重文 近世以前/寺院 室町中期 室町中期 桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、檜皮葺 19120208
大津市園城寺町246 園城寺大門(仁王門) 重文 近世以前/寺院 室町中期 宝徳4(1452) 三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 19000407
大津市園城寺町246 園城寺唐院 大師堂 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長3(1598) 桁行三間、梁間二間、一重、宝形造、檜皮葺 19670615
大津市園城寺町246 園城寺唐院 唐門 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長3(1598) 一間一戸向唐門、檜皮葺 19670615
大津市園城寺町246 園城寺唐院 灌頂堂 重文 近世以前/寺院 江戸前期 寛永元(1624) 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺 19670615
大津市園城寺町246 園城寺唐院 四脚門 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長3(1598) 四脚門、切妻造、檜皮葺 19670615
大津市園城寺町246 園城寺塔婆(三重塔) 重文 近世以前/寺院 室町前期 室町前期 三間三重塔婆、本瓦葺 19060414
大津市園城寺町246 園城寺毘沙門堂 重文 近世以前/寺院 江戸前期 江戸前期 正面一間、側面二間、一重、宝形造、檜皮葺 19520329
大津市園城寺町246 園城寺閼伽井屋 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長5(1600) 桁行二間、梁間三間、一重、向唐破風造、檜皮葺 19060414
大津市園城寺町246 勧学院客殿 国宝 近世以前/住宅 桃山 慶長5(1600) "桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付 中門 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造 総こけら葺" 19010327 19521122
大津市園城寺町246 光浄院客殿 国宝 近世以前/住宅 桃山 慶長6(1601) "桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付
中門 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造 総こけら葺" 19010327 19521122
Mar.13,2017 瀧山幸伸

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以下、wikipediaより

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。

歴史
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

伽藍
大門(重文)−仁王門とも呼ばれる。入母屋造の楼門(2階建ての門で、下層と上層の境には屋根の出を造らないもの)。もと近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を慶長6年(1601年)、徳川家康が寄進したもの。墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451年)の建立と推定される。
釈迦堂(重文)−大門を入って金堂に至る道の右側にある。天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝える。
金堂(国宝)−三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599年)に再建した。入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂である。なお、移築された旧金堂が延暦寺に現存する。
鐘楼(重文)−金堂の左手前にあり、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。この梵鐘は慶長7年(1602年)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている。
閼伽井屋(あかいや、重文)−金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく北政所によって建立された。堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。
一切経蔵(重文)−室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)、山口市の国清寺の経蔵を移築したものという。輪蔵。
三重塔(重文)−鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させたもの。
唐院−灌頂堂(重文)、唐門(重文)、大師堂(重文)、長日護摩堂などがある。智証大師円珍が唐から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところとされる。現在は、宗祖円珍の廟所ならびに灌頂(密教の儀式)の道場として寺内でも最も重視されている区域である。
観音堂−寺域の南側、琵琶湖を望む高台に位置し、西国三十三所観音霊場の第14番札所として知られる。観音堂は元禄2年(1689年)に再建されたもの。
毘沙門堂(重文)−観音堂の近くにある小堂。元和2年(1616年)の建立と伝える。
文化財収蔵庫 - 2014年10月開館。仏像、仏画、仏具などのほか、勧学院客殿障壁画のオリジナルを収蔵し、一部を展示する。
護法善神堂(千団子社)−三井寺の守護神である護法善神(鬼子母神)像を祀る。
新羅善神堂(しんらぜんじんどう、国宝)−三井寺の中心伽藍から北へ500メートルほど離れた場所にある。三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る。「堂」と名が付くが、建築様式的には流造(ながれづくり)の神社本殿である。現存の建物は貞和3年(1347年)、足利尊氏の寄進によるもの。新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を三井寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。
勧学院客殿(国宝)−唐院の南隣に位置する。慶長5年(1600年)の建立。桃山時代の書院造建築の代表作とされる。障壁画は狩野光信を中心とする狩野派一門の作である。
光浄院客殿(国宝)−金堂の北方に位置する。勧学院客殿より1年あとの慶長6年(1601年)建立。規模、意匠など勧学院客殿と似る。障壁画はやはり狩野一門の作である。
円満院−大門の北方(右)に位置する。円満院門跡とも称し、寛和3年(987年)村上天皇の第三皇子・悟円法親王によって創建された。江戸時代の画家円山応挙ゆかりの寺としても知られる。宸殿(重文)は、慶長年間造営の御所のうち、東福門院の御局といわれる建物を移築したもので、仁和寺の金堂などと共に江戸時代初期の寝殿造宮廷建築の遺作として重要なものである。宸殿にあった障壁画の「住吉社頭図」6面(重文)と「風俗図」4面(重文)は1974〜1975年に文部省買上げとなり、現在は京都国立博物館に所蔵されている。その他、円満院には円山応挙の「七難七福図」を始め7件の重要文化財が所蔵されていたが、現在はいずれも寺外に流出している。
法明院−境内最北にある子院。明治時代に日本美術の普及啓蒙に功績のあったアメリカ人アーネスト・フェノロサが長く滞在し、その墓があることで知られる。書院には円山応挙、池大雅らによる障壁画がある。

