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滋賀県守山市 中山道守山宿

Moriyamajuku,,Moriyama city,Shiga

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中山道第67 守山宿

概要

守山宿は現在の滋賀県、近江国野洲郡にあった宿です。
奈良時代の末期、比叡山延暦寺の鬼門にあたる東方を守護するために建立された寺が、守山宿の中心地にあり、その名を「比叡山東門院 守山寺」といいます。「比叡山の東門を守り給う寺」という意味で守山の地名由来となっています。

奈良時代以降の鎌倉期には「十六夜日記」で、室町期には「実暁記」に、守山宿としての記述があり古い時代からすでに宿駅として機能していたことが解ります。

「祇園精舎の鐘の声……」で始まる『平家物語』(鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で平家の栄華終末と武士時代の始まりを描いている)に、白拍子(しらびょうし)という流行歌を歌ったり舞ったりする姉妹、祇王・祇女が登場しますが、この地方の「野州(旧義王村)」の出生です。

地元に伝わる伝承では、妓王・妓女の父は京都からこの地を納めるために赴任してきた役人で村人にも優しい人であったそうです。けれど、保元の乱で戦死してしまいます。京都から新しい役人がやって来て、妓王・妓女は母親と供にしばらくはこの地で村人たちに守られて暮らしますが、16歳の時に京に出ます。

歌や舞いの美しい姉妹はやがて平清盛の寵愛を受けるようになります。そしてふるさとの事を忘れること無く、野洲の人々が水路が無くて困っていることを助けて欲しいと平清盛に願い、ふるさとに琵琶湖より用水路の掘削工事が行われます。水路は祇王井川と名付けられて現在でも近隣の農業用水として水を湛えています。

しかし妓王・妓女への清盛の寵愛は長くは続かず、仏午前(ほとけごぜん)という女性に愛が移ってしまい、妓王・妓女は母親と供に京都嵯峨野で庵を結んで往生院(後の祇王寺)とし仏門に入ります。仏午前もいつか清盛の愛が薄れることを恐れ妓王・妓女を頼って逃げ、四人の尼は念仏一筋で生涯を終えます。

妓王・妓女の生まれた守山宿の守山駅と野洲駅の中間にある地にも、村々に用水路を引いてくれた妓王・妓女の遺徳に感謝して「祇王寺」が建立されています。

京に近い守山宿は京を出発して江戸方面に向かう旅人には最初の宿泊地となり「京立ち守山泊まり」と言われて賑わった宿です。後に、東の江戸方面側の吉身、西の京方面側の今宿が加宿となり、さらに発展していきます。

近代になってからは晒の麻織物として野洲晒が有名(湯に灰を加えて煮沸した後に石臼でひいてさらすことを数回繰り返すもので上質の晒布になる)。
守山宿の京寄りに「綣村(へそむら)」という珍しい呼び名の村がありますが、へそは体に付いているへそではなく野洲晒しを作る時に折り合わせた麻糸を「へそ」といいそれを織機に掛けて作っていくところからの命名となっています。

また丸山古墳、冑山古墳を有する地で、明治から昭和半ばにかけて多量の銅鉾が発見されています。その中の一つ突線袈裟襷文銅鉾(とつせんげさだすき)は重要文化財指定です。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、守山宿の宿内家数は415軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠30軒で宿内人口は1,700人。

1養専寺~蓮照寺

中山道もいよいよあと残り三宿。山道の多い中山道はお天気が良くないと歩けないので、計画を立てるにはまずは天気予報から。守山宿・草津宿セット一泊は、コロナの収まっている時期の出発でこの辺りかと思うところはすべて雨。しかし考えてみたら、雨の中山道はまだ一度も体験していなかったことであり、思い切って出掛けることにしました。

朝、東京を発って11時に守山駅到着。予約しておいた電動自転車を借りて出発。今にも雨が落ちてくる空模様です。
武佐宿を昨年(2021年)6月に終了しているので、その続きまで守山駅より戻ることになります。電動自転車で30分弱。駅名では「野洲駅」。その南方の新幹線ガードをくぐった先にある「養専寺」から出発です。専養寺は大銀杏があるだけで特になんの説明もありません。

