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近江八幡 日牟礼八幡宮
Oumihachiman Himurehachimangu

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八幡まつり 国選択無形文化財
Hachimanmatsuri

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Apr.2010 撮影/文:中山辰夫

近江八幡 八幡まつり
Hachiman matsuri

国選択無形重要文化財

3月13・14日に開催された「左義長まつり」と併せ国選択無形文化財に指定されている祭りである。その歴史は長い。
4月14・15日の2日に渡り、日牟礼八幡宮馬場で()松明まつり」と「太鼓まつり」が行なわれる。

八幡祭りのいわれは、近江の地に行幸された応神天皇が、現在の日牟礼八幡宮へ参詣された際に、地元の住民が葦(よし)で作った松明の火で道案内をしたことが始まりと伝えられる八幡まつりは天正13年(1585)、豊臣秀次によって八幡町が開町される以前から旧村落の氏子によって行なわれていた祭礼で1000年以上の伝統を持つ格式のある行事である。

上ノ郷と呼ばれる市井・北之庄・鷹飼・大林・中村・宇津呂・上田・多賀と、下ノ郷と呼ばれる船木・小船木・大房・南津田、合わせ13郷の祭りで、氏子が参加する。

「松明祭」 14日
13郷より奉納される長さ10数mにおよぶ大きな松明を八幡宮の馬場に並べ一斉に奉火する。
「とっくり松明・振松明・ひきずり松明」など30余本に火が点けられたまま境内を移動する。大きさも形も多種多様にわたっている。
仕掛け花火の合図で、壮大な火の竜になる様子は壮観で、農民の五穀豊穣への強い願いが表れている。

松明はヨシと菜種殻を材料にして作られ、その先端には仕掛け花火が仕組まれてあった。

午前中に馬場で大松明が作られ、お祓いを受けた後、馬場に立てられた。首を曲げて見上げるほどの高さである。
各村で結われた松明も馬場に宮入し、決められた場所に運び込まれた。

午後やや薄暗くなった拝殿前に焚火がたかれる。そこに手に手に小さな松明をもった子どもたちが参拝に来て、松明を奉火する。
子どもは少しや焼け残った松明を持って焚き火の回りを走ってまわる。
おじいさんやおばあさんとお孫さんとの仕草がほほえましいひとときである。

夕暮れ前の馬場風景

やがて馬場が太鼓の音で賑やかになってくる。午後7時までに宮入りする各村々の青年たちの登場である。
高張提灯を先頭に陣笠、陣羽織、火事装束に身を固めた警備の面々、次いで白ズボンにゲートルを巻き紺の法被姿の青年にかつがれた太鼓が賑やかに楼門から入ってくる。
拝殿にいる神役一同は正面に横一列に並び、手にした扇子を開いて迎える。
正面にきた太鼓は「ドッコイサー、ドッコイサー」の囃子に合わせて太鼓を高くさし上げる。これをシュウシという。
神役一同は開いた扇子を前にし、シュウシに合わせて頭上高くさし上げる。これが受ける答礼である。

午後6時頃になると上の郷の松明が宮入りしてくる。
宮入りすると楼門を入り、拝殿の前でシュウシをして所定の場所で待機する。
午後8時になると、花火を合図に奉火が行なわれた。

祭りは24時ごろまで続いたようだ。
各郷のたいまつが次々に奉火され、境内は遅くまで火花と煙の競演の舞台となった。
この最期の盛り上がりがクライマックスとされる。宿泊覚悟の見物となる。


太鼓まつり 15日

近江八幡市の「八幡まつり」(国選択無形文化財)の本祭である。
日牟礼八幡宮の馬場で行なわれ、氏子が巨大な太鼓を担いで練り歩きながら打ち鳴らし、勇ましくて重厚な音色を響かせる。

八幡宮では午前11時から例大祭の式典が行なわれる。
各太鼓は午後3時に各太鼓宿に到着して社参(宿入り)の挨拶をして、4時から宮入り(大渡り)となる。
氏子たちは各郷の直径1〜2mの大太鼓を御輿のように担いで境内へ向かい、楼門前で「ドッコイサーノセ」と合いの手を入れながら行ったり来たりを何度も繰り返して練りまわる。
ドンドン、ドンドコ、ドンドコドンと鳴らされる太鼓や鉦の打ち方は各郷に伝わるものとされる。

大太鼓は楼門をくぐり拝殿前で頭上高く差し上げられる。これはシュウシと言われる。この後大太鼓は各郷へ引き揚げる。

午後6時半、宮司は神前で太鼓渡り行事が無事に終了したことを神前に報告して終了になる。

参考資料 《近江蒲生郡志、湖国百選、近江の文化財教室、パンフレット、その他》





Feb.2010 撮影/文:中山辰夫


近江八幡市宮内町257

主祭神:譽田別尊・比売神・息長足姫尊
例祭:4月15日

日牟礼八幡宮は、千有余年の歴史を誇る近江八幡の総社である。
約14,000uの広大な敷地で、エノキやムクの老樹が生い茂り、両側に石垣が築かれ馬場が八幡山に向かって一直線に続いている。

