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滋賀県長浜市 菅浦

Sugaura,Nagahama city,,Shiga

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Sep.21, 2013 中山辰夫

長浜市西浅井町菅浦尾上港から湖上タクシー(漁船を改造した船)に乗って、葛籠尾崎湖底遺跡現場を観察し、次に菅浦に向かった。

湖面は穏やかで、舟からは竹生島や葛籠尾崎岬が手に届きそうであった。

■■■菅浦

菅浦は竹生島の北方湖岸から突き出した葛籠尾崎の半島にある小さな集落である。大浦と塩津の中間に位置する。背後は急な山腹傾斜面が迫っている。

菅浦については、白洲正子氏の「かくれ里」、芝木好子氏の「群青の湖」、水上勉氏の「湖上の女」などに描かれている。

 ■半島の付け根にある大浦とは鎌倉以来の相論で知られる。一千点を越える菅浦文書及び絵図(ともに国重要文化財)があり、惣自治の問題など中世史研究上重要な地域・資料とされる。

■近年、奥琵琶湖パークウエイが開通し、ようやく交通の便こそよくなったものの、背後に迫る山並みと湖岸との間の、わずかな平地に展開する集落の姿は、今なお中世の面影を色濃く残し、魅惑させられる。

■■葛籠尾岬(つずらお)

琵琶湖の北端部にある、北湖に突出した岬状の地形である。山がちで険しい地形が続き、急な斜面が深い湖底まで続いているといわれる。

現在は西側が西浅井町、東側が高月町と湖北町の飛び地になっているが、近世までは「浅井郡」であった。竹生島にも約2kmと近い。

現在無人の葛籠尾半島には、過去のある時期に僧坊か人家の群があったともいわれる。

■この岬の先端から東沖6mから700m、岬の湖岸に沿って北へ数kmの範囲で、水深10m〜70mの湖底が葛籠尾崎湖底遺跡とされ、縄文時代から平安時代までの長期にわたる土器を主とする遺物が発見された。

■■湖上から見る菅浦集落全景

半島の先端近くの山裾まで石積が続く

山と湖に抱かれた僅かな土地にへばり付くように家々が並んでいる感じである。浜辺に沿って続く波除の石垣が目立つ。

琵琶湖北岸の集落にはこれに似た石積による護岸が古くから築かれているところが多くあり歴史を感じさせる風景である。

大きな寺院の屋根が見える。一般家屋は切妻・妻入り・平入りの混在である。

港を始め、湖辺の整備が進んだ状況が分かる。

いよいよ上陸である。

長浜市は菅浦の集落景観を国の「重要文化的景観」に選定されるよう取り組んでいると聞く。そうしたことも念頭に置きながら散策する。

■集落より見た琵琶湖

■■菅浦集落案内図

まことにシンプルな内容、地域も広くない。だが、その隅々に、この集落の歴史の重さを感じさせるものが隠されているようだ。この菅浦集落は、「菅浦=かくれ里」と評されるように、1971(昭和46年)頃までは、陸路もなく、集落への交通は足と舟しかないという隔離された地域だった。

この年に奥琵琶湖パークウエイが開通し、菅浦〜大浦間の道路も整備され、大浦とは車で30分ほどの距離となった。

これを契機に浜辺の改修も行われ、砂浜の景観が様変わりした。が、菅浦の昔の姿・形は何とか維持出来ているようだ。

昔の舟溜り

今は港にチェンジした。

散策は、西四足門付近から〜東四足門付近〜各寺院付近〜西四足門の順に巡る。湖国バスの菅浦停留所あたりが、観光の出発点であろうか。広いスペースがあり、須賀神社参道にも近い。

須賀神社では、この10月12〜13日に「一千二百五十式年祭」が開催される。50年毎に行われる式典である。それに向けて準備が進む。大きな案内板も立つ。

西四足門付近

菅浦には、東西の両端に「四脚門」と呼ばれる門がある、この門は石組の上に2本の本柱を立て、本柱に冠木を置き、控柱と足元貫で繋ぎ、肘木で桁を支える構造で冠木門の一種である。石を退ければ倒れる仕組みである。屋根は茅葺の切妻で、破風飾りは菅浦独特のものである。西門・東門の構造は同じである。

