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滋賀県多賀町 胡宮神社

Konomiyajinja,Taga town,Shiga

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February 23,2024 大野木康夫 source movie

境内

  

本殿(滋賀県指定有形文化財)

                      

 


March 21, 2019 野崎順次 source movie

滋賀県犬上郡多賀町敏満寺49

足下に名神高速道路を見下ろす眺めの良い丘の上に立ち、寿福・延命に御利益があると伝えられています。青龍山(せいりゅうざん)の巨石信仰が起源といわれ祭神は多賀大社と同じ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)。もとは敏満寺(びんまんじ)の鎮守社であったので、敏満寺の境内であったといわれる場所に建っています。敏満寺は聖徳太子開基の天台宗の寺院で、湖東三山と並ぶほどでしたが、戦国時代に兵火により焼失してしまい廃寺となり、神社だけが再建されました。現在は胡宮神社の境内に金堂や大門跡が残っています。

(滋賀・びわ湖観光情報ウェブサイトより)

ガイドブック「胡宮神社とその周辺」

                   

現地説明板

     

裏参道を進む。

          

拝殿、本殿

        

磐座への道

  

大日堂、石仏群、観音堂

               

社務所

     

胡宮神社庭園(社務所庭園) 江戸中期 池泉鑑賞式

本庭は胡宮神社本殿株の山畔崖地を利用した池泉鑑賞式の庭園であるが、全庭の面積は約百十坪ほどのものであり、社務所の北庭となっている。社務所の前庭は平庭とされ、これに多くの飛石を配し、池庭は北部の山畔中央が強く突出した出島の地割となっていて、江戸中期初頭の典型的な様式を見せている。

(中略)

本庭左方部には水月亭があり、その付近に平天石の岩島があり、逆に右方部には二枚の自然石の橋を架け、さらに山畔には多数のサツキを主材とする刈込を数段に配植していて、その中に多少の石組があるが、それらの石組は比較的に小石を多く用いてあって、これまた江戸中期の典型的な構成である。そして山畔上部には三尊石組が見られるが、これらの石組手法も、よく江戸中期の典型的なものであり、あるいはまた池畔護岸石組も、かなり荒廃しながら、この時代の手法を語っている。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」胡宮神社庭園より)

                              

裏参道あたりの奇石、寿命石、石碑など

                 

西方の眺望

    

旧敏満寺跡 古井戸と焼石の塚

天台仏教の法域として、1200年前から約700年間、堂舎48ヶ所余りあった敏満寺は、惜しくも元亀3年(1572)織田信長に焼かれて法灯は消えた。焼け跡を天正元年(1573)胡宮神社の境内として整備された時、散乱していた焼石や五輪塔をこの古井戸に投げ込んだ。

平成の世となり、埋没していた古井戸を掘り返した時に出た石と五輪塔で、この塚を盛り上げだ。焼けただれた跡の見えるお塚の石や五輪塔は、敏満寺の遺物として貴重なもので、栄えていた寺院の姿を偲ばせてくれる。

(現地説明版)

         


Nov.17,2018 瀧山幸伸  source movie

                                                                                                                                  


Nov.26,2014 瀧山幸伸 source movie

A camera

                                                          

B camera

                                                     

   


Aug. 2010 撮影: 中山辰夫

犬上郡多賀町敏満寺

祭神:伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)・事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)

胡宮とは、古いお寺、非常に気高く尊いお宮という意味である。

神社の背後には青龍山という神体山がる。その山頂近くには磐座があり、またどんな旱魃のときにも枯れない古井戸がある。

胡宮神社の祭神は日本最初の男性と女性の神様である伊邪那岐命・伊邪那美命の子である事勝国勝長狭命で、五穀豊穣を司る神様である。

胡宮神社は湖東三山と並ぶ敏満寺の遺跡でもあり、典型的な神宮寺の形を残している。

   

胡宮の参道

胡宮神社には複数の参道がある。

一つは、国道307号線沿い、名神高速道路の高架下からの入口。多賀駅から約2kmのところ。ここが表参道である。

そこには敏満寺の仁王門の礎石が5つと石柱が保存されている。

大鳥居を抜けると砂利の坂道となり、秋には「血染めのもみじ」と言われる素晴らしく美しい景色が見られる。

祭礼の時はこの坂を神輿が渡る。神聖な場所である。

           

