JAPAN GEOGRAPHIC

滋賀県近江八幡市 武佐宿

Musa shuku,Omihachiman city,Shiga

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water    
 Flower
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 


June 2021 柚原君子

武佐宿


概要

武佐宿の歴史は古く、鎌倉幕府が終わった後醍醐天皇のころには武佐寺(後の長光寺?)を中心にしてすでに宿駅として機能していたといいます。
また牛若丸が奥州平泉に向かう途中、前髪を落として(元服)、以後義経と名乗った元服の池がある地でもあり、また信長の居城であった安土城などにも近く、歴史的場面にも多く登場してくる一帯です。
武佐の地名は武佐寺からきているようですが現存していません。現在は武佐駅の直近にある長光寺または中山道武佐神社の斜め向かいにある広済寺がかつては武佐寺で、その門前町として栄えたのが始まりではなかったかと推察の域です。

近江地方を訪れると「近江商人発祥の地」というフレーズを良く耳にします。
近江商人は近江地方を本宅として他国に行商をする商人の総称で、主に江戸時代前期に出てきた「八幡商人」・「日野商人」と後期になって活躍した「五個荘商人」とに分けることが出来ます。

八幡商人は武佐宿より琵琶湖寄りの現在の近江八幡駅の向こう側に重要伝統的建造物保存地区として商家や白壁土蔵の町並みが保存されています。商い物は「蚊帳、畳表、麻布、数珠、灯心、蝋燭、扇子」など。商圏はほぼ全国で1615年に最も早く江戸に出店をしています。鎖国以前にはベトナムなどの海外進出もしています。

五個荘商人は武佐宿の前宿である「愛知川宿」との中間である『五個荘駅』近くで「呉服、太物、編み笠、麻布(野州晒)」などを主に扱い、農閑期の余業として働いたといいます。

武佐宿より離れた位置の東近江市にある日野商人は「漆器、合薬、日野きれ(繊維)」などが主で日野の千両店と云われるほど、小規模な出店が多く大都市を避けて在方商圏としたそうです。

武佐宿は近郊に先述の観音正寺、長命寺の観音霊場があり、参拝客も多かったところに加えて、江戸時代に入り中山道が宿駅として整えられて現在の本陣を中心とした場所に家々も集められ、また伊勢に通じる八風街道の追分があったために、商人の町として栄え近江地方の物資が行き交う経済の要所となっていきます。多いときでは一日3000人の人々の往来があった武佐宿ですが、現在は「武佐」という駅はありますが、その駅前には何もなく、人通りもありません。

本陣も商家も歴史説明も数えるほどしかなく、宿を保存していくという市の姿勢も余り感じられない静かな街道の佇まいとなっています。

天保14年の宿村大概帳には、本陣1、脇本陣1、旅籠23軒。問屋2軒(武佐村・長光寺村でそれぞれ15日交替)、高札場所2、家数183軒、人口537人、人足五十人、馬五十頭(最も賑わったときは百五十頭)と記されています。

0,老蘇の森~福生寺

先回、愛知川宿を終了したのは五個荘清水鼻町にある大神宮常夜燈のある八幡街道(伊勢に通じる道)に分かれる道を左にとったところ。その続きから武佐宿に向かいます。

交通量の多い国道を自転車で行き、新幹線高架をくぐって武佐宿に向かう中山道に入って行きます。地名は安土町東老蘇。老蘇の森に奥石神社が有ります。老蘇の森も奥石神社もどちらもオイソと読みます。

老蘇の森は地面が裂けて水が出る人の住めない場所。それを止めようとして松杉ヒノキの苗を植えたところたちまちに成長して大森林となった。この木を植えた翁が100歳過ぎまで生きながらえたので「老蘇」の森と呼ばれるようになったと説明書きにあります。