東の四足門である。

戸は無く、控柱の方向で集落の内外を示す。この門は「四方門」とも呼ばれ、近年まで東・西・南・北の集落入口に設置され、集落内を明確にした。

現存する東門は、幕末の1828(文政18年)に再建された。中世後期には存在し、明治維新頃まで入口にあった。

余所者はこの門の中には入れず、里の者でも道理に合わない行為があれば、外へ追放するなど「惣のオキテ」により厳しく取締りが行われた。

■■須賀神社資料館

須賀神社の参道を少し歩いて右に折れた所に立つ。

鎌倉時代から明治の初年までの集落の決まりを定めた「菅浦文書 国重要文化財」の写しや室町時代の末期に制作された古能面が展示されている。

また、かつて境界をめぐる争いが続いた大浦庄との境を示す「菅浦与大浦下庄堺絵図 国重要文化財」など貴重な資料が展示されている。

■展示の能面

残された三面の能面。いずれも材質はヒノキ。仮面史上貴重な資料とされる。中でも能面女が注目されているとか。

■■須賀神社 祭神:淳仁天皇

まっすぐに延びる石畳の参道は約250m。気が引き締まる感じがする。水屋からは素足でのぼり参拝する。白木の社殿である。

759年淳仁天皇が当地に保良宮を営んだとか、同8年恵美押勝の乱後同天皇が隠棲したとの伝説がある。保良神社・菅浦大明神とも称した。

明治42年に小林神社(祭神・大山咋神)赤崎神社(祭神・大山祗命)を合祠し須賀神社と改称された。

社殿

例祭:4月3日、式年祭:50年毎、本年は1250年目である。

同社からは菅浦文書(国重要文化財)が発見された。

船型御陵

この地に隠れ住んだと伝えられる淳仁天皇を祀ったとされ、神社の裏山に淳仁天皇の御陵と伝わる塚。

集落内を歩く

鯉活造りの店

ビワマスが旬である。鴨鍋もよし。 他にも民宿を兼ねた食事処がある。

民家の並び向かって右側の道が昭和の大改修で新設された道。左側が菅浦の集落内を走る道で昔からのものである。その両側に家と石垣が立つ。

砂浜に向けて立つ石垣は防波の役目をする。積まれた石垣は古い。

家屋の前の道が生活道だった。

家屋は、波浪の襲来から家を護るために路・石垣・家・路、石垣・家・路という二段三段構えの構造になっている。

生きる智恵がなせる並びか。家の前の道が長らく唯一の道だった。

東の四足門を過ぎて浜伝いに東へ向かう。菅浦の原風景が感じられる。

ネットを被せ獣害除けしたハウスや使わなくなったタバコ乾燥作業場跡、石積、田畑跡など、つい最近まで手が入っていた形跡が残る。

この道は「近江湖の道」として続いている。

この近辺からの景観

寺院めぐり

寺院が多いのにビックリ。社寺は家並みより一段高い高台に建っており、侵入者の見張り番の役目もしていたよう感じがした。

菅浦は南の比叡山、竹生島と、北の永平寺の影響を強く受け、「菅浦24坊」といわれ、かつて24の寺院、坊が存在したと伝承される。

坊は、集落東側の一般屋敷の背後の傾斜地を石垣積で造成した高台に、横並びに集中して建てられていた。その殆どの寺・坊・庵は私有で、縁者を含むものだった。子どもに財産を譲り在家とは独立して移り住んだとされ、出家・入道の習慣がひろまっていたとされる。

