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滋賀県大津市 荒川

Arakawa,Otsu city,Shiga

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Mar.11.2016 中山辰夫

荒川堤防

大津市志賀荒川地先

滋賀県の湖西、JR湖西線志賀駅と比良駅の間は、比良山系の山々から琵琶湖に向って吹き下ろす強風・「比良おろし」が度々起こる。

この強風で、JRは軌道の山側に防風柵を設置して防御に努めているが、年間に何度も電車の運行が止まる。

   

琵琶湖〜JR湖西線〜田畑〜国道161号〜田畑・住宅地〜河川・比良山地の並びで・住宅地が沿線の並びである。

  

後方は比良山系、前面は琵琶湖、国道161号線にそって、周囲を石積や土手で固めた田畑が広がる〜一見絶景の場所に見えるが、住民にとっては厳しい環境の地域である。

この地域は、比良山地の急崖を開析する河川から大量の土砂が流出、堆積して出来上がった台地である。一度大雨が降ると、急勾配の川が比良山系の急斜面を下り溢れて氾濫し土砂を流出する。

災害を起こす大谷川は、山麓で合流する中谷と大岩谷、および本流が扇状地になってから合流する四ツ子川よりなっている。

住民は、大昔から大谷川の水を区域内に引きこみ、家庭用、防水用、農業用に使ってきたが、反面、大雨による河川の洪水に悩まされ続けてきた。

湯島神社は安政年間(1852〜60年)に大谷川が煩雑に氾濫したのを鎮めるために建立されたと石碑から読める。

大物の四ツ子川や荒川の大谷川には江戸時代から堤が築かれ、毎年継続的な普請が繰り返された記録が残る。

   

比良山地は花崗岩地帯で、山麓には土石流で流された花崗岩の石(礫や岩塊)が豊富にある。この石が石垣構築に利用された。

  

1852(嘉永5)年の大谷川堤防の決壊時には、荒川村民の過半数が石屋に変り、荒地の石掘りに従事したとされる。

それ以降、荒川と木戸には石屋を業とする者が多く、石灯籠・石塔・礎石野面石・庭石が生産され大津方面に出荷されていた。

明治〜大正期の荒川は50戸ほどの集落であったが約半数は農業と石屋の兼務だった。

更に、比良山系に潜むイノシシ・シカ等の獣による被害も大きい。この対策が「シシ垣」の構築である。シシ垣は江戸時代から築かれだした。石は流出した花崗岩が使われた。比良山麓には複数の集落がほぼ横一線に並んでいるため、獣類の防除に隣の村とシシ垣をつないでいる所が多い。

北比良・南比良・大物の三カ村を囲うシシ垣と、荒川・木戸の二か村を囲うシシ垣が、湖岸を口にして「コ」の字形に築かれた記録も残る。

  

この区間にある木戸・荒川・大物・南比良の集落には、住民の財産を守る重要な役割を担った石垣やシシ垣が多く残る。

それらは、江戸時代から何度も修復を重ねながら維持されてきた貴重なもので、厳しい自然と対峙した住民の苦難の歴史が読み取れる。

荒川堤防

荒川地区—堤防

旧志賀町(現大津市)荒川地区には、イノシシやシカの侵入防止と北東側を流れる大谷川の水害・土石流災害対策を兼ねて構築されたシシ垣が残っている。

その石垣は、荒川堤防と称され、所在は志賀駅と比良駅のほぼ中間の位置にある。志賀は大津市に編入され、なじみの地名が消え残念である。

    

その石垣は、幹線・国道161号線口から始まっている。

    

荒川におけるシシ垣構築の歴史は古く、1816(文化13)年の「猪垣割合帳」に記録が残るが、それ以前から存在していたと思われる。

荒川のシシ垣は、1935(昭和10)年の集中豪雨で破壊され、村総出で修復・増強がされた。

集落と堤防 −1961(昭和36)年撮影されたもの 「引用:日本のシシ垣・志賀町史」

 

大谷川の一部が決壊し、家屋は浸水、田畑は土砂で埋まった。大谷川の河道や琵琶湖への流入部に多量の土石が運搬・堆積している様子や集落・田畑が洪水や土石流の脅威にさらされている構図がわかる。

現在残っているシシ垣—堤防の位置図

  

民家側に設置された石垣が蜿蜒と山に向かって続く。修復・増強されたものである。石垣に沿って背の高い金網の防護柵が設置されている。シカ対策である。

    

石垣の基部は200cm前後、頂部は150cm強もあり、これらはイノシシやシカの侵入目的に比べ厚みがある構造で、土石流対策用であることがわかる。

道路面は暗渠になっており、大谷川の水は路面下を流れる。

残存する延長2.5㎞前後のシシ垣には二か所の木戸口が設けてある。

     

土石流災害の危険が迫ると、村人は当地で「ひ」と呼ばれるものを木戸口にはめた。「ひ」は頑丈なものでなければならず、スギやヒノキの角材(10〜15cm、長さ3m)が用いられた。シシやイノシシの侵入防止にも役立てる。

シシ垣は左側に曲がり、さらに前方へと続く。木本神社の方へ向かう。金網の坊護柵は3m高さで近いシカの飛び越えに備えてある。

        

この周辺の石積みは厚みや石の加工に違いのあり古いシシ垣が残っている

木本神社近辺

    

この周辺に残る石垣は、崩れたり改変された箇所が目立ち、周囲に土砂が積もったりしている。高さもマチマチである。

石の並べ方には工夫の跡が見られ大小の石を組み合せた野面積みが主である。

石垣は木戸集落近くまで続いた

   

大谷川の改修工事がほぼ終わり河川は落ち着いているが、近年耕作放置地や放置竹林が増加し、それに伴ってのイノシシ、シカ、サルの作地侵入が増え、農業被害が多発しておりこの対策は日夜続いている。

新しい課題として、移住してきた新住民との混在化がある。こうした人達へシシ垣保存の認識と理解を得る作業が生じている。

山奥にあって一見目立たない存在であるシシ垣遺構が過去のものと放置され、忘れ去られることなく、貴重な地域の財産として保存と活用が進むよう願いた

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