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滋賀県長浜市 集落尾上と葛籠尾崎湖底遺跡

Tsuzuraosaki,Nagahama city,Shiga

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Oct.2013 撮影: 中山辰夫

集落尾上と葛籠尾崎湖底遺跡

長浜市湖北町尾上 尾上の漁師によって発見された葛籠尾崎湖底遺跡からの遺物類は、尾上区共有物として葛籠尾崎湖底遺跡資料館(尾上公民館内)に一括保管され、研究資料として公開されている。先ずは「尾上」の情報整理からスタートする、

■尾上の位置図

■■尾上集落の概要

余呉湖に源を発する余呉川の河口に臨み、湖中へやや突出した三農七漁の村落である。北陸線虎姫駅から西北12㎞、竹生島とは約5㎞の距離がある。

尾上は琵琶湖漁村の類型的な集落に過ぎないが、琵琶湖のこの付近の景観は湖南・湖西とはその趣を異にしている。

湖岸は高い影を写し、水は淡藍色に澄んで一内湖のような感が強い。尾上の西対岸の葛籠尾崎が北から西へ半島状に延びて湖中へせり出し2㎞程ある竹生島との距離を短縮している。

この葛籠尾崎半島の脚影に湖底遺跡がある。尾上の周辺にはその他に二か所の尾上浜遺跡がある。

 ■古くは小野江ともいわれたこの集落は、尾上浦・朝日の湊の別称もある。この近辺は太古からかなり開けており、発見された縄文土器や石器類からも一万年前から人が定住していたことが証明されている。尾上浜遺跡からは縄文時代後期の丸木舟・他が出土し、他地域との交流も盛んであったことが推測される。

尾上湊は、湖北の良港で、海運業と山の仕事が生計のベースだった。

尾上の丸子舟

■平安時代から運送業で賑わっていた尾上も織田信長に悉く焼かれてからは病弊し、30年後の慶長年間に元通りに戻った。

1604(慶長9年)から20年までの間の彦根城築城に当たっては尾上の大船が大いに貢献したとされる。

明治初期までは湖西・若狭方面と北国街道(国道8号線)・北國脇往還を結ぶ中継港として栄え、この地の丸子舟はその後も湖北の米や薪等を彦根・近江八幡・大津などに運んでいた。

明治に入って海運業は帆船から発電機へと変わり、激化の波について行けなかった。このため、尾上では漁業が盛んとなって行った。

漁民の大部分は半農半漁で、塩津湾から竹生島付近を主な漁場とした。周辺の湖底が湖底段丘という地形で肴に住みよい環境の為、集落では底引き網漁や小糸網漁・エリ漁などが行われており今も続いている。 尾上の漁港としては余呉川河口が利用されていたが、1980(昭和55年)、集落の北側、尾上浜に新港が建設された。

山本山から見た尾上港

現在の尾上港付近

■最近は、尾上にも温泉が出来、湖北の焼土料理に舌鼓をうちながらのんびり過ごす風情が喜ばれている。世帯数100戸前後である。

■■尾上浜遺跡

現在の尾上漁港付近に尾上浜遺跡が広がっている。葛籠尾崎湖底遺跡との関連は不明だが、遺物の分布が標高83m前後までに限られているようで、琵琶湖水位の増減により湖中に埋没した集落跡とされる。

■遺跡からは、縄文時代後期(約4000年前)の魚を捕るための梁(やな)とほぼ完全な形の丸木船(まるきぶね)が注目される。

梁は、琵琶湖に注ぐ河川の河口部に仕掛けられており、川の流れを遮る簀(す)を支える杭が、たくさん見つかった。梁の位置や構造から、アユやマス等のように琵琶湖から川に遡上(そじょう)する魚を捕ったと考えられる。

遺物とヤナ漁

■丸木舟

まっすぐな丸太材を縦に半分に割り、中を刳りくぼめただけの簡単なつくりである。(現物は資料館に展示されている)

滋賀県で30例近く見つかっている。丸木舟は大半がスギ材である。長さは約5m前後、幅は約50cm前後である。

■尾上浜遺跡で見つかった舟を参考に一艘造り航行実験を行った。尾上から竹生島間の約6㎞を1時間40分余りで到着した。この実験から、湖辺の縄文人は、大小の丸木舟を使い分けかなりの遠くまで出かけていたことが分かった。

■遺跡からは、須恵器などの土器類を始め、斎串(いぐし)、馬形代(うまかたしろ)等の祭祀遺物(さいしいぶつ)や和同開珎(わどうかいちん)を始めとする貨幣等、多くの古代の遺物が見つかっている。これらの遺物は一般の集落から見つかることは希で、公的な施設の遺跡から見つかることが多い遺物である。