先の道を右手に入っていくと行き止まりですが原っぱになっていて「根来陣屋跡」の立て札があります。
根来衆(ねごろしゅう)は、戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯に居住した鉄砲で武装した僧兵たちの集団。江戸時代になると家康の家臣となり この地に陣屋を設けた、と書いてあります。
陣屋は城を持つほどでもない有力者の拠点です。この根来陣屋の書院は街道に戻った向かい側の「福生寺」の本堂になっています。福生寺境内の御堂には小幡人形の千体仏があります。もともとはもう少し先の橋のたもとにあったものですが、こちらに移されています。古からずーと何を祈っていらっしゃるのでしょうか。

江戸時代末期の名勝の庭が「緑苔園」の中にあるそうですが、人も居ず見られません。郵便局を過ぎて老蘇小学校を過ぎるとその先に「東光寺」があり門前には「建部伝内の寓居跡」と有ります。豊臣秀吉の右筆だった人。

本日は愛知川宿の続きで行かれるところまで行こうと、自転車で足を伸ばしましたが、東光寺の先の「亀川」の交差点で終了にして愛知川駅に自転車を返して、名古屋経由で帰京します。
                                                                                                                 

1、西福寺~武佐神社

先回に愛知川宿+少し武佐宿を訪ねたのは2019年6月です。コロナ騒動で外出ままならず、あれからちょうど2年が過ぎて、本日は2021年6月21日。東京駅→米原→近江八幡→駅前で自転車を借りて武佐宿の続きに向かいます。
武佐の駅を通り越して、先回の続きとして西福寺より開始。西福寺には「泡子延命地蔵尊」なるものがあるようです。真新しい板に古書を写し取ったために昔の字の並びで読みづらいのですが、旅の僧(弘法大師)に一目ぼれした茶屋の娘が大師の飲み残した茶を飲むとたちまち妊娠して男児を出産。三年後に再び弘法大師が現れて男児にフッと息をかけると泡となって消えてしまった、という伝説に基づいているとのこと。同じようなことが醒井宿に「泡子塚」としてありますが、あちらの旅の僧は西行法師です。相手が居ないのに妊娠をしてその子どもが消えてしまう!どういう意味がある伝説なのだろうか、と思いますが。とにかく、ふっ!と息を掛けて消えたあたりから地蔵が出て祀ったというお話。

MIKIYAという洋服屋さんの前に「西生来の一里塚跡」の碑がポツンとあります。

蛇沢川を渡ると武佐宿の東口である「大門跡」が立て札一枚で。その先が武佐神社。高札場もあった所。神社は平安時代から続くもので商売繁盛の市神様が祀られて、境内には盛大な市も立っていたところ。
しばらく行った左側に「広済寺」。昔の武佐寺ではなかったかと云われている寺。矢張り木札一枚の案内。

                                      

2、本陣~西見附

宿の中心に入ります。
奥村家の勤めた脇本陣跡。向かい側は明治時代の建物で登録有形文化財に指定されている「八幡警察所武佐分署庁舎」。街道筋の色に溶け込んでいます。
虫籠窓のある家も少し残っています。武佐町の信号角に武佐宿の説明。昔は「牟佐」とか「身狭」とか云われたそうで、像が江戸でお目見えするためにここの宿に泊まったという説明内容。
街道の「いっぷく処 綿屋」の壁に安藤広重の武佐宿の絵があり、日野川の渡船船に近江商人が売り物を背負って乗ろうとしている図があります。

本陣は門と土蔵が残っています。下川家が勤めたとあります。お隣の郵便局は本陣の一部であるとともに伝馬所もあったところ。

本陣の向かい側には土地の小学生が立ててくれた看板があり、武佐宿に現存するただ一つの旅籠と書いてあり、広っぱの奥に家がありますが、新しくて旅館らしくはありません。もしかしたらここが滋賀県で唯一、中山道時代からあった創業400年を誇る「旅籠中村屋」の跡でしょうか。新聞記事では残念ながら平成23年に全焼したとあります。

ベンガラ色の格子や虫籠窓など風情のある家もところどころにあって、街道筋の感じは残っていますが、その他にもこの本陣の近くには「大橋家役人宅跡」「松平周防守陣屋跡」「平尾家宿役人の家跡」などがあるはずですが、特になんの説明もなく解りません。