専養寺の先に「暁酒造」。今から400年以上前の慶長年間の創業。美しい茅葺きに見とれながら野洲小学校まで進みます。
中山道は以前は東海道に対して、東山道といわれた時期もあります。海側と山側の京⇔江戸への道を表す呼び名ですがその道中はいくつもの街道とクロスしていきます。この辺りの外和木にも朝鮮から来た大使た通った道「朝鮮人街道追分」があります。250メートルほど行った先に追分があり、近江八幡、彦根を経て鳥居本宿に至る約四十キロの中山道の脇往還です。

朝鮮通信使の通信とは信(よしみ)を通ずるの意味で、その意を持って朝鮮王朝時代に来日する大使の一行。室町時代より6000人あまりで釜山から海路、対馬を経て瀬戸内海より大坂、淀川を遡上して京に入り、その後は陸路で、中山道、美濃路、東海道を通って江戸に至ります。その通り道の呼び名を朝鮮人街道といいます。 

交差点の脇に「背比べ地蔵」。鮮やかな涎掛け。子供が育たなかった時代に、小さい地蔵さんと我が子の背比べをして、このお地蔵様の背丈を超えれば丈夫に育つだろうと、親が安堵したお地蔵さん。
その横の神社は「行事神社」。別名『三上別宮』。鳥居の奥に縄に枯葉が垂れさがっています。この地方独特のもので結界の意味を表す「勧請縄」です。
注連縄は神域を守るものですが、この長く垂れた勧請縄は道祖神に近い意味で、道の辻や村の入口、神社などにみられ集落に入ろうとする悪魔や疫病の進入を防ぐための結界を示すものとされています。
「上」と描かれた中央にある複雑な模様の掲げものはトリグラスと呼ばれ、集落や神社によって独自の形で同じものは無いとされています。
この辺りから近江富士が見られるそうですが、あいにくの曇り空で残念です。
道なりに進んで枡形になっている角に蓮照寺。朝鮮人街道追分にあった道標や淀藩領界石などが移設されています。向かい側には唯心寺。茅葺きの本堂とはこれもまた珍しいです。
                                                   


2、四ッ谷八幡神社~野洲川橋

左側に「四ッ谷八幡神社」。説明板はありませんが、源頼朝が奥州征伐の折にここを通りかかると佐々木源太夫章経が率いる四百騎が加勢に現れたそうで、頼朝は神の御加護と八幡宮を祀ったとのこと。
過ぎて銘酒「玉の春」の蔵元「宇野勝酒造」。宇野勝氏はもう亡くなられていますが、野洲町の元町長で宇野元総理大臣生家の分家です。
民家の前に石仏群。
東海道線のガードをくぐって野洲川の北詰に出ます。橋の脇に「十輪院」。野洲川を渡る旅人のために常夜灯に燈を灯していたといいます。

                       

3、馬路石邊神社~吉身村(加宿)高札場

西町バス停を過ぎた先に馬路石邊神社(うまみちいそべじんじゃ)。かなり奥の方になるので行きませんでしたが、ウキィペディアによると、天武天皇の御代である白鳳3(663)年に創祀され、朱鳥元年(686年)に大己貴命を合祀したと伝わる。往古、馬路郷を拠点とする豪族であった石辺君氏が氏神として奉斎した神社である。」とあります。

守山宿の加宿とされた江戸寄りにある吉身村にはいって行きます。吉身三丁目の交差点脇に益須寺(やすでら)跡の説明版。日本書紀に著されている日本最初の療養施設とか。良い水が出て病気が治ったとか、瓦が多数出土したのでこの辺りにあったのではないかと推測されるそうです。
信号の向かい側に「吉身村高札場跡」。稲妻型道路が一部残っている珍しい造りの町と、高札場の説明にあります。見通せないように宿場の治安維持のためにそのようにしたそうですが、近年、家の新築が多いのか家の境界を見ながら歩いても見つかりませんでした。

「慈眼寺」の案内版。本堂と鐘楼だけの小さなお寺。過ぎてきた馬路石辺神社の神宮寺でもあったそうです。810年創立。水難を救う寺として江戸時代に再建。唐から帰ってくる途中、最澄が大時化にあって遭難しそうになったとき、観音様が現れて救われたとのこと。その時の帆柱で観音様を彫り安置。戦国時代には村人たちが観音様を地中に埋めて守ったそうです。