文化財

三井寺の秘仏
黄不動像(絹本著色不動明王像、国宝)をはじめ、三井寺の仏像には平素公開されない秘仏が多い。唐院大師堂の木造智証大師像2躯(中尊大師・御骨大師、ともに国宝)、唐院大師堂の木造黄不動立像(重要文化財)、新羅善神堂の木造新羅明神坐像(国宝)、観音堂の木造如意輪観音坐像(重要文化財)、護法善神堂の木造護法善神立像(重要文化財)などはいずれも秘仏である。これら秘仏は下記の行事等の機会に公開されたことがある。
「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」(1989年10月から1990年9月まで東京国立博物館など4会場で開催)及び「智証大師一千百年御遠忌大法会」(1990年10月から11月に寺内で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
「智証大師帰朝1150年記念国宝三井寺展」(2008年11月から2009年5月まで大阪市立美術館など3会場で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
「天台寺門宗宗祖智証大師生誕1200年慶讃大法会」(2014年10月から11月に寺内で開催) - 大師堂で智証大師像2躯と木造黄不動像、観音堂で如意輪観音像を開扉。
なお、金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは不明である。

国宝
金堂(附:厨子)
新羅善神堂(附:須弥壇及び厨子)
勧学院客殿
光浄院客殿
絹本著色不動明王像(黄不動)(既述)
木造智証大師坐像(中尊大師) - 唐院大師堂の中央の厨子に安置。秘仏で、毎年10月29日の円珍の命日にのみ開扉される。卵形の頭の形と細い眼が特徴の独特の風貌は、各地に残る円珍の肖像に共通のものである。この像はもと比叡山内の山王院(千手院)にあったと言われ、円仁(慈覚大師)門徒と円珍門徒の抗争激化のため、円珍門徒が比叡山を下りた正暦4年(993年)に三井寺に移されたものと言われている。ただし、作風的には10世紀後半頃のものと見られ、正暦4年頃に三井寺で新たに造像されたとの見方もある。「三井寺の秘仏」の節で紹介した行事等で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
木造智証大師坐像(御骨大師) - 唐院大師堂内、中尊大師像の向かって左の厨子内に安置する。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。荼毘に付した円珍の遺骨を納めるところから「御骨大師」と呼ばれて寺内で尊崇され、出版物への写真掲載は制限されている。中尊大師像より古く、9世紀末、円珍没後まもない頃の作と思われる。
木造新羅明神坐像 - 新羅善神堂に安置。非公開。円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされる。長いあごひげを蓄え、目尻の下がった異様な相貌、異様に細く長い指など、極めて特殊な像容を示し、日本彫刻史の中でも異彩を放っている。平安時代後期、11世紀頃の制作と推定される。「三井寺の秘仏」の節で紹介した展覧会で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
五部心観2巻−両界曼荼羅のうち、金剛界曼荼羅の諸尊を表した白描(はくびょう)図像の巻物である(白描とは、陰影や肥痩のない、均質な墨の線だけで表した絵画のこと)。2巻のうち1巻は完本で唐時代に制作され、円珍が師の法全(はっせん)から授かったもの。もう1巻の残欠本は11世紀平安時代に日本で写されたものである。ただ、最近では残欠本の方を請来本とする意見もある。
智証大師関係文書典籍 - 円珍に関わる資料46種が一括して国宝に指定されている。主なものとしては、円珍の系図、唐への渡航関係文書、円珍自筆本、唐から請来した経典などがある。京都国立博物館・奈良国立博物館に寄託。(文書典籍の明細は別記)

重要文化財
木造不動明王立像−木像彩色、玉眼。唐院大師堂の向かって右の厨子に安置される。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。原本である黄不動の画像をもとに、鎌倉時代に彫像として慶派の中心仏師によって造られた像と見られる。
木造如意輪観音坐像−木造漆箔。10世紀末頃の作。西国観音霊場14番札所の観音堂の本尊である。秘仏で、開扉は33年に一度とされている。
梵鐘(弁慶の引き摺り鐘)−金堂近くの霊鐘堂に所在。「三井の晩鐘」の鐘とは別のものである。無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太こと藤原秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。

以下は園城寺所有の重要文化財の一覧である(上に解説したものも重出している)。

(建造物)
大門(仁王門)
閼伽井屋
一切経蔵
三重塔
食堂(釈迦堂)
毘沙門堂
唐院4棟(大師堂・唐門・灌頂堂・四脚門)
鐘楼

(絵画)
絹本著色新羅明神像
絹本著色天台大師像 2幅
絹本著色不動明王像
絹本著色不動明王二童子像
絹本著色不動明王八大童子像
絹本著色釈迦十六善神像
絹本著色涅槃像
絹本著色尊星王像
絹本著色多聞天像
絹本著色閻魔天像
絹本著色水天像
絹本著色黄金剛童子像
絹本著色両界曼荼羅図
絹本著色尊勝曼荼羅図
絹本著色八大仏頂曼荼羅図
光浄院客殿障壁画 25面 紙本金地著色松に滝図(床間貼付1)、紙本金地著色菊花図(上段床間1、同障子腰4)、紙本墨画列仙図(襖4、帳台構3)(以上広間)、紙本著色花鳥図(襖12)(次の間)附:著色杉戸絵4面(唐獅子図2、松梅図2)
勧学院客殿障壁画 15面 金地著色滝図(床間壁3)、梅、檜及花卉図(襖4)、桜、杉及花卉図4面(襖4)、檜及花卉図(戸襖4)(一の間)
勧学院客殿障壁画 24面 紙本著色松に山鳥、鴨、鴛鴦図及竹に雀図(襖16)、竹に雀及芦に鷺図(戸襖8)(二の間)

(彫刻)
木造如意輪観音坐像(観音堂安置)
木造愛染明王坐像(観音堂安置)
木造護法善神立像(護法善神堂安置)
木造黄不動尊立像(唐院安置)
木造吉祥天立像
木造十一面観音立像
木造千手観音立像
木造智証大師坐像
木造不動明王坐像
木造訶梨帝母倚像