「大橋家役人宅跡」だけは郵便局の斜め前に車除けで守った立派な家があったので、それではなかろうか、と思ったくらい。ちょっと残念です。

進行方向左手角にある道標は伊勢に通じる道を示した「八風街道道標」。概要にも記しましたが、ここが追分で、近江商人たちが荷物を背負い、八風峠を越えて伊勢に向かって曲がって行った場所です。牛や馬も振り分け荷物で物資が行き来した道。「いせ みな口 ひの 八日市 道」と刻まれています。

秋葉常夜燈の反対側奥の方に武佐宿の名前の由来となったと推察される武佐寺を前身とする長光寺があるので行ってみます。自転車で5分程の距離です。立派なお寺。お寺縁起には弘法大師を宗祖として聖徳太子の妃が老蘇の森に仮寓したときに祈りをつづけて安産になった経緯などは書かれていましたが、武佐寺との関係は書かれていませんでした。境内には樹齢600年の大きなはなの木。

街道に戻って武佐駅の近く。愛宕山常夜燈。この場所が西見附で高札場もあったところ。常夜灯に見入っていたら、向かい側のお店の旦那さんが出てきて、中山道歩き?と手書きの案内図をくださいました。
道は右に折れ武佐駅に。西の枡形。駅は人が居なく駅前には何もありません。

                                                                          

3、武佐駅~八幡社高札場跡


近江鉄道武佐駅の線路を渡り立派な本殿のある若宮神社に。かつては長屋門を構えた広大な地と邸宅があったそうですが現在は公園に。当時を物語る大きな楠木が残されているのは伊庭貞剛邸跡。伊庭貞剛氏は尊皇攘夷に奔走したのちに住友財閥に入社して住友家中興祖となった人です。

火の神様を守る火防の愛宕信仰や涎かけを着けてもらった道祖神などを見ながら「西宿町」信号から国道に合流してしばらく行くと江戸時代に6枚の板橋がかけられたという「六枚橋」交差点に。
左折します。ここにも道祖神がありますが、涎掛けが大きくってお顔が見られないのが残念です。
少し行くと右側に竹垣で囲った小さな池。「住蓮坊首洗池」。住蓮坊は鎌倉時代前期の法然上人の弟子。浄土宗の念(仏専修念仏)として人気が出始めていました。後鳥羽上皇が寵愛した女官、松虫姫・鈴虫姫の姉妹が専修念仏に帰依することを知った上皇は、法然上人を讃岐に、親鸞聖人を越後に流罪してしまいます(建永の法難)。住蓮坊は処刑されその首を洗った池。
この地域の地名は『千僧供(せんぞく)』。ちょっと珍しい地名ですが、千人のお坊さんを集めて悪疫退散を行ったという由来があるそうです。近くに「住蓮坊古墳」があり、処刑されたお坊さんのお墓があるそうです。

屋根には煙出し、街道に面して虫籠窓がある時代の趣のある家を見ながら八幡社と高札場跡を経て真淵町交差点を直進します。

                                        

4、真淵交差点~水口道標


茅葺き屋根の家は旧家奥村家と資料にはありますが、以前は門も茅葺きだったとか。今は普通の住宅に見えます。「東横関町」交差点まではしばらく一直線の道が続きますが、この先は土手に出て、日野川にあった渡し場跡を見ながら土手を迂回して横関橋を渡るのが中山道ですが、渡し場の案内版のあと、土手に行く道が案内されていません(あとで国道にかかる橋を渡るのですが、土手道を歩けないような『通行止』の札と鎖がありました)。

この辺りは立場があり渡し場のあるところから賑わった場所。安藤広重が描いた武佐宿はここ。本来ならば武佐宿の助郷村である東横関村ですがあえてここを武佐宿として描いた、と説明版にあります。
水かさがある時は船で渡り、無いときは板を並べて橋として渡ったそうです。過ぎてきた交差点名に六枚橋がありましたが、ここのことでしょうか。

