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滋賀県近江八幡市 旧中川煉瓦製造所
Kyu Nakagawa brick,Omihachiman city,Shiga

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Jan. 2014 中山辰夫

 撮影:June, 2010
近江八幡市船木町字東沢田59−1国登録文化財八幡堀に沿う道を、日牟禮八幡宮から近江八幡市船木町方面へと進むと、八幡堀の向こうにそびえる煉瓦造りの煙突が見えてくる。
中川煉瓦製造所は滋賀県で最初に煉瓦の製造を始めた。現在、隣接する老人ホーム「赤煉瓦の郷」が管理している。
ホフマン窯
ホフマン窯とは、ドイツ人技師フリードリッヒ・ホフマンによって1858年に特許を取得された、煉瓦を焼くための窯のことを指す。
その構造上、連続して大量の煉瓦を焼成するのに適しており、一時は日本全国に50基以上ものホフマン窯が築かれていたといわれる。
現存するホフマン窯の中でも旧中川煉瓦製造所のホフマン窯は最大規模を誇り、幅約14m、長さ約55m、煙突の高さは約30m。
煉瓦は「イギリス積み」と呼ばれる積み方で積まれている。
構造:煉瓦造、長径55m、短径14m、煙突1基付 建設:大正5年頃 再現することが容易でないもの
解説:市街地北部の八幡堀と接する敷地に建つ。長辺55m,短辺14mの南北に長い平面で,南寄りに約30m高の煙突を建てる。
中央煙道の周囲にアーチ構造体をほぼ環状に廻らし,イギリス積の外壁にはアーチ形開口部を設ける。
残存例少ないホフマン窯の一つ。
往時を再現したホフマン窯の内部。ここで平成9年に一度煉瓦が焼かれた。
機械場

構造:煉瓦造平屋建 建築面積112㎡ 建設:大正5年頃 国土の歴史的景観に寄与しているもの
解説:事務所の南西に位置する。桁行12m,梁間10mの煉瓦造平屋建で切妻造とする。
壁面はイギリス積で,東面と南面に欠円アーチ形の出入口、西面に広い開口部をとる。
コーニスにはデンティルを廻らし,外観にアクセントを与えている。
旧中川煉瓦製造所機械場。乾燥させた煉瓦をここで成型していた。
事務所
旧中川煉瓦製造所事務所の建物。平成に入ってからの台風で倒壊したという。

構造:煉瓦造平屋建、建築面積50㎡ 建設:大正5年頃
解説:敷地北東部,かつての正門近くに建つ。桁行6.2m,梁間8.0mの煉瓦造平屋建で,切妻造,平入とする。
イギリス積壁面に覆輪目地を用い,コーニスには鋸歯飾をあしらい,正面のピラスターやキーストン等に色合いの異なる煉瓦を使用するなど装飾的外観を呈す。
≪資料:解説は国文化財データーベースより≫ ≪参考 滋賀文化のすすめより引用≫ 〜日本の近代化を支えた滋賀県の煉瓦工場〜 “富国強兵”“殖産興業”をスローガンに日本全体が近代化に力を尽くした明治時代。その象徴ともいうべきものが煉瓦を使った建築物だった。ヨーロッパの町並み、とくに日英同盟の関係から、英国風の町並みを模倣することは当時の最先端のモードで、日本中の重要な建築物に大量の煉瓦が用いられた。煉瓦建築の需要が高まると、滋賀県内でもいくつかの煉瓦製造工場が操業を開始している。そのうちのひとつが、近江八幡にある旧中川煉瓦製造所だ。
日本の近代化を支えた煉瓦工場の巨大な窯と煙突が、役目を終えて40年以上もの歳月を経た今も、往時の面影を残しながら奇跡的に同じ場所にたたずんでいる。
人気観光地として全国的な知名度を誇る近江八幡市の旧市街地。八幡商人たちが活躍した往時を偲ばせる八幡堀周辺の風景は、あまりにも有名だ。この八幡堀に沿う道を、日牟禮八幡宮から近江八幡市船木町方面へと進むと、八幡堀の向こうにそびえる煉瓦造りの煙突が見えてくる。この煙突こそ、日本の近代化を支えた旧中川煉瓦製造所ホフマン窯の煙突だ。ホフマン窯とは、ドイツ人技師フリードリッヒ・ホフマンによって1858年に特許を取得された、煉瓦を焼くための窯のことを指す。その構造上、連続して大量の煉瓦を焼成するのに適しており、一時は日本全国に50基以上ものホフマン窯が築かれていたと言われる。現存するホフマン窯のなかでも旧中川煉瓦製造所のホフマン窯は最大規模を誇る。