(工芸品)
金銅孔雀文磬
銅鐘 大平年間(遼)銘
梵鐘 奈良時代

(書跡、歴史資料)
大蔵経(文和三年正月廿三日足利尊氏願経) 592帖
紙本著色園城寺境内古図 5幅
園城寺尺 2枚
* 唐院預竹計 応永三十一年四月十九日香実房領納(附 包紙(長禄二年四月二十七日授与記))
* 唐院預尺 応永三十三年三月十五日写



大門(仁王門)
          
食堂(釈迦堂)
                 

金堂
                                                   
       
鐘楼
                
閼伽井屋
Akaiya
                                

熊野権現社
    

   

弁慶鐘
             

          

一切経蔵(経堂)
                                        

塔婆(三重塔)
              

唐院 灌頂堂、護摩堂
             

唐院 大師堂、唐門
       

唐院 四脚門
        

唐院
      

勧学院付近
           

   

微妙寺、文化財収蔵庫付近
     

毘沙門堂
                   

観音堂
                                                     
十八明神社
 

総門
  

護法善神堂
      


Feb.1,2015 大野木康夫 movie

毘沙門堂

             

唐院付近

  

唐院四脚門

  

唐院灌頂堂とその付近

       

唐院唐門及び大師堂

         

塔婆(三重塔)

                 

一切経蔵(経堂)

     

金堂

               

鐘楼

      

閼伽井屋

      

光浄院

  

食堂(釈迦堂)

         

大門(仁王門)

         




April 5,2014 大野木康夫 movie

園城寺〜琵琶湖疏水のライトアップ

三井寺と琵琶湖疏水のライトアップ、悪天候でしたが大勢の方が訪れていました。

                                             






Apr.7.2014 中山辰夫

桜満開のライトアップされた三井寺を散策した。

仁王門(国重文)付近
         

食堂(じきどう)前を通り境内へ向かう
          

鐘楼(国重文)・閼伽井屋(国重文)・教待堂などが並ぶ。
         

光浄院(客殿は国宝)付近
         

金堂(国宝)付近
               

霊鐘堂(古鐘は国重文)・一切経蔵(国重文)付近
     

三重塔(国重文)付近
      

唐院(国重文)−灌頂堂・長日護摩堂付近
     

唐院へ登る石段
     

村雲橋付近の参道(右側の石垣は勧学院(客殿は国宝)
         

微妙寺付近
     

観音堂への参道(毘沙門堂-国重文)
     

観音堂への石段
         

観音堂近辺
     

鐘楼と観月舞台近辺
      

大津市街
     






July 10,2013 川村由幸

広い境内に数多くの伽藍が点在する三井寺。ここの金堂は美しいのです。
屋根の描く優美な曲線に見惚れました。

                                                                                            



Apr.2013 中山辰夫


園城寺(三井寺)の創草は、大友皇子が仁申の乱で敗北したため、その子大友与多王がその宅地に寺を建てたことから始まる。
金堂あたりが大友氏の邸宅跡とされ、近江最古の庭園と思われる石組が現存する。金堂も閼伽井屋、鐘楼も国重要文化財の桃山建築である。

勧学院と光浄院

三井寺の境内には多数の子院が点在するが、なかでも別格に格式が高いとされるのが勧学院と光浄院である。

 

現在の両院の客殿は豊臣秀吉が破却したのち、「慶長の再建」によるものである。両院は1年差で建てられたほぼ似た建物である。
両院の客殿は、桃山時代の代表的建築物として、何れも国宝に指定されている。
通常は非公開で、事前申請による特別拝観となっている。
尚、勧学院はメトロポリタン美術館に一之間レプリカで展示されている。
光浄院客殿は、1954(昭和28)年日米友好関係の再構築を願い、日本からアメリカへの贈り物としてニユ−ヨーク近代美術館中庭に建設展示された松風荘のモデルで、吉村順三氏による設計である。
いまはアメリカ生誕の地、フィラデルフィア市郊外のフェアマウント公園に建つ
フィラデルフィアの松風荘(ウイキペデイアより引用) 日本文化を凝集させたものと評価される。
 

勧学院

大津市園城寺町246
三井寺子院の中でも格式の高い子院の一つで、唐院の南に位置する。
勧学院は学問所として、東大寺、興福寺、金剛峰寺その他諸大寺に設けられた。
これは寺全体が学問機関であった古代の状態から平安以降教育機関が寺内の一か所に集中する過程でつくられた。
園城寺の勧学院は、比較的遅れた正和元年(1312)に創立された。その後1595(文禄4)年、秀吉に破却されたが、1600(慶長5)年に再建された。

大門をくぐり、金堂の正面に至る参道を左手に進むと、右手に唐院唐門への参道が見え、すぐ前の村雲橋にさしかかる。
その右手は勧学院の石垣である。この一帯は、さくらや紅葉が何とも美しい景観を呈している。
     

周囲は結構高いも石垣が取囲み、院内の様子は屋根しか見えない。
     

山門から庫裏へ
塀に沿って参道をめぐる。白砂が敷かれた参道周辺はキッチリと手入れされている。風格のある庫裏が目立つ。
     
白壁の塀越しに?葺きの客殿(国宝)の優雅な屋根が見える。狐格子の美しい入母屋造である。

軒唐破風の玄関正面
  

中門
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、総こけら葺。奥が国宝の客殿である。
    

院内は撮影が許可されていないため、院内の写真・他は参考資料を引用する。

国宝・勧学院客殿
桃山時代(慶長五年 1600) 毛利元輝の寄進による。

軒唐破風の玄関から内部に入ると、大小八ツの部屋に分かれる。
奥の十二畳が一之間で、大きな床と華麗な帳台構が設けられ、建築の細部に技巧が施されている。正面の池庭に向かって広縁がある。