ベンガラ塗りの鮮やかな町家を過ぎて行くと十字路に「石部道道標」。東海道に通じる道。守山宿の先の草津宿で中山道は終わり、その先の大津宿は東海道にもなる宿ですから、このような道しるべを見ると、京が近いなぁ、と感じます。

                         

4、うの家

うの家は第75代総理大臣宇野宗佑氏のご実家です。明治5年創業の造り酒屋。屋号は「酒長(アラチョウ)」。江戸時代には年寄り役を務め馬や人足を調達する事業をしています。その後は荒物屋を。荒物屋長左エ門と呼ばれて「荒長」。酒造り業になってからの屋号「酒長」はここから来ています。平成21年に造り酒屋が終了したあと、同24年に市が買い上げて、町のコミュニティになっています。建物は江戸時代後期のもので間口25メートル、奥行き50メートル、約380坪と広大です。奥には蔵も続き、市がイベント貸しをしています。入口にある「咲蔵」では美味しい近江牛が食べられるようです。

                

5、本陣跡

うの家の向かいに源内首塚のある「天満宮」。天満宮の後ろにあるそうですが、説明が無いので見落とします。これだけ広い守山宿ですが本陣は推定地となっています。宿概帳の記録では本陣2、脇本陣1となっていますが、何もありません。説明板には『本陣のあったところは郵便局になっていたが、それも取り壊されたので空き地となりここを推定地とする』旨が書いてあります。脇本陣もありません。その先に民俗資料守山市の文化財指定がされている石の道標があります。「右中山道ならびに美濃地、左 錦織寺 こ乃者ミち」と書いてあるそうです。右は過ぎてきた美濃路、左は琵琶湖、大津との意味。

                             

6、東門院

道標を左に折れると「東門院」。奈良時代の末期となる785(延暦4)年、最澄が比叡山延暦寺を建立した際に京の四つの国境(四境)に門をたてたもので、東門院は京の延暦寺の東方の境にあたる場所。守山宿の命名由来ともなった寺でその格式の高さから、朝鮮通信使の一行が宿泊しています。
金剛力士像が左右にある仁王門。
仁王門の屋根の葺平瓦は室町時代の1396(応永3)年の銘があり東門院の中では一番古い建物です。
仁王門に下げられた大きな提灯をくぐると境内には、推定500年といわれる銀杏の樹。
平安時代の初期、征夷大将軍である坂上田村麻呂が東征するときに同寺の仁王に戦勝を祈願して勝利をおさめ、本堂七間の伽藍を建立、千手観音像を安置して、桓武天皇より守山寺東門院の寺号と、吉身(よしみ)・金森(かねがもり)・播摩田(はりまだ)3カ所の寺領が付与されています。
810(弘仁元)年に湖水に出現した十一面観音像を安置して本尊とし、その他にも藤原時代の不動明王坐像、毘沙門天立像、鎌倉時代の石造五重塔、宝塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などがあり、いずれも重要文化財に指定されています。(参考『滋賀県百科事典』)

東門院のお隣は「堅田屋」。江戸時代は旅籠茶屋。平成21年に当時の梁や柱、土壁、格子、虫籠窓、階段箪笥などを残しながら、「門前茶屋かたたや」に。お蕎麦などもあるようです。虫籠窓がきれいです。

進んで行くと小さな土橋。板の橋の上に土を盛った橋で戦国時代は戦略的に重要な橋だったそうで、江戸時代には公儀が普請したそうです。この橋は旧・栗太郡と旧・野洲郡の境界でもあり歌川広重の版画「木曽街道六十九次」の守山宿風景はこの橋から描かれたそうです。絵のように道は緩やかに曲がり今でも風情のある家が続いています。この先から、京側に加宿された今宿町にはいります。

樹下神社。大きな常夜燈。住宅地になってはいますが、まだまだ低い二階家や格子戸の家などが残っていて宿の面影があります。左側に「今宿の一里塚」。滋賀県内を通る街道はおおいのですが、現存するには一里塚はここだけ。南塚だけが残り、榎が植えられて立派に整備されています。

                                                                      

 

閻魔堂町の信号を過ぎた左に「住蓮房母公墓標石」。一つ前の「武佐宿」には住蓮房が斬首されてその首を洗った池があります。
法然上人の念仏を後鳥羽上皇が禁じた時代のこと(詳しくは武佐宿説明に)。住蓮房が斬首される事を知って母親が駆けつけたのですが、間に合わす、一つ手前のこの守山宿で嘆き悲しみ近くの池に身を投げたということ。この標のあるお宅にお墓があって代々守っている、と行政では無く個人宅の表示です。