東横関の「関」は室町時代にこの辺りに関所が設けられていたところから来ているそうです。本日は自転車ですので土手の周りを行ったり来たりしましたが国道に戻るしかなさそうで、国道に戻り横関橋を渡ります。次の信号の「西横関」の足元に道標「是よりいせみちミなくち道」と刻まれていて東海道水口から伊勢に至る道を示しています。この道標もわかりづらいです。
                     

5、間の宿「鏡」


しばらく国道を行きますが『日本ペイント』の看板のある道を左側に入ると鎌倉時代からの宿駅であった鏡地区になります。中山道時代では間の宿として栄えています。旅籠の跡の立て札が続きます「亀屋』「京屋」富田屋」「吉田屋」「吉野屋」「枡屋」……旅人がにぎやかに往来したのでしょうね。間口の広い大きな家が続きます、これだけきちんと看板が出ていると、武佐宿より賑わっていたのでは?と想像します。

石仏が集められています。庚申塔のような絵もあります。涎掛けをとって全体像を見てみたい!
「鏡口」信号で細い旧道は終わり、再び国道と合流。歩道が極端に狭い上に交通量の多い国道。脇見運転の車がいたら簡単にはね飛ばされそうな道を行きます。

間の宿でありながら、本陣、脇本陣などがあるのが不思議な気がします。江戸時代の中山道では宿駅から外されたとは言え紀州徳川家の定宿であったり、お茶壺道中なども休んだという宿ですので、この国道沿いが宿の中心であった事を物語るように、「真照寺…額田王を育てた鏡王が祀られている」、「本陣跡…林家が勤め、和宮が休憩をして後に駐在所になったところ」「脇本陣跡……白井家が勤める」の立て札が続きます。
「源義経宿泊館跡」があります。
京都の鞍馬寺より兄である頼朝をたずねるために奥州下向の途中、牛若丸は鏡宿の東山道時代の宿駅の長(おさ)であった澤弥伝(さわやでん」の「旅籠 白木屋」に泊まります。稚児姿であった義経は追っての目をごまかすためにここで元服を決意します。源氏の左折れ烏帽子を烏帽子屋五郎太夫(えぼしやごろうたゆう)に折ってもらい、それを冠して元服し源九郎義経となります。
昔は宿泊場所として藁葺きの家の遺構があったそうですが、台風で壊れて現在は空き地になっています。

中山道の前身である東山道時代の宿駅の長の家があった場所」など立て札が続いています。車の往来を縫って撮影します。信号もなく怖い区間です。

国道が右に曲がりそうな所に「鏡神社」があります。国道が分けていますが、向かい側の一帯も含めて鏡山(標高384㍍の山)で、渡来人との関わりや古墳の多いところでもあります。
鏡神社の入口には重要文化財が三点あると明示されていますが、本殿をのぞく二つの印塔は国道を挟んだ向かい側の鏡山の山中(西光寺跡)にあります。
重要文化財である鏡神社の本殿は室町中期の建立、前室付き三間社本殿、カエル股が多く屋根は緩やかな傾斜で優美、と説明版にあります。

参道入口石段の脇に大きな木がトタンの屋根を被っておかれていますが、これが義経が元服後の参拝で鳥帽子をかけたとされる「鳥帽子掛けの松」です。明治6年の台風で倒れてしまったので、株上2.7mを残し仮屋根をして保存されています。

鏡神社参道入口を過ぎると右側に小さな池があります。義経が元服の折に石清水を使って前髪を切り落としその姿を映した池といわれています。

道路を反対側に渡って国道に沿いながらも左に入っていく細い道がありますが、これが東山道時代からある中山道で特に何があるわけではありませんが、国道ばかり歩いてきた身としてはひっそりと街道が感じられる場所です。鎌倉時代にはすでに衰えてしまったそうですが当時は15頭の馬が置かれた篠原の宿駅でもあったそうです。

                                                                  

 