正面図・南面図・北面図・背面図
   

正面・南面・西側・北側写真
     

概要は、正面七間 側面七間 一重 入母屋造・妻入 正面軒唐破風付 総柿葺 近世初期書院造の典型である。
光浄院客殿と外観はほぼ同じだが規模はやや大きく、平面は光浄院の二列七室に対して三列九室である。
外観は車寄せ部分の妻戸、唐破風さらに中門があって寝殿造以来の伝統的な形式が残っている。

南側広縁と東側広縁
  
正面の池庭にむかってあり、平安朝の上流住宅にあった中門廊の名残をとどめる。東側広縁は光浄院客殿と異なっている。

中門廊と取付部
  
中門廊の軒はねじれあがって広縁の桁に取付き実に軽快な構成美である。光浄院客殿は上長押と梁を入れ板蟇股で棟木を受けている
のに比べ、ここは簡素な構成である。

大棟獅子口正面
  

客殿妻大板蟇股 形は拙いが梅鉢懸御の形がややよいとされる。
 
客殿長押釘隠二種 5種類の釘隠が使われている。
 

客殿平面図及び障壁画配置図
 

客殿一之間 正面大床
主室(上段の間)には正面に大きな床を取り、内部は華やかな障壁画で彩られる桃山書院造の代表的建築である。
その北隣の室に床と付書院を設けている。
 

一之間西側(三之間境)襖
 

一之間と二之間境(一之間側)
 

一之間と二之間境(二之間側)
 

二之間西境
 

二之間三之間(鞘の間)境(二之間側)
 

三之間付書院及び床
 

六之間正面の押入と床 左方の出っ張りは三之間の床
 

障壁画
狩野光信筆の花鳥草木の金画碧画と着彩画をまじえた桃山時代の秀作である。
内部は南北を大きく三列に分け、南列の一之間と広い二之間には、狩野光信による華麗な障壁画が部屋を飾っている。
基本的に全ての部屋は襖で仕切られ、襖をはらえば広い空間となる。これは学問所として多人数での使用を考えた上での機能とされる。
  

勧学院客殿一之間
一之間の床には貼付の瀑布図がある。これに向かって右手に二間半に四枚の襖があり、梅、杉等が描かれている。左手は庭に面する桟唐戸で
その裏に松、杉、あやめなどがあり、床に相対する二間に四枚の襖には桜が主要な題材になっている。下地はすべて金地である。
一之間の障壁画は、金箔地に濃密な色彩で描かれているが、瀑布図はすでにデジタル化されている。金地処理に明らかな差異がみられる。
今後は順にデジタル化されると聞くが、本物の味より若干落ちるのは残念である。
 

客殿一之間 「四季花木図襖」 重要文化財
この障壁画は狩野光信筆とされる。これは一之間の金地極彩色四季花木図の春景の部分で、立ち木を奥へ奥へと重ねる光信独自の構成法
が最もよく示されているとされる。光の入る具合で変化する絵の表情を楽しんだとされる。
    

客殿一之間 「四季花木図襖」 重要文化財
同じ襖絵の早春の景の一部で、光信独特の立ち木による奥行き表現、岩法、樹法および巧みな金雲の配置を鑑賞するのに適するとされる。
曲折する梅樹は大きな金空間を超えて右方の檜樹に働きかける。全体として優美な趣を感じる。
 

客殿一之間 「四季花木図襖」 重要文化財
一之間の春景から夏景へ移る部分。下辺の金雲から上へ、岩、池、岩、土坡、樹草(石楠花・笹)、金雲、樹梢、金雲を慎重に配する構成や
優美な樹枝の曲線はまさに光信画の特色とされる。
 

客殿二之間 花鳥図襖 重要文化財
 
二之間の四周を飾る素地淡彩の花鳥図の一部。一之間と異なり、巨松が左右に長く枝を伸ばす永徳的な大構図法をとるが、緻密な鳥や草花
の描法、岩の皴法からみて、一之間と同じく光信の筆とされる。

庭園
 
広縁の向こうに広がる庭園は、正面中央に造られた築山に大きな樹が植えられ山腹にはサツキなどが植えられている。
緑あふれる庭は学問所としてつくられた寺院に合うよう趣向が凝らしてあり、学問での疲れを癒すのに効果的であったと思われる。



光浄院
大津市園城寺町246

勧学院と並び、山内で最も格式の高い子院である。客殿と庭園が素晴らしい。
大門をくぐり右への道を行くと、国宝金堂の背後に周囲を石垣と白壁の塀に囲まれた光浄院がある。外郭の石垣は城郭を思わせる。
    

1601(慶長6)年に第6代住持、山岡道阿弥によって、再興された桃山時代の作風を伝える中門の遺構(国宝)とされる。
客殿には狩野派による豪華な障壁画(重要文化財)が遺され、桃山時代における書院の代表的建築として極めて重要とされる。

周囲も石垣が高く囲み、院内の様子は見えない。屋根のみが見える。
    

山門から庫裏へ
塀に沿って参道を進む。右側に中門があり、客殿前景である。参道はこざっぱりと手入れが行き届いている。
風格のある庫裏の前に出る。
     

いよいよ客殿の境内へ向かう
  

参道の中ほどに建つ中門 
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、総こけら葺。奥が国宝の客殿である。
客殿の優雅な屋根が見える。狐格子の美しい切妻造である。ここが客殿への出入り口となる。格子越しに見る意匠がいい。
     