二つには、国道307号線沿いに社標があり、「高さ5.4m、柱の直径46cm」の鳥居が建つ。表参道へ行く手前にある。

鳥居の手前、左側の土手には、昭和46年(1971)に建てられた「延命長寿」と刻まれた石がある。

今回はこの参道より境内に入る。

    

その鳥居をくぐると左に旧多賀町歴史民俗資料館」があり、その先左側に「神の森の頂上へ570m、ここからいわくらのみち」という標識がある。ここが青竜山の登山口である。

鈴鹿山脈の琵琶湖側には南から永源寺、湖東三山といった古刹が並ぶが、青竜山はその北にある333mの小高い山である。

この山は、全体が御神体であるという古代山岳信仰の霊山である。

創祀の年代は明らかでないが、背後の青竜山の巨石信仰に起源をなすという。

古来、多賀大社の奥院として旧敏満寺境内内に所在する。

もとは桜宮といい多賀町桜町にあったものを9世紀から10世紀前半の敏満寺創立のとき、守護神として現在地に移したと伝える。

治承4年(1180)、俊乗坊重坊が多賀大社に延命を祈って霊験を得、そのお礼として建久9年(1198)、当社に舎利塔を寄せた。

鎌倉時代には敏満寺の鎮護の神として栄え、また授子・授産の神としても崇められ、古くから僧や歌人をはじめ多くの人が祈願に訪れた。

当社殿は戦国時代、浅井長政・織田信長の兵火により焼失した。敏満寺滅亡後、その寺宝は当寺に移された。

敏満寺の焼失後、天正15年(1573)織田信長により、敏満寺の旧領地3ケ村を与えられ再建された福寿院が別当となり、多賀大社奥の院または別当として崇敬されていった。

寛永15年(1638)徳川家光により造営され復興を遂げた。

古代神社形式の典型「三間社流造」として県指定文化財となっている。

徳川家光の多賀大社の造営に関連して、当寺の本殿も寛永15年(1638)に完成した。これは「多賀大社寛永造営記」、擬宝珠銘からも明らかである。

また、「慈性日記」によれば、寛永15年5月21日に山田・高松・来栖・千代宮(現在の重要文化財千代神社本殿)・滝宮(県指定重文大瀧神社本殿)の諸社とともに胡宮神社本殿も上棟したことが記載されている。なお、上記五社のうち現存しているのは千代神社、大瀧神社と当社の計3棟である。

神域は約6000㎡、社務所の庭園は国の名勝になっている。

青竜山の山頂にある「磐座)をめざす

標識に従って、登山口より登る。道幅1m弱の登山道は歩きやすい。30〜40段の丸太階段を4〜5ケ所登る。他は地道である。

道の両側はウラジロの葉っぱが青々している。低木がつくるトンネルをくぐる。

約10分登ると、立札に「御池 ここから50m下」とある。行ってみると小さな水溜りがあった。だが後で調べると、そのお池は竹杭に囲まれた湧水池とのこと。立札によると、禊の場と、雨乞いの場所であったとのこと。(水溜りは間違いだった!)

       

山道に戻り山頂を目指すと二道に別れる。磐座の方向を選び数分行くと見えてきた。巨大な岩が重なって斜面に張り出し、その下に小さな祠が安置されていた。

この祠には龍神が祀られており、雨乞いの神とされてきた。この磐座こそが当山の山岳信仰の中心で、胡宮神社の本宮とされるものである。

    

境内を散策する。

  

斎殿

    

拝殿

   

本殿

県重要文化財

三間社流造、檜皮葺、朱塗り

本殿は織田信長の兵火で焼け、豊臣秀吉によって再建されるも焼失した。現在の建物は寛永15年(1638)の多賀大社造営の際に再建されたものである。

三間社ではあるが、平面および構造は一間社を二つ合わせた特異な形式である。

三間社の大型本殿で木割りも太く雄大である。多賀大社造営に関与した工匠の手によるもので檜の良材を用い蟇股、手挟などの彫刻の意匠にまとまりが認められる。

千代神社、滝宮神社の各本殿とともに多賀大社寛永造営にかかる本殿として重要な建物とされる。

三代将軍徳川家光の寄進による壮麗な建物である。

        

土塀

斎館の前から本殿を仰ぐと、塀に5本の白線が見られる。これはこの神社の格式が高いことを示している。

  