6、平宗盛・清宗親子胴塚


国道を直進して左側に笹の葉に覆われた細い道があります。入って行くと壇ノ浦の合戦に敗れた平宗盛・清宗親子は囚われの身となって斬首された平家終焉の地、と称して胴塚とそれ以来、蛙が鳴かなくなったという蛙不鳴池があります。行き止まりですが、鏡山は深く続いているようで、何か身震いらしきがしますので早々に退散。国道に戻ります。源氏と平家が入り混じる地帯です。

「浄勝寺前」という交差点の手前に大篠原の一里塚跡が国道の堤下にあるとのこと。探しましたが見つかりませんでした。何の案内もなく解りづらいのですが、この信号を右の方に入って行くのが中山道。左側に「大笹原神社」。鏡餅発祥の地とか。しばらく行って祠に道祖神。村の境を示す塞の神。この道も古道。再び国道と合流。左手は堤。西池というのがあるそう。結構長い堤が続きます。

右側に金毘羅大権現常夜燈と山灯籠が囲いを付けておかれています。その先流れる家棟川の底を揚げる工事がされたとありますから、ここに集められたのでしょうね。1794(寛政4)年建立。緩やかに右に曲がる道の橋を渡った先の森は篠原神社。その先、子安地蔵堂の案内。
この地方独特なのでしょうか石の碑の真ん中が四角く掘られていて(武佐駅手前にも同じものがあった)、愛宕神社のお札を納めるようになっています。
道はやがて東海道新幹線に沿うようになり、左側に紫陽花が彩りよく揺れる「甲山古墳」があります。直径約30メートルの古墳だそうです。ちょっと迷いましたが石段がきつそうでやめました。
                      

7、稲荷神社


朝、9時半に近江八幡駅で自転車を借りています。17時までに返さなければなりません。現在14時30分。駅に帰るまで1時間か2時間とすれば、この辺りが引き返し地点です。
JRの直近の駅は「野州」ですから近江八幡より二駅はきたことになります。稲荷神社の古宮神社本殿が重要文化財とのことですのでそれを撮影したら引き返すことにします。

古宮神社本殿(国重文)は近くの福林寺の境内にあった十ニ所神社の建物を、大正3年に稲荷神社の境内に移築したもの。もとは壬申の乱野州河原の戦死者を供養するために,948年に伏見稲荷大明神を勧請したもので、本殿は組物や頭貫の木鼻、向拝の蟇股などの意匠があり建立は室町時代と想定(昭和17年の解体,復元)


あちらの道こちらの信号をあれこれ曲がったりしてきたので、自転車で近江八幡の駅までうまく帰れるのかちょっと心配ですが、これより引き返します。途中、猫を撮影して遊んだり、中学生に道を訊いたりして少し迷いましたが、ともかく自転車を返す時間の5分前には駅に到着できました。お尻が多生痛いです。このあと米原駅に出て新幹線で東京に帰ります。
武佐宿を終わります。
                                   

 


Jan. 2014 中山辰夫

近江八幡市武佐町 1600(慶長5)年、関ヶ原合戦で勝利した徳川家康が、天下統一を図るため最初に手掛けたのが街道整備であった。

慶長6年には東海道を整備し、慶長7年には中山道を整備した。

整備された中山道は、江戸日本橋から終着点である草津宿までの距離が129里10町5間(約507.6km)であった。草津宿で東海道と接した。

中山道の宿駅は最初が板橋宿、最終が守山宿で、武佐宿は江戸から数えて67番目の宿であった。

 

多賀大社の門前町として賑わう高宮宿を過ぎると犬上川を渡って愛知川宿へ入り、その次が武佐宿である。

武佐宿から西50丁の距離に近江八幡がある。密接な関係があり、中山道の宿場町として賑わったのが武佐で、商業で賑わったのが近江八幡といえる。

 武佐宿から守山宿までは距離が長い。そのため、中世に宿駅であった鏡村「竜王町」に間の宿が置かれた。

中山道の宿駅は、東海道と比較して全体的に小規模なところが多い、とりわけ武佐は戸数、人口共に小規模な宿駅であった。

中山道宿勢比較

 