光浄院は、室町時代の1460(寛正元)年に美作守の山岡資広が建立したと伝える。その後、山岡道阿弥が秀吉による文禄の闕所で
荒廃した三井寺を復興すべく奔走し、現在の国宝光浄院客殿を1601(慶長6)に復興したと伝える。
山岡道阿弥は三井寺復興の大恩人とされる。
もともと山岡家は、瀬田の唐橋で有名な瀬田城の城主をつとめた家で、三井寺との縁が出来てからは道阿弥の弟暹実をはじめ
江戸時代を通じ一族のなかから三井寺に入寺する者が続いた。

いよいよ客殿に向かう。院内は撮影が許可されていないため、院内の写真・他は参考資料を引用する。

国宝・光浄院客殿
桃山時代(慶長6年 1601)

正面図・南面図・北面図・背面図
     
正面・南面・西面・北側写真
         

概要
正面七間 側面六間 一重 入母屋造 妻入 正面軒唐破風付 総柿葺
外観は勧学院客殿によく似ているが、間取りは二列に配されている。
南側の広縁に続く上座一之間の見付には二間巾の大床と違棚を並べ、北側の納戸境には帳台構を設ける。

南側広縁
正面の池庭にむかってあり、平安朝の上流住宅にあった中門廊の名残をとどめる。
    

中門廊とその取付部及び蔀戸
舞良戸の間より杉戸の間が広く、従って中門の棟木は柱真と一致しない。勧学院客殿は柱上舟肘木で中門廊の棟木を受けている。
    

鞘の間杉戸の外側と内側
  

正面破風の懸魚、唐破風兎毛通、唐破風妻飾蟇股、獅子口
       

客殿平面図及び障壁画配置図
 

一之間 広間
南側の奥の間に押板と棚があり、向って左に上段がつく。その南側には付書院が、又棚の右側には帳台構がある。この構成は書院造の
基本的な形である。外観は勧学院とほぼ同様で、蔀部を使っている点が異なる。
正面・大床・違棚・帳台場
       

上段の間
主室(上段の間)には正面に大きな床を取り、内部は華やかな障壁画で彩られる桃山書院造の代表的建築である。
その北隣の室に床と付書院を設けている。

南側の広縁幅いっぱいに張りだした二畳の上段の間。床と付書院を設ける。
    

床や南面小障子
    

障壁画
  

客殿一之間障壁画 一之間床貼付絵 重要文化財
  
松の大木を描いた豪壮な絵である。 白の岩絵具の盛り上がりが素晴らしい。レプリカされるとこの味が無くなる。

客殿二之間 四季花木花鳥図襖 国重要文化財
  
二之間三方十二面の襖に描かれた四季花木花鳥図(素地着彩)の春から夏への部分。奥行きのある構図など狩野光信の画風に近いが
おそらく弟子の作とされる。

一之間・広間と二之間境襖(広間側)と(二之間側)
  

二之間北境襖(二之間側)と二之間・三之間(鞘之間)境襖(二之間側)
  

庭園 国名勝・史跡
 
客殿の各部屋は庭が見渡せるよう設計されている。
  

庭園は国宝の客殿と一体となって、その奥深さが実にうまく表現されているといわれる。決して広くないが、敷地に池を低く堀り、背後の大木を
植えるなどして興趣ある庭となっている。
 

豪華な建築で知られる客殿の南にあり、小池には珍しい夜泊石と亀石を配する。書院の真下から池になっており、水が満ち溢れた、趣のある
雰囲気になっている。
  
池周辺を固める石組はいずれも豪壮な自然石が選ばれ使われている。池は東西に長く続き、広縁下の石組と、象徴的な二つの石が池中に
浮かんでいる。
 

庭園については≪近江の名園 渡部 巌著 光村推古書院≫より引用させて頂きました。
参考資料≪国宝光浄院・国宝勧学院客殿修理工事報告書、全集日本の古寺・園城寺の研究・三井寺祈想、ほか≫



Feb.2012 大野木康夫 HD video

2012.2.18撮影 

2月18日、京都・滋賀は朝から雪が積もっていたので、園城寺の雪景色を見に行きました。
JRの信号故障でダイヤが乱れていたので、琵琶湖線の大津駅から歩いて園城寺を目指しました。

          

南側の総門から入山し、毘沙門堂を目指しました。

     

毘沙門堂(重要文化財)

江戸前期の建築
正面一間、側面二間、一重、宝形造、檜皮葺

毘沙門堂は創立沿革を明らかにしないが、形式手法上桃山時代の建立と考えられる。
多くの堂宇が建ち並ぶ園城寺境内にあって規模が小さい堂であるが、組物、軒廻り内部天井等によく時代の特徴を表している。
(国指定文化財等データベースより)

             

観音堂には向かわず、唐院方面に行きました。
日が差さないのでいつも黒つぶれする三重塔がきれいに撮影できるかもしれません。

 

勧学院客殿(国宝)

慶長5(1600)年の建築
桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付
中門 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造
総こけら葺

勧学院は3名以上で予約しないと拝観できませんので、外から塀越しに屋根を撮影しました。

       

勧学院前から金堂方面への道

  

唐院四脚門(重要文化財)

慶長3(1598)年の建築
四脚門、切妻造、檜皮葺

唐院は園城寺(三井寺)を開いた智証大師(円珍)が中国伝来のお経をおいた所で、伝法潅頂(これをうけると僧の学位が得られる)の場とした。
また智証大師像をおいている。
現建物は慶長三年(一五九八)の建立。
園城寺内の特に大切な一郭の建物として価値がある。
(国指定文化財等データベースより)

          

唐院灌頂堂(重要文化財)

寛永元(1624)年の建築
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺

           

唐院唐門(重要文化財)