元和2年(1616)に造営された木造明神鳥居(県重要文化財)をくぐり八幡堀にかかる白雲橋を渡ると境内となる。
幅の広い、真っ直ぐな馬場がかなりの距離に伸びている。
両側は石垣である。その先は八幡山につながっている。
この馬場が春を呼ぶ左義長や八幡まつりのメイン舞台である。

境内はエノキやムクの樹がおいしげり、その下をしばらく歩いて楼門をくぐると、一段高い所に拝殿・本殿などの優美な社殿が一直線に並んでいる。

社伝によれば、成務天皇の代(131)に武内大臣に命じ大嶋大神を祀ったのがはじめと記される。
持統天皇5年(691)藤原不比等が参拝し和歌を詠んだに因み比牟礼社に改めたとある。
正暦2年(991)法華峰(八幡山)に社を建て、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀り寛弘2年(1005)遥拝の社を麓に建て「下の社と号す」とあり。現在の社は麓の社に相当するとされる。
中世には、守護佐々木氏のもとで八幡神社は武神としての振興を集め、室町時代には日牟礼八幡宮の名称が使われたようだ。

天正13年(1585)豊臣秀次が八幡山に築城の際それまで上・下社あったのを今の下一社に合祀した。
社地は八幡山の南麓に位置し秀次時代武士と町人の居住区の境であった八幡堀の内側に位置する。

近江八幡は築城にともなう城下町形成や、廃城後もすたれることなく商人の町として発展を続けた。
その中で、日牟禮八幡宮は、八幡商人は氏神である日牟礼八幡宮を深く信仰し、多くの寄進を行なった。

本殿は元文2年の再建で、棟札より大工は高木又市・高木但馬である。
社宝には、国重要文化財の木造譽田別尊坐像・比売神坐像・息長足姫尊坐像・木造男神坐像(鎌倉時代)がありその他、安南渡海船額1面(国重要文化財)がある。

主たる建物:神饌所、能舞台、楼門、神輿倉、神倉、手水舎、斎舘、鳥居(二基のうち一基は木造)、社務所 境内社:11社

国無形民俗文化財の「近江八幡の火まつり」の中心である左義長祭りや八幡祭りは日牟禮八幡宮を軸にして行なわれる。

八幡神社鳥居
県有形文化財:建造物:指定 S40 8 9

市道を挟んで白雲舘と面している朱色の木造鳥居である。高さ五間、柱間四間。
朱の木造神明鳥居とあるが、色は風雪で落ちている。元年2年(1616)に造営されたものである。
この鳥居をくぐると日牟禮八幡宮の境内となる。
日牟禮八幡宮には別に石の鳥居がロープウエア乗り場近くに建つ。

楼門
入母屋造、銅板葺、35坪
佐々木六角氏が建立、猿の御門と称された。安政2年(1855)に焼失したが、安政5年(1858)に再建された。

手水鉢
門内の左手にある。
幕末の勤王儒者梁川星厳は、近江八幡の豪商の経済的援助を求めるために、しばしば当地に来遊したというが、その時乞われて彼が書いた文字が刻んである。
安政5年(1858)に、酒造社中が奉納した幅1.5mある立派な水鉢で、背面に「不如洗其心」と達筆な字が見られる。
近江八幡は近世経済界に大きい足跡を残した近江商人の本拠である。

能舞台
入母屋造、30坪、1737年再建、1898年改築、1899年当社の能楽「日觸詣」(観世流)が完成、本舞台で初演された。

拝殿
間口三間三尺、奥行三間三尺、入母屋造、銅板葺、49坪、1189年に源頼朝公が佐々木氏に命じて建立。
1737年再建、1805年改築、文化11年(1814)の再建

幣殿

本殿
三間社流造千鳥破風向拝付 間口三間三尺、奥行三間
やや大型の三間社で、庇の正面にさらに同幅の向拝がつく。
現在はこの向拝柱が幣殿の背面柱ともなり、両者の屋根を接続している。
これは明治24年(1891)改修時にされた。
このため、本殿の正面は見えなかった。本殿の後ろは大岩と接している。

神社には数種類の棟札や棟札写しがあるが、現在の本殿は元文2年(1737)のものである。
全体的にかっちりときれいに造られており、細部手法も古式でいたずらな装飾がないため一見しただけで元文(1736〜41)より古くみえるとされる。
その中にあって向拝中柱上の出三斗とする二組の組物(大斗・枠肘木・巻斗)は中世形式をもち一段と古いとされ前身本殿のものの再利用と思われる。
社蔵資料では弘治2年(1556)に、上・下社の造替を行ったとある。

安南渡海船額
国重要文化財:江戸時代
正保4年(1647)に当地出身の安南国居住西村太郎右衛門が奉納したもので、幅76,5cm、板額面に異国帆船に日本人が乗っている図を彩色で描いている。
太郎右衛門は安南貿易に従い長崎まで帰ったが、鎖国令施行後であったため入国できず、やむなく乗っていた舟の絵を絵師菱川孫兵衛に描かせ、この額を故郷の八幡宮に奉納したという。
江戸時代の初期、近江八幡商人が海外貿易に雄飛していたことを物語る一例である。

参考文献《滋賀県の近世社寺建築、滋賀県の歴史散歩、歴史と文化 近江、滋賀県神社誌、ほか》




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