本殿の右手には2つの小さな祠があり、その右手が磐座への登り口である。

  

唐門

唐破風造

本殿向かって右側に唐門(からもん)が建っている。本殿側から唐門の中に入り天井を見上げると、そこに龍の細工が施されている。

柱には獅子の彫り物があり、威厳が感じさせられる門である。

        

大日堂(だいにちどう)

桃山時代の多賀曼荼羅に三間四面の建物とある。

本尊の大日如来は密教の仏様で、正面の厨子の中には鞘仏(さやぼとけ)だけが安置されている。

胎内仏は高さ13cmの小柄な仏様で、町の博物館で保管されている。

お堂には俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)・元三大師・虚空蔵菩薩(こくう)・薬師如来・不動明王像などがある。

お堂の正面の鰐口(わにくち)には元禄12年(1699)の銘と、正面の石段の両側にある石灯籠には宝永2年(1704)の銘がある。

敏満寺が火災の時、宝寿院に納められていたのが大日堂に移された。

    

観音堂

三間四面の本堂は、屋根が二段の瓦葺入母屋造である。

本尊は床下から突出している自然石がそのまま彫られた高さ1.86mの石造聖観音立像である。

この聖観音像は「聖徳太子が諸国巡回のとき、ここで奇石をご覧になり、石造の聖観音を自作された」という言い伝えがある。

    

銅製五輪塔

国指定重要文化財

建久9年(1198 )に重源が書いた紙本墨書寄進状がついている。

東大寺が平氏に焼かれた時、重源(1121~1206)が再建の責任者として任命された。その時の年齢は61歳であった。

しかし重源は高齢であったので、胡宮神社に延命長寿の祈願を依頼し、20年長生きができた。それ故東大寺が再建された。

その御礼として、重源は五輪塔と仏舎利を建久9年(1198)に寄進した。蓮華座上に三角の火輪をもつ五輪塔を据え、地輪中に仏舎利を奉安した舎利塔である。

   

水沼荘「東大寺荘園」(大字敏満寺内の田圃・・約30町歩)

奈良時代(710〜794)に、聖武天皇は百済から伝承した仏教(552)を国家鎮護の中心とし奈良に大仏を建立した。

天皇は大仏の完成直前に、大仏の前で行なわれる千灯法会の料田として、水沼庄30町歩を、天平勝宝3年(751)に寄贈された。これによって水沼庄は東大寺の荘園となった。

その荘園図は正倉院に収納されている。荘園図に描かれている水沼池は(大門池)は現存し、県内で二番目に古い池とされる。

    

下乗石

 

古井戸と焼け石の塚

旧敏満寺跡の説明版をはめ込んだ岩の右手に、金網の蓋がしてある古井戸がある。

この井戸は敏満寺にあった当時のものといわれており、敏満寺が兵火で焼けたとき、井戸の中に石を投げ入れたといわれている。

その石を取り出して作られた塚が「焼け石の塚」である。その奥には一段高い石灯篭がある。

    

境内社・境外社(熊野神社)

胡宮神社の境内には本宮「磐座」があり、境内の外にある境外社が他に9社あったとされる。

現在境内社は本殿の横に2社あり、仁王門の手前にあった熊野神社が、高速道路が通ることになったため移築されている。

境外社には、本社が祀っている神様と縁故のある神様を祀っている。

胡宮神社の境外社としては八幡神社、稲荷神社、川岸神社、仮屋神社、小山神社、原田天満宮などがある。

    

社務所庭園

国名勝に指定 昭和9年(1934)

敏満寺の焼失後、福寿院は明治まで別当として胡宮神社を護持していた。庭園はこの福寿院の庭園である。

制作年代は明らかでないが、様式から江戸中期頃と推定される。

自然の傾斜地を利用して築山を作り、つつじ、さつきなどの植え込みがある。所どころ立石をまじえて、前垣に池が掘られている。

池には島がないかわりに、浮き石の上に小さな木造の亭が建てられている。

鑑賞は書院からするように造られている。鑑賞式林泉造園で池泉築山構成が妙である。

        