慶長3(1598)年の建築
一間一戸向唐門、檜皮葺

唐院大師堂(重要文化財)

慶長3(1598)年の建築
桁行三間、梁間二間、一重、宝形造、檜皮葺

唐門と大師堂は灌頂堂の背後にあります。立入禁止区域が設けられており、全景を見ることはできません。

       

塔婆(三重塔)(重要文化財)

室町前期の建築
三間三重塔婆、本瓦葺

灌頂堂の北に建っています。
冬で木の葉が落ち、日が陰っていたので、黒つぶれが少なくなりました。
いつもは大変撮影しにくい建物です。

                   

一切経蔵(経堂)(重要文化財)

室町中期の建築
桁行一間、梁間一間、一重もこし付、宝形造、檜皮葺

最近修理が終わったばかりです。

                 

金堂(国宝)

慶長4(1599)年の建築
桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、向拝三間、檜皮葺

この日は人も少なく、撮影しやすかったです。

                                                 

鐘楼(重要文化財)

慶長7(1602)年の建築
桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺

園城寺伽藍の鐘楼であって、慶長七年(一六〇二)に造られたものである。
伽藍の一環として重要なものである。
(国指定文化財等データベースより)

             

閼伽井屋(重要文化財)

慶長5(1600)年の建築
桁行二間、梁間三間、一重、向唐破風造、檜皮葺

           

光浄院を覗きに行きました。

 

光浄院客殿(国宝)

慶長6(1601)年の建築
桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付
中門 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造
総こけら葺

勧学院客殿と同じく、3名以上で予約しないと拝観できません。
こちらは正面入口の手前に立入禁止区域が設けられているので、その手前から塀越しに屋根を撮影しました。

       

食堂(釈迦堂)(重要文化財)

室町中期の建築
桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、檜皮葺

            

大門(仁王門)(重要文化財)

宝徳4(1452)年の建築
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺

                          

雪景色を堪能し、大津京駅から帰ることにしました。
帰り路、屋根の葺き替えが終わった新羅善神堂に寄りました。

市役所前から弘文天皇陵を通れば新羅善神堂です。

          

帰りのJR湖西線はダイヤが乱れ、30分ほどの遅れでした。





June 2011 中山辰夫

園城寺は、山門(比叡山)との対立や源平の争乱、南北朝の争乱などによる焼討ち、さらには豊臣秀吉の闕所(けつしょ)による堂舎の亡失など、幾多の法難に遭遇したが、現在も多数の伽藍を擁する寺容を誇る。
長等山の中腹から山麓一帯に100万uの境内をもつ。
    

大門(仁王門):宝徳4年(1452):国重要文化財: (仁王像は運慶の作で国重文)
三間一戸楼門 入母屋造 桧皮葺
浄域への表門として慶長6年(1601)、徳川家康により甲賀の常楽寺(既報)から移建された。端正で品位が高い。
    
端正で品位が高い
    

食堂(じきどう 釈迦堂):室町中期:国重要文化財
桁裄七間 梁間四間 一重 入母屋造 桧皮葺:中世寺院の食堂(じきどう)の様式を伝える。
     
室町時代初期の御所清涼殿を解体、移築したものとされる。
   
本尊に釈迦如来を安置したため、釈迦堂の名で親しまれる。
    

光浄院客殿:慶長6年(1601):国宝
仁王門をくぐり右の道を少し進むと白壁の塀と石垣に囲まれている。子院の一つ。外観は勧学院と似ている。
    
客殿
桁裄七間、梁間六間、一重、入母屋造、妻入り、正面軒唐破風付き 総?葺
洗練された書院建築として桃山時代の代表的な作品である。山岡道阿弥画復興した。
    
入母屋造と切妻の唐破風の違った屋根の稜線が美しい調和を描く。障壁画も素晴しい。参観は事前申請が必要
    
資料 滋賀県教育委員会発行
    

庭園
桃山時代のもので、枯滝を組み、植込みと石組が見事である。庭ではツバキ・ネズミモチ・桜・カシなどが咲く。
    
資料 滋賀県教育委員会発行
    
資料 滋賀県教育委員会発行
  

教待堂
教待和尚の像を安置している。智証大師が入山以前にこの聖地を護持していた不思議な老僧とされる。
   

金堂:慶長4年(1599):国宝
桁裄七間 梁間七間 一重 入母屋造 向拝三間 桧皮葺
前身の金堂は文禄4年(1595)の破却に際して延暦寺に移され、転法輪堂に変わった。現在の金堂は秀吉の遺志をついだ北政所の援助を得て慶長4年(1599)に再建されたもの。圧倒的な量感が感じられる。
    
屋根は日本建築の“顔”・“粋”といわれる。建築家は、この巨大な屋根をいかに小さく美しいものにみせ、雨に強くするかに腐心した。
園城寺の屋根は軽やかで上品。今にも飛び出そうとする鳥の姿に似ている。一見、直線に見える棟の流れは緩やかな曲線で構成されている。
    