真蔵院

真言宗 本尊:薬師如来

竹生島の末寺。古来より菅浦住民の信仰の中心的な存在で、竹生島宝厳寺とは長きに渡り関係を強固なものとしてきた。

境内と遠景

安相寺

真宗 本尊:阿弥陀如来 建立:1479(文明11年) 福田寺末寺

菅浦での真宗の浸透は困難を極めた。隣村大浦との境相論で惣の結束が非常に硬く、時宗が菅浦住民の生活と密着していたことによる。

米原市・福田寺は、信長の近江侵攻に対し、浅井方につき、湖北十寺の中心として信長と激しく戦った際に、安相寺も抵抗した。

浅井長政の三男とも次男ともいわれる虎千代丸(万菊丸)が一時安相寺に滞在した記録が残り、福田寺で終わったとされる。

福田寺との関係は、毎年7月に、福田寺から「刺し鯖 5尾、苧(麻)」を、安相寺から「梅干し一包」を送る習慣が続いた。

阿弥陀寺 

天台宗から時宗に改宗 時宗 1353(文和2年)他阿上人託阿が開基

菅浦に時宗が広く根付いたのは、菅浦大明神(現菅浦神社)を拠点として当寺が念仏の結縁を行うなど惣的結合の精神的基盤をなしていたことによる。

菅浦文書は、中世菅浦が惣を確立した最初の掟であるがこれに署名した十二名の乙名はすべて時宗の法名をもつっていた。

中世以降は惣寺としての格式を整え、菅浦の宗教行事の中心となった。

遠景

阿弥陀如来立像

国重要文化財 本尊である。1235(文暦2年)快慶の弟子行快の作で、像内に4000余の願文が納められている。

■長福寺跡(公民館)

淳仁天皇の菩提寺であった長福寺跡とされる。跡地に石造宝塔が立つ。

后妃の墳墓、同天皇の供養塔、蹴鞠の場跡、射弓の場跡、宮居跡の伝承地である。

祇樹院

曹洞宗 本尊:釈迦如来 1393(明徳4年)夢隠が開基 永平寺正応寺の末寺

菅浦24坊の“庵”と一部“寺”は、凡そ同体系の関連寺院である。私有寺院の集積化が現在の祇樹院でないかとされる。

当寺だけに限らず、私事庵は裕福であったとされる。

■■生業

菅浦に自然条件-山が琵琶湖に迫り、平地が極端に少ない。この立地は太古の時代より変わらない。

その中で,時代々の変化を機敏に把握し、生きるための手段をタイムリーに打ち立て独特の生き方を行って現在に至っている。

長い年月の間に培われた血縁・地縁の結びつきが、現在も生きている気がする。

■古代は南の大津と対して、交通の要路に当たり、宮廷の供御を受け持つ漁港であった。従い漁業や舟運に従事することが生計のベースであった。

天皇に食料を献上する供御人が菅浦に住み漁業を始めたのは平安時代以前とされる。その後、菅浦供御人として高倉天皇時代(1168〜79)には自立した。

住民全員が供御人の時代もあった。

■山に囲まれ土地を田畑に切り替える作業も行われてきた。状況は時代が変わっても同じであった。

室町〜江戸時代の生業は農業、林業、漁業、廻船で近世と大差なかった。畑地が圧倒的に多く66町、田地5町である。米は3割も自給できなかったため、他方からの購入に依存していた。年貢は、米でなく30%が油実(油桐)で、油実と山稼ぎの柴、伐採した樹木の売り払い、燃料とした割木、木炭の製造、など依存していた。

■明治以降は養蚕やタバコの栽培を行い、戦後はヤンマーの家庭工場が多数建てられ菅浦の生計に貢献した。

その後も、世の中の情勢に合わせて、林業・果樹栽培・タバコ・養蚕・更には鉱山開発を行ってきた。

■昭和に入って大きな転換期を迎えた。菅浦〜大浦間の道路が整備された。自動車通勤が可能となり住民のサラリーマン化が進んだ。50年代前半には漁港や湖岸堤が整備され、浜の景観が様変わりした。