武佐が宿駅であった記録は、「東関紀行」にも見られ、鎌倉時代には宿の機能を果たしていたとあるが、宿は長光寺辺りであった。

 

整備された武佐宿は、民家を街道筋に移転させ、町並みは八町四間あまりで、東から地下町、仲町、西町、長光寺町となっていた。

八幡十二神社記録と1806(文化3)年編集された中山道分間絵図

  

木曽海道六十九次之内武佐(歌川広重画)

  

川舟を杭で固定し、板を置いただけの橋を行く旅人達。地元民が右端に一人いるのが珍しい。街道散策

川越藩領、宿内の町並みは東西に八町二四間余、1843(天保14)年の宿人数は537人、家数138軒、本陣、脇本陣、旅籠は23軒、問屋場は武佐町、長光寺町にあった。武佐宿は中世において登場するが、中心は長光寺から武佐に移り、現在の宿を形成する。

武佐宿屋根伏図(木曽六十九次中山道宿場図)より

 当時の宿場は「大門」から始まった。大門は木戸と同じで、入口に設けられ、人々の出入りを監視した。

大門跡の案内 武佐神宮の手前にある。 

   

街道案内

 

牟佐神社

宿の東入口に鎮座する。武佐は昔、牟佐村主がおり、牟佐上社、牟佐下社があった。同社は下社である。

     

神社の入口左手に見られる「高札場跡」で、街道には武佐小学校の卒業生が製作した手造りの標識が随所に置かれている。

武佐小学校は瓦葺で色調・デザインともに宿場建物の雰囲気を供え、昔の武佐宿の面影を残すことに成功した珍しい校舎である。

  

この辺りから古民家が現れる。その一つが「平尾家役人宅」と標識がある。

主屋は切妻造り桟瓦葺きのツシ二階町家である。正面は大壁造りで軒裏まで塗りこめてある。 軒先には幕板が取り付けられ、虫籠窓は二階左寄りに一つ。

     

明治天皇御聖蹟碑と広済寺

平尾家の向かいにある。ここは明治天皇北陸御巡幸の時、明治天皇行在所になっていた。参道奥が広済寺。浄土真宗の古刹で、昔は武佐寺と称していた。

     

脇本陣跡

脇本陣奥村三郎右衛門家跡。建坪64坪余り、玄関付門構えの屋敷であった。現在は武佐町会館が建つ。玄関前に馬頭観世音碑が建つ。

   

旧八幡警察署武佐分署庁舎(魚友楼洋館)と周辺

会館前に建つ古い建物は1886(明治19)年に建てられた。国登録有形文化財である。魚友楼は明治初期創業の割烹料理屋。

        

国道421号線の交差点。

その角に宿場案内看板と常夜灯が設けてある。

立板には、1729(享保14)年、将軍吉宗に献上された象二頭(内一頭は長崎で病死した)が江戸への途中、武佐で一泊した時の様子が描かれている。

長崎から江戸まで陸路354里を2カ月余り擁して移動した。想像上の動物に沿道は湧いた。武佐宿問屋から江戸方面の村に指示が出された。

案内と像通行の覚書

    

伝統的町並みが最も残っているのがこの交差点から東西約300mにわたる地域で宿場の中心部であった。

建築年代が江戸期にさかのぼると思われる町家が多く、伝統的な格子や虫籠窓を残す町家も多く、景観の連続性が保たれている。

 

一際目立つ岡田家 高二階建町家

    

向かい側の井上家と谷川家

井上家の主屋は切妻造,桟瓦葺の虫籠家である。正面は大壁造理で軒裏や妻面の母屋桁まで塗り込められている。

  

大橋家

大橋家は戦国時代に能登川町種村から移住してきたとあり、酒屋を営んだり、武佐宿の役人を務めたりした。古い家は400年以上の歴史を持つとされる。

主屋は切妻造、桟瓦葺、ツシ二階町家である。入り口部分は改造されているが、細格子や土戸の痕跡があり、虫籠窓や幕板といった町家の伝統的意匠を残している。15代金右衛門は皇女和宮の御降嫁の際、武佐宿伝馬取締役として勤務していた。

