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栗東 狛坂
Ritto Komasaka



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Sep. 2009 撮影/文: 中山辰夫


金勝山―湖南アルプス―狛坂磨崖仏(こまさかまがいぶつ)への道 

金勝山(こんぜやま)と読む。阿星山から連なり、田上山にまで続く栗東市南部の山岳である。
かつて山の森はマツタケの産地で、「まったけの金勝山」といわれ有名だった。
明治までは金勝寺領地で流域の村々が入会林として薪炭採取に当たっていた。
金勝寺領の山林は、明治時代になって境内地を除く所領地が上地(あげち)となり政府の所有になった。
生活の糧を取上げられた金勝村民は、明治28年(1895)に下戻し運動を展開し、幾多の苦難を克服して払い下げに成功した。
金勝山系屋根筋の縦走と屋根へ至る道筋からなる道筋は湖南アルプスハイキングコースと呼ばれ、年間を通じてハイカーで賑わっている。
その昔、修験道であったことを思い出させる急峻なカ所も多くある。
また、平城京の造営のため金勝山の良材が切り出され、以後も乱伐が続き山の表土が流出し、巨石だけが残って露出して林立している。
これら巨石からなる奇景もこのハイキングコースの名物である。
明治になって砂防事業や植林が積極的に進められ、禿山だった山に緑が戻り、露岩とうまく重なり合って美しい景観を作り出している。
狛坂磨崖仏へは、JR石山駅から信楽行きバスに乗り「桐生の辻」で下車、およそ3kmの山道を登る。または金勝寺からは南西約2kmの距離を歩くか何れかを選ぶことになる。
今回は金勝寺から辿った。
道の両側には原始林に近い深い森が蜿蜒と続き何も見えない。擬木の階段、石段、岩場、白砂でできた砂利道の繰り返しで決して楽でない。
道中に横たわる巨大な巨岩をなでながら、時折顔を見せる穏やかな琵琶湖の景色が疲れを癒してくれる。


「竜王算八大竜王」
大きな岩の上に祀られている。昔田用水に難儀をした村人がこの八大竜王に登り、薪を積み上げ大火を炊き、「雨給う竜王よ、八大竜王よ」と一生懸命に雨乞祈願をしたところである。

「茶沸かし観音」
親しまれている石仏である。
花崗岩の自然石に高さ56cm、幅36cm、奥行18cmほどのアーチ型の龕が彫り込んである。
その奥に円形の頭光を持ち蓮華座上に立つ如来立像を浮き彫りにしたもの。
この通称の由来は往昔ここで参拝者に湯茶の接待が行なわれていたからと言われる。
可憐な姿の心に残る仏様で、恐らく鎌倉時代の作とされる。

「重岩かさね」がある
見るたびに地震で落ちないかと思わざるを得ない、大きな岩の重なりである。
仏さんが彫ってあるが、風化でだんだん見にくくなってきている。

磨崖仏
複製です。

時たま見える絶景の数々
琵琶湖、三上山も一眸の中にある。最近開通の第二名神高速道路も見える。

天然の奇景−露岩(花崗岩)




[参考文献:栗東の歴史 栗東の文化 栗東の街道をゆくより抜粋]



狛坂寺廃寺 
栗東市荒張

金勝寺の西方の山中、桐生・桐生辻へ至る狛坂道へ登る中間点付近にある。
狛坂寺は、金勝寺と同様に興福寺の僧願安によって建立されたと伝えられている。
大永6年(1526)の「狛坂寺縁起」(金勝寺蔵)によると、もと蒲生郡の狛長者の持仏であった千手観音像が、嵯峨天皇の皇后に献上され、それが護持僧の興福寺の願安(がんあん)に相伝された。
願安は初め金勝寺に安置したが、同寺が女人結界の地であったので結界外の狛坂に一寺を建立し観音像を安置した。これを狛坂寺と称した。
永正12年(1515 )に本堂が炎上、天保9年(1838)に再興され道俗男女の参詣で栄えた。
明治維新のとき本尊が盗難に遭い、追い討ちをかけるように所有山林が上地となり廃寺となった。
本堂は南山田不動浜の西光寺へ移築され、さらに庫裏や門も桐生へ移築された。
跡地には磨崖仏のみが残った。
寺跡には大・少の岩が散在し、雑木林となっている。
磨崖仏の向かい側が寺の境内跡であったろうと思わせる大規模の石垣や礎石が残ったままになっている。
かなりの広さであったことが分かる。「どうしてこんな場所に・・・」との思いにはまる。
ここまでお参りするのは大変こと。信心の篤さが難行も苦にならないのであろうか。
[参考文献:栗東の歴史、近江栗東郡誌、栗東の文化より抜粋]




狛坂磨崖仏(こまさかまがいぶつ) 
栗東市荒張

国指定史跡:史跡:指定1944・06・26
その磨崖仏は金勝山中の狛坂寺跡と向かい合うかたちで造立されている。
高さ約6m、幅約3.6mの花崗岩の巨石に、像高2.35mの阿弥陀如来坐像、両脇に像高各2.35mの菩薩立像の三尊像を中心に、上部には九体の仏菩薩が浮き彫りにされている。奈良時代後期の作とされる。
主三尊は格狭間(こうざま)を表した須弥壇上に像高2mを越す如来坐像と両脇侍像を高肉に彫りだしている。
その周囲には時代の下がった二組の三尊仏と三躯の菩薩立像が薄肉で表している。
向かって左側の岩にも刻んである。両手の印相は転法輪印を結んでいる。
尊名は弥勒とも釈迦とも阿弥陀とも言われ諸説あるが定まっていない。
中尊の量感のある表現や目鼻立ちを大振に刻み、両肩を張って右肩を露出して大衣をまとう作風、両脇侍の両足を開いた形など、新羅様式の影響が認められることから、渡来系工人によって刻まれたものと考えられている。
制作年代については諸説があるようだが、規模の大きさ、制作年代の古さ、造形的表現の最も雄大、卓越するものとして、史跡指定を受けた文化財である。
石工が命をかけてコツコツと彫りつけたものであろう。時の経過を忘れさせるほどデ−ンと構えて訪れる人を待っているようであった。
磨崖仏の周囲には大岩が散在していた。前方の鬱蒼とした林の中一帯には石積が多数残され大寺院跡と一見できるが荒れ放題のままである。
「参考文献:栗東の歴史、近江栗東郡誌、栗東の文化、栗東の街道を歩くより抜粋






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