時々雨が強く降ります。明日は「草津宿」を訪ねる予定ですが雨の中かなぁ、と思います。諏訪神社の脇に領界石。ここから南が淀藩と書いてあります。
向かい側の十王寺の中に閻魔堂。平安時代に「小野篁」が開いた寺院。十王は道教や仏教における考えで地獄において死者の審判を行う裁判官の様な役目を持っています。審判は死後の一週間ごとにおこなわれ(初七日、四十九日、一周忌など)、それぞれ秦廣王・初江王・宗帝王・五官王・閻魔王・五道転輪王・都市王・泰山王・平等王・変成王などが係として審理します。生前に十王を祀れば、死んだ後に生前の罪を軽減してもらえる、という信仰のようです。ちなみに名前的に親しみのある閻魔様は死後三十五日の審理担当。といっても浄土真宗においては死後すぐに極楽に行かれると説いていますので、すべての仏教に当てはまるわけではないようです。
十王様たちの写真が掲げられています。

雨が本格的に降ってきたので、この先の「綣」交差点、「栗東駅西口」交差点までとして、自転車をユータンさせて守山宿を終了します。

                                


February 2, 2020 野崎順次 source movie

 

滋賀県守山市 守山宿

中山道は、徳川幕府が制定した五街道の一つで、江戸板橋宿を第一宿として、武蔵・上野・信濃・美濃の各国を経て近江国守山宿まで六十七宿が定められましたが、守山は、東下りの第一番目の宿として「京発ち守山泊まり」で旅人に知れわたっていました。
宿内の街並みは、11町53間(約1300m)あり、人口は、約1,700人ほどありました。
江戸時代から続く街道筋の町屋を利用して、中山道街道文化交流館もあり、街道や宿場の情報を発信し、さまざまな人々との交流の場として利用されています。
(滋賀・びわ湖観光情報サイトより)
                   


町屋「うの家」
この建物は、元内閣総理大臣 宇野宗佑氏が生まれ育った家でした。
宇野家は、江戸時代「年寄」と言う役職を務め、「長左衛門」と名乗っていました。又宿場に馬や人足(労働力)を提供する事を家業としていました。その後荒物屋を営み、荒物屋長左衛門と名乗られた。屋号の「荒長」はここか1 ^ らきています。
明治初期に酒造りに展換され「栄爵」を醸していました。平成21年頃まで酒造りをされていたが、その後廃業されました。この建物は明治初期頃に建てられたものと推測され、築140年程たっています。
平成22年、守山市が宇野家をゆずり受け、改修工事を経て、平成24年1月29日中山道守山宿の拠点として又情報発信、憩いの場としてオープンしました。
館内には元内閣総理大臣の宇野宗佑氏と、友禅作家で人間国宝の森口華弘氏の展示があります。守山名誉市民である両者の生い立ちや功績を年表や写真などでご覧いただくことが出来ます。その他、町家特有の美しく力強い梁組(はりぐみ)や当時の生活を伝えるおくどさんや井戸など館内随所にその魅力を堪能することができます。
(守山宿町屋「うの家」サイトより)
                     


エントランス、通り庭
                  


元総理大臣宇野宗祐関係、私の出た学校の大先輩になるらしく、敬意を表して多めに撮影した。極めて短命内閣であった。
              


和室
         


森口華弘氏展示
                  



   


南蔵
            

東蔵
          

中山道を少し西に行くと、本陣跡がある。
    



中山道街道交流文化会館
昔はろうそく・筆・油などの店で、別名"筆屋 忠三郎"、通称"筆忠"というそうだ。
      


二階は展示ギャラリー、宇野家蔵「家茂のデンデコ行列(幕末の長州征伐で宿陣)」、広重「木曾街道六十九次」、天満宮三十六歌仙絵(市文)など。
                                  


さらに歩くと 石造道標(市文)
        


帰途
   


Mar.14,2017 瀧山幸伸 source movie

     

宿場中心部

中山道街道文化交流館付近

       

                 

本陣跡

      

天満宮

       

宇野家付近  

                                                 

道標

   

土橋、樹下神社付近

                    

土橋から宿場中心部へ

                      

宿場の東側

   

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