柱は円柱で、組物は二手先、中備は間斗束を立てる。正・背の扉上だけ蟇股で飾る。
    
園城寺は桃山期を代表する名建築。彫刻の展示場ともいわれる。その中でも手挟みの絢爛たる花模様は彫刻技術の粋を集めたもの。

柱上の手挟は牡丹・菊・蓮などの趣を変えた彫刻が美しい。
     

   
きしみ音とともに開く扉。扉が自重で歪んだり、動き難くならないように八双金具が使われている。デザインもスッキリしている。
        

鐘楼(三井の晩鐘):慶長7年(1602)再建:国重要文化財
桁裄二間 梁間一間 一重 切妻造 桧皮葺
    
姿は宇治の平等院(既報)、銘は高尾の神護寺(既報)、音は三井寺とたたえられる日本三銘鐘の一つ。荘厳な音色がいい。
    
近江八景で有名な「三井の晩鐘」として名高く、NHKの「除夜の鐘」で誰もが耳にした音色である。
「七景は 雲に隠れて 三井の鐘」芭蕉

閼加井屋:慶長5年(1600):国重要文化財 北政所が建立
桁裄二間 梁間三間 一重 向唐破風造 桧皮葺

    
今も湧き出る泉を護る覆屋は慶長5年(1600)の建立。大小の石組みが苔むしている。奈良時代を偲ばせる。
  

    
欄間は、鴨居や内法長押(うちのりなげし 鴨居の上部にある長押)の上部に作られた開口部で、一種の窓である。

   
石組は日本庭園史上、飛鳥時代の様式を留めるものとされる。弘文天皇第三皇子大友与太王の大邸宅があった証拠とされる。
高さ1.5m余の中尊石の左右に、それぞれ高さ90cm、70cmの脇侍石を配している。三尊石組として最も古い。
 

芭蕉の句碑
  

天狗杉
   

霊鐘堂(弁慶の引摺り鐘)

    
また、中世の「山寺両門の争い」を象徴する「弁慶の引摺り鐘」伝説で知られる。ヒビも入っている。
謡曲「三井寺」にも「三井の古寺鐘あれど、昔にかえる声聞こえず」とある。
   

孔雀
    

一切経蔵:室町中期:国重要文化財

    
慶長7年(1602)、戦国大名毛利元より山口県・国清寺より移築、寄進された。屋根の流れが目立つ。
    

    
波の形も自然で、しかも連子の間隔の十分。和紙を使っているので、やわらかな光の中に浮き上がる波形がたまらない。
 
堂内には回転式の八角輪蔵「本棚」がある。一切教がおさめてあり、まわる書架である。
 

唐院
一切経蔵の南、三重塔を取り囲むように造られた一郭が寺内で最も重要な唐院である。智証大師の御廟である。
唐院は智証大師が入唐してもたらした経巻や法具等が納められた所で、伝法灌頂の道場として神聖な区域である。
この一郭内に、東を正面にして四脚門、潅頂堂、唐門、大師堂と一直線に並び、潅頂堂の南に長日護摩堂、北に三重塔が配置されている。
  

唐院四脚門:寛永元年(1624):国重要文化財
切妻造 桧皮葺
    

唐院唐門:慶長3年(1598):国重要文化財
慶長3年(1598)の造営、一間一戸の向唐門(唐破風が前後に在る門)で、さほどの特徴はない。
  

唐院大師堂:慶長3年(1598)再建:国重要文化財
桁裄三間 梁間二間 一重 宝形造 桧皮葺

 
内部に智証大師像と黄不動尊像が祀られている唐院の中心建築である。
資料 滋賀県教育委員会発行
      

唐門庫裏
  

塔婆(三重塔):室町中期:国指定文化財 

    

    
もとは奈良県・比蘇寺(ひそてら)より移建された。
    

唐院灌頂堂:寛永元年(1624):国重要文化財 
桁裄五間 梁間五間 一重 入母屋造 桧皮葺

    
装飾要素はごく控えめで、正面中の間軒唐破風まわりの蟇股や飾金具ぐらいである。
    

唐院長日講摩堂:寛文6年(1666):県指定文化財
桁裄三間 梁間三間 一重 宝形造 本瓦葺
白砂を敷き詰めた尊厳な唐院の一郭に建つだけに角柱に漆喰塗の真壁で仕上げがなされている。
他の建物と調和を取って繊細、優美に造られている。小さなお堂である。白砂は立ち入り禁止である。
    

村雲橋
橋の命名には伝説が残る。
       

勧学院
橋を渡った所の北西の角、唐院の南に位置する。園城寺の子院の一つで、周囲は石垣に囲まれて建つ。
客殿 慶長5年(1600) 国宝
桁裄七間 梁間七間 一重 入母屋造 妻入り 正面軒唐破風付き
   
外観は正面車寄部分の妻戸、唐破風さらに中門があって寝殿造以来の伝統的形式が残る。
変化にとんだ外観は調和が取れ、気品に溢れた桃山時代を代表する書院建築である。障壁画も桃山時代の秀作である。
  
庭園も素晴しい。学問所にふさわしい名園で、庭の中央にはヒノキ・杉の大木がある。参観は事前申請が必要。
  

微妙寺
三井寺の五別所の一つで現地に移築したもの。
本尊は十一面観音(重要文化財・平安時代初期)で、現在は湖国十一面観音霊場の第一番札所
    

天台智大師
  

衆宝観音
  

毘沙門堂 江戸前期 国重要文化財

    
元和2年(1616)の建立で、極彩色に荘厳された優美な建築。
   

重文の毘沙門堂を過ぎるとほどなく急な石段へ取り次ぐ。登りつめたところが、広い眺めをもつ観音堂だ。
西国三十三ケ所観音霊場第十四番札所−中心伽藍の粛然とした佇まいと対照的に開放的だ。
      