奈良時代の尾上付近は、重要な港として認識・整備されていたと考えられる。

■■葛籠尾崎湖底遺跡

葛籠尾崎は、琵琶湖の北端部にある、北湖に突出した岬状の地形である。急な斜面が深い湖底まで続いている。

1924(大正13)年末、尾上の漁師がイサザ漁をしていたところ、その底引き網に数個の土器が引っ掛った。その後も、縄文土器や弥生土器・土師器・須恵器などの遺物が次々と引き揚げられ、湖底遺跡の存在が明らかとなった。

イササ漁

港からは、湖上タクシー(漁船を改良した船)にのって湖上を走る。

遺跡現場付近 尾上港から約10分で到着する。

この付近はよく荒れるとされ、もっとも危険な場所とされ。小説にもよく登場し、伝説・伝承も多い。

このような深水部にある遺跡は世界的にも例がないために広く知られることとなり、また、琵琶湖の湖底遺跡研究のきっかけとなった。

引き揚げられた土器を見直す

直ぐ近くの竹生島(宝厳寺の裏側になる?)

葛籠尾崎湖底遺跡の土器

琵琶湖水底の研究を特に進められたのが、尾上出身の故小江慶雄博士(元京都教育大学学長)である。小江博士は滋賀県を主な研究フィールドにして、長年に亘り水中考古学を研究された。

1959(昭和34年)には音響探査などによる「琵琶湖湖底総合科学調査」が行われ、葛籠尾崎と尾上の間には深さ70mのV字型の深い谷があり、遺物の分布がその谷底までひろがっていることが分かった。

1973(昭和48年)には滋賀県教育委員会により遺物の出土状況などを確認する潜水調査が行われた。

湖底での遺物は、土中に埋没せずに露出していた。これは周囲に河川がなく土砂が堆積しなかったため、沈んだままの状態で残ったと考えられた。

遺物の引き揚げ地点やこれらの調査から、遺跡の範囲は葛籠尾崎の先端から東沖約10〜700m、葛籠尾崎の湖岸に沿って北へ数kmと広大であることが分かった。

遺物は、現在までに約150点が見つかり、土器の年代は縄文時代早期から平安時代後期までの約9千年と長期にわたり、完成品が多いのが特徴である。

また湖水に含まれる鉄分(湖成鉄)が厚く付着したものが多く、これは長い間同じ位置にあったことを裏付けている。湖成鉄の固着の状態に認められる縄文・弥生土器と土師器の濃淡の差異は、それぞれの湖底における時間的経過で違いのあることを暗示している。

葛籠尾崎湖底遺跡からは鉄鉱石が出土している。鉄鉱石が出土した地点から西に約450m離れた葛籠尾崎半島山頂部に「鉄穴 じんつぼ」と呼ばれる鉄穴遺跡がある。古代の権力者が鉄鉱石の採掘場を競って占有しようとした記録がある。鉄穴遺跡は鉄鉱石の積み出し港、鉄鉱石が琵琶湖を媒体として船で流通していたことを示す。

遺跡の成因については、小江博士の研究以降、湖上住居説や湖岸遺跡からの遺物流出説、地形変動による遺物の沈下説、沈没船の積荷説などいくつもの説が提示された。また、葛籠尾崎の北東にある北陸方面との玄関口となる塩津港へ往来する舟が、安全を祈願して土器を奉納したのでないか、とする説もある。しかしいずれも推定の域を出ていない。

葛籠尾崎遺跡から引き揚げられた出土品のほとんどは、小江博士の尽力で散逸を免れ、街の指定文化財として尾上公民館内にある葛籠尾崎湖底遺跡資料館で、小江博士の業績とともに収蔵・展示されている。

■■■尾上集落散策

集落の様子は様変わりしたとされる。昔より残る狭い道路沿いに連なる家並みに名残りが見られるのみである。

概略図(古い図である)

■金刀比羅宮

港から比較的近い所にある。境内に尾上学校跡の碑が立つ。

■昔からの通り。集落には店舗二軒。その一つ。

■小江神社(おえ)

祭神:事代主命 延喜式内社 湖岸道路際にある。

倭姫命が野洲郡江頭の地を船出し、当地に上陸、休息された際に里人が踊りを奉納し、心を慰めたという故事がのこる。倭姫命が小江に上陸されてより約2000年、連綿と小江神社の歴史が続いている。