漁業 エリ漁、オイサデ漁

ミカン栽培

隣の塩津や余呉は豪雪地帯であまりにも有名である。県内でもここだけである。

所が、菅浦は冬の厳しい湖北にありながら、南が湖に面し北が斜面であることから積雪がなく、冬も温暖である。

集落に入るまでの山裾では、古くから蜜柑栽培が行われてきた。「菅浦よいとこ夏冬なし ビワとミカンの花が咲く」という民謡もあり、ミカン栽培は今も続く。

集落排水処理場近辺の裏山や山裾で栽培。最近は作る人が少なくなった。たばこの葉、びわ、油実、などの栽培が古くから盛んであった。

ヤンマーの家庭工場 船便の利点を活かす。

1955(昭和30年)頃から菅浦の集落内の作業棟が建てられ、現在も約10ケ所が操業している。熟練した人たちがエンジンの部品などを製造している。

すでに50年以上を経過しており、当初からの人達は超高齢に達しておられるが、ヤンマーは熟練した趙ベテランの技術を今も必要としている。

井戸の洗い場

今も涌き出る。共同の井戸の洗い場は漁具の置場でもあり、菅浦の生活に不可欠なものである。

菅浦の集落やそこに住む人々のランドマークともいえる須賀神社、祀る淳仁天皇の式年祭が50年単位で行われ、継承されている。今年が1250年に当たるとされる。

前回は1963(昭和38年)であった。白洲正子氏はこの式年祭の直後に菅浦に旅し、その歴史や伝承、住民の信仰心などに深い感銘を受け≪かくれ里≫と称して激賛された。

その直後から菅浦近辺に開発の手が入り、今日までの50年間は菅浦にとって激動の時代であった。が、今のところは、景観も含め≪かくれ里≫の味わいをまだ感じることができる。菅浦の集落に住む人にとっては言い分もあろうが、このままの状態を存続して、次の50年を迎えてほしい願いで一杯である。

≪参考≫

■■■菅浦文書

菅原神社には古来より「開けずの箱」と称する古い唐櫃(からひつ)があった。1917(大正6年)、開いてみると、一千余通の鎌倉時代から明治初年に至る間の領地や訴訟に関する膨大な記録の文書がでてきた。長久以来の領地や訴訟に関する記録であった。

これが『菅浦文書 1261点 国重要文化財 滋賀大学経済学部資料館保管』である。

■■解読された内容は次の七群に分けられる。

菅浦が鎌倉期に開発した日差・諸河の田地はわずか十六町(約16ha)の広さしかなく、約72人の全村人に均等配分し、村人の自立の基盤とした。

■■大浦庄との相論

菅浦の中世の歴史は、北の大浦庄との境相論(領域を巡る争い)の歴史であった。

元々菅浦は漁業を生業とする人々が生活する「浦」であった。浦は本来、漁業に生きる人々の生活の場であり、浦の民にとって眼前にある湖が一番大切であった。しかし中世に入り菅浦の人々は浦の限られた平地を開発し尽くし、浦から遠く離れた湖岸沿いの土地に開発の手を延ばし始めた。この時点で事態が変わった。

■菅浦が開発に取り掛ったのは、東岸の日差(ひさし)・諸河(もろかわ)といわれる地域の田畑であった。どちらかといえば大浦の集落に近い地域であり、浦の限られた地域の農耕可能地を開発し終えた菅浦の人々にとっては山越えで最も近い場所だった。

■菅浦の人々が、日差・諸河を菅浦の内と主張し始めたのは永仁年間(1293〜99)のこと。その主張は、遠く天智天皇の時代から、住民の一部が供御人として天皇家と特別な結びつきにあったという。永仁の訴えでは、湖の供御人を表面に立て、日差・諸河への他所からの「濫妨狼藉」を排除しようと試みた。

しかし、供御を朝廷に納める供御人は、住人の一部にすぎず、供御人という身分だけで日差・諸河を菅浦内に組み入れる計算には無理があった。従い、永仁の訴えは失敗に終わった。日差・諸阿を菅浦管内と主張するには、より強力な拠り所が必要であった。

■その後も、相論は続き敗訴、勝訴を繰り返した。1447(文安4年)乙名清九郎の働きで、勝利を得て落ち着いたが、1461(寛正2年)、菅浦の者が行商先の大浦庄山田で盗みの容疑で殺害されたことで対立が再発した。菅浦は下手人を出して降参した。以後の両者の争いは史料からは姿を消した。

■■菅浦与大浦下庄堺絵図 「一幅」 国重要文化財書跡

菅浦文書の一つである。1302(乾元2年)8月17日の墨書があり、堺相論の際に作成されたもの。

絵図は、堺を朱線で示すと共に、日差・諸河の地、庄内、堂、在家を描き、下方には竹生島の景観、鳥居、拝殿、本殿、三重塔、堂舎、宝厳寺の楼門等を簡略に描写している。これは、中世の竹生島とその信仰の在り方を示す重要なものとされる。

■■この集落の戸数は、1335(建武2年)で72戸、1518(永正15年)で112戸、明治期で104戸と、中世以来ほとんど集落の規模は変わっておらず、現在の屋号の四分の一が中世文書に見られるとされる。

現在の世帯数は約80、住民200人ほどである。若い人の流出が続いている。

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