中川煉瓦製造所の誕生は、まさに日本が欧米列強に比肩するために国家の近代化に邁進した歴史と重なる。煉瓦建築を導入するという国策に見合う形で、明治16年(1883年)、中川煉瓦製造所の前身となる「湖東組」が、近江八幡の燃料商、中川長久郎氏によって創立され、滋賀県における煉瓦製造の歴史が始まったとされる。ちなみに、京滋地方の近代化の象徴とされる琵琶湖疏水を築くための煉瓦が、京都の「琵琶湖疏水事務所煉瓦工場」で生産され始めたのが明治19年(1886年)のこと。いかに「湖東組」による煉瓦製造が画期的なことだったかが伺い知れる。
なぜ県下で初めての煉瓦製造が近江八幡で始まったのかについては、もともと近江八幡が江戸期より「八幡瓦」で有名な町であったことと関係している。土を利用した同じ“焼物”ということで、その取り扱いに共通な点があったためだ。また、大量に焼かれた煉瓦を各地へ運び出すのに、八幡堀と琵琶湖の水運を利用できたことも幸いした。さらに、明治23年(1890年)には琵琶湖疏水が竣工したため、京阪神方面への煉瓦の供給が容易となった。
「湖東組」はその後「中川煉瓦製造所」と改称され、昭和に入ると「大晋煉瓦株式会社」となって昭和42年(1967年)まで煉瓦の販売を続けた。ただ、ホフマン窯での煉瓦製造がいつまで行われていたかについては、確かな記録は残っていないという。明治時代から大正時代にかけて建築資材として多用された煉瓦だが、関東大震災で煉瓦建造物の多くが崩壊したため、その後は煉瓦造りの建物はあまり建てられなくなり、コンクリートにその座を奪われてゆく。こうして各地の煉瓦製造所は次々と廃業に追い込まれていったようだ。

 現在、旧中川煉瓦製造所の敷地内には、ホフマン窯に隣接して特別養護老人ホームを運営する社会福祉法人一善会「赤煉瓦の郷」が建っている。同施設の理事長で、旧中川煉瓦製造所を経営していた中川家のご子孫の中川宗孟さんが敷地内を案内してくださった。ホフマン窯ほか旧中川煉瓦製造所の煉瓦建造物に対する熱い思いを伺うことができた。
ヘルメットを着用し、中川さんとともに金網で仕切られた煉瓦造りのホフマン窯とその周囲に残る煉瓦建造物群を見て回る。100年近くもの時を経てもなお、空高くそびえる煙突の存在感は圧巻だ。煙突の下はホフマン窯の心臓部、焼成室があり、「めぐり窯」、「輪窯」などとも呼ばれるようにトンネル状の窯がぐるりと「ロの字」のようにめぐっている。窯の内部に仕切りを入れていくつもの“部屋”を造り、各部屋に乾燥させた煉瓦を積み上げて、反時計回りの順に焼成していく。およそ半月ほどでホフマン窯を一周するが、これを繰り返すので、年がら年中煉瓦を焼き続けることができる仕組みだ。窯の天井部には直径10cm強の穴が開いていて、この穴から粉炭を投入して焼き上げる。中川さんによると、窯の中は1000度近くまで上がり、この穴を通じて時折火柱が上がり、煉瓦職人さんたちの眉毛が焦げるようなこともあったそうだ。

 ホフマン窯の隣には、旧中川煉瓦製造所機械場、旧中川煉瓦製造所事務所の遺構も残っている。廃業後、これらの遺構は長年顧みられることなく風雨にさらされ続けた。そのため、煉瓦の隙間に根を張った草木が茂り、見るからに廃墟という感が否めない状態になっていた。ところが最近になって、捨て置かれたままだった“廃墟”を「近代化産業遺産」、「近代建築」などと再評価する気運が高まり、たくさんの人が見学に訪れるようになってきたという。とくに、平成17年に国の登録有形文化財に、平成19年には経済産業省の「建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺産群」に選定されて以降は、さらなる注目を浴びるようになってきたそうだ。それらに登録・選定された煉瓦建造物のうち、「旧中川煉瓦製造所縄縫工場」の一棟は、この敷地から離れた近江八幡市の孫平治町の民家のなかに残っている。ただし建物の老朽化など危険性の問題もあって、現在のところは非公開となっている。公開に向けて準備を行っている最中とのこと。
「商品として出荷する煉瓦は色形の整ったものを出していましたが、色形が不揃いな規格外の煉瓦でこれらは建てられています。それが逆に趣ある深い風合いを醸し出しているのです」と中川さん。
平成9年8月には、中川さんの呼びかけで、操業停止から30年ぶりにかつてここで煉瓦を焼いていた職人さんたちとともに煉瓦を焼いてみたという。
中川さんに旧中川煉瓦製造所の煉瓦建造物の魅力とはと尋ねると、「当時の“近代化のエネルギー”を間近に感じられる、“モダンロマン”という言葉がしっくりとくる建物です」という熱いメッセージが帰ってきた。今後、中川さんたちの手によって、“モダンロマン”のイメージに沿うかたちで、これらの建築遺産に新しい息吹が吹き込まれていくことだろう。


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