敏満寺跡

敏満寺は聖徳太子の草創、慈証上人経行ところとも敏達天皇の開基とも、伊吹山三修上人の高弟敏満童子が開くとも言われる。

中世末まで坊舎が100余りもある大寺院として栄え、湖東三山と並ぶ天台の大寺であった。

青竜山の西麓一帯に堂宇が広がり、中心部は胡宮神社の社域と思われる。

が、戦国期、浅井長政や織田信長の兵火で焼けて以降廃絶した。水沼(みぬま)村とも関連する寺であった。寺宝は胡宮神社に伝わる。

敏満寺で見つかった城郭遺構群は、寺に似つかない土塁や、物見の櫓(やぐら)などが建つ平坦地、「石積み」遺構、「一折れ」と呼ばれる虎口などが検出された。これらの遺構群は戦国時代の山城構造を示している。

これらは、元亀3年(1572)の信長の敏満寺攻めに対して敏満寺側が設けた施設であるとされ、「石積み」も検出されたことから、敏満寺には石工や石積集団がおり、防衛の要となるところには石を張り付けたとされる。

   

天台宗青龍山敏満寺の創建は諸説がある。

1. 貞観、元慶(859〜889)のころ、伊吹山太平寺の三修上人(慈証ともいう)によって創建されたといわれる

2. 一説には、敏達天皇(572〜585)の願いにより道場を開基されたとも言われている

3. また、用明天皇(585〜587)の願により道場を建立されたとも古い由緒書に記されている。

4. 太政官通牒には「聖徳太子(593〜622)草創の浄場、慈性上人径行の仁祠なり」とも記されている。

いずれにしても神体山を中心とした古くからの霊場であったことを伺わせる。

永禄5年(1560)9月浅井長政の兵火にかかり復興の途上、元亀3年(1572)3月10日寺領2万3千石の返還を要求した織田信長との論争があって、焼き討ちを受け廃寺となった。

その後、礎石は彦根城の築城(1603〜1622)にあたり石垣用に運び出された

約700年間、法灯ゆらぎ、堂塔48宇余といわれ繁栄を極めた敏満寺は宝物の一部をのこして幻の寺跡となった。

東大寺と敏満寺

この敏満寺の地が、東大寺の創建された天平勝宝3年(751)に、東大寺の荘園となって以来、長徳4年(998)頃まで東大寺との関係が続き、その間に敏満寺が創建(859〜889)され、さらに東大寺との関係が長く保たれていった。

源平合戦により治承4年(1180)平重衝の兵火により東大寺が焼失した。

俊乗坊重源は、その再建のため敏満寺に協力を求め、これに応じた敏満寺へ仏舎利を納めた金銅製五輪塔(国重文)を寄進して謝意を表した。

石仏谷(中世墓群)

敏満寺青龍山の山腹西側斜面に中世墓群が約7,000㎡にわたって広がっている。

平成8年よりの調査により、この石仏谷は中世の墓地が良好に残る遺跡である事が判明している。

お墓の種類は、自然石を方形あるいは円形に石組したように見られるもの、土を掘ったようなものなど、幾つかの種類がある。

地表面には蔵骨器と見られる壷の破片や焼けた骨片が所どころで露出している。

また、非常に多くの石造物が残されている。石仏は千基以上を数え、他に五輪塔等多くの石仏が見られる。

多賀町教育委員会が目下発掘調査中で数年内には解明され、一般に公開される予定である。

 

社宝—文書

胡宮神社の宝物の中に「重源書状」「仏舎利相承図」「赤染衛門願文」の3つがある。

「重源書状」には「十二月十七日」との日付があるだけで書かれた年代は不明であるが、一説には元久2年(1205)とされる。

重源が、多忙と年齢で敏満寺に参拝できないことのお詫びと、東大寺大仏殿や七重塔前で千部法華経の読誦をするため、敏満寺宗徒に勧進を依頼することが書かれている。

 

他に、勅使参向図、多賀大社能面・狂言面、などがある。

「仏舎利相承図」には、平清盛が白河法皇と祇園女御の間に生まれたとする説話が記される。

猿楽みまじ座

敏満寺には近江猿楽の一座も属していた。世阿弥の「申楽談義」にもみられるように、かつての敏満寺は「みまじ」と通称される近江猿楽の発祥地であった。(史料は“胡宮神社のガイド”より転載)

  

紅葉の名所

       

参考資料《多賀町教育委員会資料、滋賀県の近世社寺建築、湖国百選、胡宮神社パンフレット、滋賀県の地理、滋賀県の地理、他》

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