観音堂:三十三ケ所巡りの十四番札所 元禄2年(1689)再建 県指定文化財

正堂:正面三間 側面三間 宝形造 桟瓦葺 礼堂:桁裄九間 梁間三間 二重 入母屋造 向拝三間 本瓦葺
    
延久4年(1072)、後三条天皇の病気平癒を祈って山上に建てられた聖願寺を前身とする。
    

    
本尊:如意綸観音(国重要文化財:平安時代)33年毎に開扉される秘仏
   

鐘楼:文化11年(1814)県指定文化財
        

百体堂:宝暦3年(1753)
県指定文化財
    

観月舞台:寛永3年(1849)県指定文化財
        
崖にせりだして建つ懸崖造である
  

絵馬堂:享和2年(1802)市指定文化財
    

手水舎:明治14年(1881)市指定文化財
    

伽藍の並びも美しい。比叡山の山並み、大津市街、琵琶湖が一望できる。飛鳥の時代には天智天皇の大津京が目の下に見えたかも。
     
展望台近くに大津そろばん碑が建つ。石段を降りると三尾神社・長等神社に近い。
  

水観寺
園城寺の五別所の一つ。庶民が下駄履きのまま参拝できる形式となっており、五別所の中で最も古い本堂である。
本堂(すいかんじ):明暦元年(1655)建立 県指定文化財
桁裄四間 梁間五間 一重 入母屋造 こけら葺
三井寺の五別所の一つで現地に移築したもの。本尊に薬師如来を祀り、現在は西国薬師霊場の第四十八番札所となっている。
    

財林坊・本地院
    

護法善神堂(千団子社)市指定文化財 享保12年(1727)再建

    

   

   
桁裄三間 梁間二間 切妻造 向拝一間 桧皮葺

    
装飾をおさえたおとなしい造りである。細部まで丁寧な施しである。
        

 
毎年5月の祭礼は(千団子さん)と親しまれ、子どもの無地成長、安産を祈願する人で賑わう。
本地堂 市指定文化財
  

寺宝
仏像をはじめとした国宝・重要文化財が多く所有されている。数例を記す「引用」

長等山下西山楼前嬉儘場風景 
館蔵 里内文庫 明治7年(1874)
桜で有名な長等山周辺の春の様子 ひときわ目立つ高所にあるのが近松寺。
 

三井寺観音堂落慶図絵馬 
三井寺所有 元禄3年(1690)
貞享3年(1686)に焼失した観音堂の再建の様子を描く。現在の観音堂はこの時の元禄2年(1689)に再建されたもの。
元禄11年(1698)に「諸国巡礼の助力」により瓦葺となった。
 

三井寺境内図絵馬 
三井寺所有 天和3年(1683)
右手に大門を、その上方に金堂、三重塔、唐門が描かれ、左手には巡礼札所である観音堂(正法寺)と、その麓の新宮社「長等神社」門前の賑わいが描かれる。右下には琵琶湖と湖上を行く船が見える。
本図は園城寺観音堂に奉納された絵馬のうち、現存最古の一面で、貞享3年(1686)の火災以前の姿を伝える資料として基調とされる。
 

三井寺図并近江八景付歌 
館蔵 里内文庫 
三井寺の伽藍を中心に、右上は比良の山、右下には琵琶湖を堅田から瀬田石山までの近江八景ゆかりの地を描き込む。
近江八景のそれぞれの地に、歌が付されている。
 

参考資料《滋賀県の地名、古寺巡礼・三井寺、日本の建築、大津市史、近江西国三十三所、ほか》




Apr.2011 中山辰夫

三井寺の桜

                    


Dec.2010 酒井英樹

園城寺(三井寺)は、大友与多王が壬申の乱で敗れた父親の大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔う為、祖父である天智天皇の稔侍仏の弥勒菩薩を本尊として大友氏の氏寺として創建されたと伝承される。
この本尊である弥勒菩薩は秘仏が大半を占める園城寺の中でも秘仏中の秘仏で、未だに公開されたことがなく、姿を写した写真さえ存在しないとされる。
園城寺は大友与多王の叔父である天武天皇が与えた寺号で、広く知れ渡っている三井寺は天智天皇・天武天皇・持統天皇の産湯に使われたことから「御井の寺」が転じたと言われている。
貞観元年(859)、円珍(智証大師)が唐からの留学を終えて、園城寺に唐院を設置した。
その後円珍は五代天台座主になるが、彼の死後、比叡山は三代座主であった円仁(慈覚大師)の門流と円珍の門流に分かれ、対立を深めた。正暦4年(993)、両者の対立が激化し円珍派は比叡山から三井寺に移った。
以降、比叡山延暦寺は「山門」、園城寺を「寺門」と称する様になり、いわゆる「山門寺門の抗争」で園城寺は永保元年(1081)他に大小数十度の焼き討ちにあい、その都度時の権力者によって再建を繰り返した。
文禄4年(1595)、寺領が没収され廃寺同然となり、建造物は他所へ移築された。
この時の園城寺金堂は延暦寺釈迦堂として現存している。
園城寺は寺として慶長3年(1598)に再興され、高台院(北政所)や徳川家康などの寄進で現在の園城寺の寺観がほぼ整えられ、現在に至っている。

             


Mar.2006 撮影:瀧山幸伸

No.1 Mar. 2006 Preview video 500Kbps HD video Video FAQ

           

大門(仁王門)
Daimon
         

食堂(釈迦堂)
Shakado
           

鐘楼
Shoro
      

金堂
Kondo
 

            

                  

閼伽井屋
Akaiya
              

弁慶引摺り鐘
benkei hikizuri kane
  

一切経蔵
Issaikyozo
            

          

唐院 三重塔
Karain sanjunotou
           


唐院 灌頂堂
Karain Kanchodo
              


護摩堂
Gomado
   

唐院 四脚門
Karain Shikyakumon
       

唐院大師堂
Karain Daisido
  

唐院庫裏
Karain Kuri
        


勧学院
Kangakuin
        

毘沙門堂
Bishamondo
           


庭園
teien
 

光浄院
Kojoin
             

後水尾天皇皇子墓所
Gomizunoo Tenno oji bosho
    


事務局用




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