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滋賀県近江八幡市 観音正寺
Kannonshoji, Omihachiman city,Shiga

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近郊の観音寺城、桑実寺、教林坊なども含めて評価
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Jan.2012 中山辰夫

西国巡礼第三十二番札所
近江八幡市安土石寺二番地

西国巡礼第三十二番札所
宗派:仏教系単立
本尊:千手千眼十一面観世音菩薩

観音正寺と観音寺城にはまだまだ未調査の要素が多く、今後の調査が待たれる状態にあることを最初に述べる。

近江国は、日本のほぼ中央に位置するが、その近江国でもまた中央、すなわち日本の『臍』ともいうべき要衝に位置するのが、標高433mの繖山(きぬがさやま 観音寺山)である。
西国三十二番札所・観音正寺は、貴人にさしかざす衣蓋(きぬがさ)のようにふんわりとした美しい山容から名付けられた繖山の山中にひっそりと佇む。標高346m、三十三カ所の霊場のうち一番高い山坂の上に建っている。

寺伝によれば、推古天皇13年(605)聖徳太子の開基とする。

中世を通じて近江源氏佐々木氏の保護を受け、かつて七堂伽藍を備えたが、佐々木氏による観音寺城築城に際して堂舎は一旦麓に移され、永禄11年(1568)に織田信長によって六角氏が滅ぼされたのち、慶長2年(1597)再び山上に堂舎が営まれることとなったとされる。

明治15年(1882)には彦根城の欅御殿を拝領して本堂とした。
資料 「近江名所図会」文化十一年(1814)と明治二十九年(1896)の寺観

ところが、平成5年(1993)本堂と共に、ミイラや重文の本尊が焼失した。
その後、岡村住職・他の尽力により平成16年(2004)に本堂と本尊が新たな姿で再建された。

観音寺城と観音正寺との遺構を含めた関わりについては、目下継続的に調査が進められており逐次明らかになるとされる。

観音正寺が建つ繖山(きぬがさやま 観音寺山)へ登るには種々のルートがある。いずれにしても一旦、観音正寺境内まで登ることになる。観音寺城跡を訪れる際も同じである。

観音正寺の巡礼道は、安土の石寺から約1200段強の石段を登るルート(赤坂道)である。正直かなり厳しい。距離は約1km。
林道を利用すると車で途中まで登れる。唯一残った末寺の教林坊から当寺まではこの石段ルートを登ることになる。
西国札所の中で最も難関な札所と言われる由縁は、この石段登りにある。

先ずは石段の参道から始める。
石寺の集落を過ぎ、日吉神社横から参道が始まる。ほどなく教林寺から来る参道と出合う。

自然石をそのまま並べたいかにも素朴な石段は変化に富み、周囲の雑木林と調和して美しくさえ見える。
安土林道ルート(車)の駐車場に差し掛かる。ここから登るとまだ楽である。この場所は閼伽坂見付であった。

観音正寺への長い急な石段は観音浄土への道であり、修行の場でもあった。
この辺りから石も大きく、粗くなり、勾配もきつくなる。

最後の石段を登りきり、本堂のある境内にたどり着くと何とも心地いい充実感で満たされ、信仰へとつながる。

境内に入る。鐘堂が一番手前に建ち、右側には建物が並ぶ。

燃えるモミジの後方に建つ庫裏

その隣は書院

建屋は、手水舎、供養堂、護摩堂と続く

太子堂(開山堂)

参道の左側は視界が開き、湖東・湖南平野が見渡せる。
北向地蔵尊と湖南・湖東平野

いよいよ本堂である。その敷地を支える石垣
本堂は高台の上に建つが、もとより城郭の遺構にほかならず、高さ12m、長さ200mに及ぶ堂々とした構えをみせ、原形をほぼ留めている。
この石垣をよ〜く観察すると、継ぎ目部に江戸時代前後での積み方に違いが出ている。

本堂周辺

本堂

観音正寺の本堂は平成5年(1993)に失火で焼失した。交通の不便な山中にある寺院のため、消火活動がままならず重要文化財に指定されていた本尊・千手観音立像も焼失した。現在ある木造入母屋造の本堂は平成16年(2004)に再建されたものである。

本堂内部

新本尊・千手観音坐像

新たに造立された本尊千手観音坐像は仏師松本明慶の作。
旧本尊が1メートル足らずの立像であったのに対し、像高3.56メートル光背を含めた総高6.3メートルの巨大な坐像である。
像はインドから輸入した23トンもの白檀を素材に作られている。
インドの白檀は輸出禁制品であったが、観音正寺の住職が、20数回訪印し、度重なる交渉の結果、特例措置として日本への輸出が認められたものであるという。 

奥の院
観音正寺へ車で参るルートに、繖山トンネルを抜けて林道を走るルートがある。(但し道幅は狭い。最近は車を使った参拝者が多い)
山道料金所で入山料を払い、約700〜800m歩くと境内に着く。

奥の院はこの参道の山側にある。今は登りを禁止している。 

この地域では、古代から繖山と深い関係を持つ豪族「沙々貴山君(ささきやまのきみ)」が勢力を振るっていた。
繖山南端山麓には滋賀県最大・最古級の前方後円墳瓢箪山古墳が存在し、蒲生野の盟主であった山君との関連が注目されている。
繖山にある観音正寺の奥の院と呼ばれる「磐座(いわくら)」(巨石)は、山君の氏神沙々貴神社や、奥石神社を含めて山岳信仰の対象となっていたとされ、いずれも関連があると推定されている。
「奥の院」と彫った標石が立つ石段を20m程登ると台地に出る。その山手に大きな岩屈があってその中に熊野権現を祀った社殿があるその奥壁の岩に平安時代の作と推定される線彫りの磨崖仏7体が刻まれているとされる。天を圧する巨岩の重なりに威圧を感じ、昔の行場跡と伝わる威厳な雰囲気に、古代山岳仏教の境地が感じられる。

さらに上に進むと大正時代に建てられた佐々木城跡の石碑がある。

資料
観音正寺旧本堂
明治15年(1882)に彦根城の欅御殿を拝領して本堂とし、重要文化財の千手観音立像が安置されていたが平成5年(1993)本堂・本尊共に焼失した。

寺社分限御改帳
観音正寺の堂舎・什物の目録 本山延暦寺制定の掟書
佐々木氏が従来山上にあった観音正寺の伽藍を麓に移し観音寺城を築城した旨が記されている。







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