境内

鳥居は、木の鳥居から石に、明治28年頃寄付で建て替えられた。 自墳井

自噴井を利用した手水がある。もちろん琵琶湖の伏流水である。この水は祭の時に禊として使われる。小さな人気の無い境内に水の音が響く。拝殿

入母屋造 間口三間半 奥行三間 廻縁 1882(明治15年)再建 旧拝殿は神輿庫に改造されている。

細工もいい

石の渡り廊下

拝殿と神殿は石廊下が設けられ、その間には枯山水の庭園がある。

神殿

中門、玉垣は村人との寄進で、昭和48年に完成した。

本殿

神明造 間口四尺九寸 奥行四尺三寸 覆社(鞘堂):神明造 間口十五尺 奥行十三尺八寸

当初の本殿は、竹生島の堂大工、但馬正大工の手によるもので大層立派なものだった。が、織田信長に悉く焼かれた1572(元亀3年)の10年後1581(天正9年)に再建された。

本殿には鞘屋堂がその中にあるが、古くなったので昭和8年に新築された。 狛犬

中門前に建つ。造りも素晴らし狛犬である。

■相頓寺

湖北町尾上13

宗派:真宗大谷派 創立:1597(慶長2)年 開基:玄慶

現在の本堂は、1750(寛延2年)に再建されたもの。表門は約200年前に建てられた。門の煉瓦は八幡瓦1819(文政2年)と刻まれている。

小江村には約1400年前、敏達天皇の時代に神社と寺院があったとされ、その寺院の跡に相頓寺が創立されたと推定され、長い歴史を含んでいる。

本願寺第十二代教如上人が五村の御坊建立に苦労されていた時、片腕となって上人に助力していたのが開基:玄慶坊である。後になって、上人から小江寺跡に一寺を建立するよう命じられた。

相頓寺は湖底遺跡の「小江慶雄」氏の実家である。

■■湖北の王の石棺 (尾上の石棺)

■古墳時代の石棺は、大阪府と楢県境にある二上山の白石や兵庫県の竜山石など、凝灰岩製の石棺が有名である。

■境内の鐘楼の脇に置かれた平たい石材には、よく観察すれば、幅約10㎝程度の浅い溝が「H」字状に彫り窪められている。石材は花崗岩であり、組み合せ式石棺の底石であることがわかる。通称「尾上の石棺」と呼ばれている。

■近隣の今西集落付近から出土し、相頓寺に納められたと言われているが、どの古墳から出土したのか、共に出土した遺物はあるのかなど詳しいことは不明。

復元すると長さ2.2m以上、幅1.2mの堂々たる石棺が想定され、同様の石材、加工状況、規模とされるものとしては、野洲市にある史跡大岩山古墳群の一つである、宮山2号墳の石棺がある。

「尾上の石棺」も宮山2号墳と同じ頃の6世紀末頃の製作と考えられる。

■「尾上の石棺」は、交通の要衝である尾上地域を支配した有力な「王」が、琵琶湖の水運を使い、湖南地域から運んできたものと想定できる。

「湖南の王」と連携し、共通する石材で製作した石棺を自らの墓に採用する。

「尾上の石棺」は、琵琶湖の湖上交通の発達と、これを掌握した「王」たちの姿を具体的に示してくれる。近江の考古学上、必見の資料の一つとされる。

■■比較

昔の尾上漁港とつながる河川は、今では埋め立てられ、主要道路にかわった。残った細い川がそれを伝える。

■■湖底遺跡資料館

引き上げられた土器の展示をはじめ、尾上出身の考古学者で京都教育大学の学長を務めた故小江慶雄(おえよしお)氏の業績が紹介されている。

日本で初めてとなるスキューバ潜水の調査方法で葛籠尾崎湖底を調査するなど、日本の水中考古学の発展を促した人物である。

土器が預けられたという相頓寺が氏の生家である。少年時代の小江氏は自宅に運ばれる土器を見て、琵琶湖底の様子を想像したに違いない。

尾上浜遺跡の遺物も合わせ展示されている

引き揚げられた遺物は約150点、完成品が多い。

資料

参考資料≪滋賀県の地名、百科事典、湖と山を巡る考古学、近江古代史への招待、琵琶湖水底の謎、ふるさとおのえ、その他≫  

湖北野鳥センター

長浜市湖北町今西1731-1

尾上湊からも近い所にある。日本夕日百選にも選ばれている。コハクチョウ(11月〜3月)やオオワシ写すカメラマンが時節に多く押し寄せる。

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