   

本陣(下川家)跡の郵便局

本陣跡は郵便局に替わった。伝場所跡の標識がある

郵便局は宿場の景観に合わせたつくりになっており、明治時代のポストにあたる「書状集箱」がステンレス製で再現されており現在も使用されている。

   

本陣門塀

今も残る門と塀。土蔵も残る。建坪は二百六十二坪。今も隣一帯は下川姓の家が並ぶ。建坪は二百六十二坪でした。

     

旅館(元旅籠屋)中村屋隣の町家

中村屋は現役として料理旅館を営業していたが、平成23年1月漏電で全焼した。町家の隣、空き地となっている。

    

道標「いせ みな□ ひの 八日市道」 道標は1821(文政4)年建立 東海道を経て、鈴鹿山系の八風峠を越えて伊勢に通ずる。

  

安土浄厳院道 いわゆる安土路である。

  

案内

 

福本家

松本周防守陣屋跡 武佐宿は川越藩領であった。 隣接して愛宕山常夜灯が建つ。

    

町並み

     

愛宕山 

武佐には愛宕神社の石碑や常夜灯が多く残っている。地元の信仰の篤さがわかる。 社の隣に高札場があった。先に進むと枡形となる。

 

近江鉄道武佐駅周辺 

桝形内の左手が近江鉄道八日市線武佐駅 「中山道 武佐駅」の表示がいい。その向いが武佐宿西見付跡、武佐宿の西口である。

桝形を曲がり、近江鉄道八日市線を武佐踏切で横断すると旧西宿村に入る。

   

武佐宿を出て西宿村の方へ歩をすすめる。大きな町家がならぶ

     

若宮神社

右手の若宮神社は1011(寛弘8)年の創建。隣が広大な空き地になっている。ここが伊庭貞剛邸跡である。

   

伊庭貞綱生誕地

    

伊庭家は近江守護佐々木家の流れをくむ名家。

屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な屋敷であったが、近年解体され、街道に面して楠(くすのき)の巨木を残すのみである。

貞剛は1847(弘化4)年ここで出生した。尊王攘夷に奔走し、維新後は裁判所判事を経て、住友財閥に入社。

1894(明治27)年四国の別子銅山精錬所に於ける、亜硫酸ガスによる煙害問題の解決に尽力し、住友家中興の祖と云われた。

貞剛は58歳になると事業の進歩発展に最も害をするものは、「青年の過失ではなくて、老人の跋扈だ」と云って、サッサと引退したとされる。

引退後は石山の「活機園 国重要文化財」で終生を過ごした。近江八幡安土にも「旧伊庭家住宅 安土郷土館」がある。

≪参考≫

東海道を旅する象

 

「日本年歴一覧」には、

大坂に付いた象は、2〜3日逗留後大坂を発ち大津に入った。そして草津から中山道に入り、武佐宿で泊まっている。

この通行に際して武佐宿問屋から沿線の村々の庄屋に指示が出ている。

① 道筋一町に一カ所ずつ手桶を設置し水を準備すること

②象の通行前日から犬や猫を遠い所へ移すこと

③像が到着する前から鐘や拍子木など音の高いものを差し止める、などであった。象の通行の際には次の指示が出された。

① 人が騒がないようすること

② 象の飼料は、竹の葉・青草・藁であるが、道筋では青草を食べるので準備すること

③ 青草は一日30斤(約180kg)食べるので準備しておくこと

④ 象の飲み水は清水を準備すること

⑤ 水の流れのはやい川では、人が大勢出て差し添えば不都合なく渡れるので、歩行渡しの川ではそのように心がける事

⑥ 渡船の川では、馬が3〜4頭乗れる船を準備すること

⑦ 象が宿泊する厩は、大ぶりで丈夫な厩であること

⑧ 象の大きさは、丈が七尺、頭から先までが一丈一尺、横幅が四尺あるので万事こころがけておくこと

等とある。参考資料≪近江八幡の歴史、中山道、他≫

 

 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中