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滋賀県長浜市 近江弧篷庵

Omi Kohoan,Nagahama City,Shiga

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Apr.24,2017 中山辰夫

滋賀県長浜市上野町135

宗派:臨済宗大徳寺派・本尊:釈迦牟尼如来−江戸時代初期の木彫仏

近江弧篷庵は臨済宗大徳寺派に属し、京都大徳寺の塔頭・弧篷庵と同じく江雲宗竜を開山とし、小堀遠州の息子で、小室藩二代目藩主・政之(宗慶)が、遠州公及び小堀家家老家臣などの修禅及び菩提道場として、1653(承応2)年に今の墓地の北西奥の平地に建立したのが近江弧篷庵で、1709(宝永6)年、3代政房の時に現在の地に移築した。

江戸中期までは大寺院であったが、1788(天明8)年の改易以後衰退の道を辿った。明治維新のころ以降は無住であった。

1938(昭和13)年、定??和尚が住持となって寺院再興を計り徐々に整備されるに至った。台風で倒壊後、1965(昭和40)年の本堂再建と共に整備が進み寺観が一新され現在に至る。池泉式、南には枯山水の庭園(滋賀県指定名勝)がある。参道左手には小堀家歴代の石塔が並ぶ。

「弧篷庵」は小堀政一(遠州 1579〜1647))の庵号で、「孤篷」は「一艘の苫舟」の意で、師事した春屋宗園から授かった号である。

附近案内

    

県道276号線に石碑が立つ−ここから約400m先にある。途中の集落を抜けた所に素素戔嗚神社がある。

        

アプローチ−参道わきのドウダンツツジの枝ぶりもよく印象に残る。紅葉時期の輝きが想像される。

        

山門

    

  

前庭

          

    

風格ある古式が残る。

本堂外観

        

1959(昭和34)年の伊勢湾台風で倒壊、地域や寺院に協賛を仰ぎ1965(昭和40)年に再建、併せて境内や周囲を捕手整備して寺観を一新した。

本堂は三部屋に分かれ、松・竹・梅の間と称されている

  

松の間

       

竹の間

      

本尊の「釈迦尼如来」は江戸初期の木彫仏。脇仏として、観世音菩薩や地蔵菩薩を奉祀し、小堀家歴代の諸侯や家老家臣、有縁無縁の位牌などを祀る。

梅の間

      

各部屋の襖絵や仏間小襖などは染め芸の皆川月華氏の染彩画−月華は京都祇園祭の山鉾に使用される銅掛や前掛なども手掛けている。

外回り

      

  

釘隠し・その他

        

庭園

1959(昭和34)年4月、庭園の石組などが江戸当初の遠州流庭園の基本的な条件を遺していることで、滋賀県史蹟名勝に指定された。

本堂の南西面は五老峰、海、舟石などを配した「枯山水」庭園、その北東面は錦渓池を中心に瀟湘八景を模した「池泉回遊」庭園からなる。

    

枯山水庭園(南庭)

       

池泉庭園(東庭)

          

墓地

全部で百基ほどの数と思える。墓石はいろんな形の傘をかぶったもの、棗(なつめ)形のもの、苔むして読み取れないものが多い。様々なものが集まっている。

          

≪参考≫

小堀遠州—「遠州流茶道・ウイキペデイア」より引用

本名 小 堀 正 一 (こぼり まさかず)

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。幼少の頃より父新介正次の英才教育を受けた。

 

茶人、建築家、作庭家、書家。備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。遠州流(小堀遠州流)茶道の祖。

作事奉行として桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮した。大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などは、代表的な庭園である。

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