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滋賀県高島市 安曇川周辺
Adogawa,Takashima city,Shiga

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November 8,2014 大野木康夫 movie

朽木村井
Kutsukimurai

朽木村井付近の安曇川





Sep.2013 中山辰夫

安曇川散策
滋賀県高島市安曇川町

滋賀県教育委員会、高島市教育委員会主催の「探訪【大地の遺産】継体天皇の足跡を訪ねて」に参加して、安曇川の歴史に触れた。
安曇川には継体天皇につながる伝承が多く残っている。安曇川の地の歴史は古く、これまでも貴重な出土品や遺跡が発見された。
さらに最近も新たな遺物が発見されており、個々の点が線となり、大きな史実の解明つながるように期待したい。

実施日:July 6,2013


■■安曇川町
湖西中央部に位置し、北は新旭町・今津町、西は朽木村、南は高島町に接する。北西から南東に細長く延び、山地の多い高島にあっては、安曇川・鴨川の下流沿岸に位置するため平地が広がる。町域中央部をJR湖西線、国道161号線が通り交通の大動脈となっている。
鴨川に沿った三尾里周辺は対岸の高島鴨周辺とともに古代の三尾の地といわれ、継体天皇の出生地とされる。多く存在する古代豪族の遺跡は、この地域が朝鮮半島の文化的影響を受けつつも、大和の先進的文化に比肩しうる優れた歴史と文化を有していたことを物語る。
古代以来京都上賀茂社安曇川御厨が置かれ、安曇川でとれた川魚を供献した。中世には船木に船関が置かれ安曇川舟運と琵琶湖舟運の結節点として繁栄した。中江藤樹の出生地でもある。
現在も安曇川のアユ・ハヤの簗漁(やな)は湖西の風物詩であり、扇骨の生産は全国の80%を占めるとされる。

■■継体天皇
■57才のとき、武烈天皇の後継者として河内の樟葉宮(くずはのみや)で即位したが、その後20年たってようやく大和入りがかなったといわれる。
『日本書紀』にみえるこの即位物語は、越前や近江を基盤とする豪族がかかわった古墳時代後期はじめ(6世紀前半代)の実際の政変を反映すると考えられている。

■第26代継体天皇は近江の高島で産まれ、越前の高向(たかむく)で育ち、河内の樟葉の宮で即位したとされる天皇である。
男大迹(おほど)王(後の継体天皇)の誕生については『日本書記』に、父である彦主人王(ひこうしおう)が近江国高島郡の「三尾之別業(別邸)」に住んでいたころ、美しき振媛(ふりひめ)を妃に迎え、そこで産まれた男大迹王(をほどおう)が後の継体天皇とある。

「三尾之別業」の伝承地としては、安曇川町三尾里周辺に「御殿川」・「上御殿」・「下御殿」・「胞衣塚」などが古事ゆかりの地として有名である。一方、考古学的発掘調査からは、JR安曇川駅前の南市東遺跡および北西に位置する安曇川町公民館周辺の下五反田遺跡にかけて5世紀代の集落跡が確認されており最有力視されている。最近発掘が続く「上御殿遺跡」も注目されている。

■■周遊コース

■■南市東遺跡
(現)安曇川町末広
JR安曇川駅周辺に広がる遺跡。弥生時代中期末から中世「鎌倉」にかけての複合遺跡。弥生後期と古墳中期に属する竪穴住居跡60数棟、弥生後期の方形周溝墓15基 、古墳中期と平安前期の大溝跡二条などが検出された。
竪穴住居遺跡からは、初期須恵器に炉とかまどが出土した。さらに格子叩目文のついた韓式系の甑(こしき)形土器も出土した。その他の出土品から朝鮮半島との交流があったとされる。

■■下五反田遺跡
安曇川町田中字五反田58
安曇川右岸の扇状地中央に位置する。調査で、5世紀代の集落跡が検出された。JR安曇川駅周辺(南市遺蹟)からふれあいセンタ周辺(五反田遺跡)にかけては、5世紀の大規模な集落遺跡が検出されており、継体天皇の擁立に携わったとされる三尾氏や彦主人王(ひこうしおう)の「三尾之別業(みおのなりどころ)」との関連が注目されている。

■■三重生神社(みおうじんじゃ)
安曇川町常盤木1239
継体天皇の両親である彦主人王(ひこうしおう)と振媛(ふりひめ)を祭神とする古社で式内社。彦主人王は漁猟を職としていたので釣竿を作って奉る神事がある。
振媛は、山崎社(山崎の郷に祀った三尾神社)の拝殿を産所とした。南に向かって坐り安産を祈られた時、360度北に当たる仮屋で彦主人王も北極星に向かって安産を祈られた。この北の仮屋跡に二柱を神とし、お祀りしたのが三重生神社である。三人目のお子が大迹部皇子(おおとべのみこ)、後の継体天皇である。

■宝塔
本殿の裏側に立つ。大きさは田中神社のものとよく似ていて、高さは2.1m。鎌倉時代後期のもの。
塔身に苔が付いていないのは、土中に埋没させて建てなおしたものとされる。

■縁起

■旧三尾神社の石標

■■安産もたれ石
安曇川町田中
三尾神社旧跡にある。振媛が継体天皇を出産するときにもたれた石とされる。今も安産祈願に妊婦さんが訪れる。

■■彦主人王陵墳墓参考地「王塚古墳」と田中古墳群
田中古墳群からは40数基以上の古墳が確認されている。その中でも最も大きい古墳が王塚古墳である。

五世紀中葉から六世紀後葉のこの地域の首長墓とされる。

王塚古墳

■■田中神社 
安曇川町田中
田中氏は、佐々木一族の高島氏分流である高島七頭の一家で、郷内の田中城を居城としていたとされる。
田中神社は、大字田中郷の氏子約300戸の総氏神で、小字馬場の北田中山の麓に鎮座する。

祭神には素戔嗚尊、奇稲田姫尊,八柱御子神を合祀し、五穀豊穣の守護神、俗に田植神または五月神として崇敬されている。

■拝殿

■本殿

■鎌倉時代の石造品が、5〜6基ある。本殿へ上がる右手の石造宝塔や、石段を上がった左側の手洗いに利用されている宝篋印塔の基礎に1294(永仁2年)の銘文がある。

■当社の例大祭は、田中祭ともいわれ、5月4日に盛大に行われ、朝競馬で有名である。

■田中城
田中城は高島平野背後の山地の先端部、通称泰山寺野台地にあり、標高221mの主郭を中心に遺構が見られる。高島平野の城の中では文献にその名が出てくる数少ない城の一つである。
佐々木高信が田中郷の地頭となり、その一族である高島・平井・朽木・永田・横山・田中・山崎の各家々が、鎌倉時代から戦国時代末にかけて割拠した。
これら七家を「高島七頭」と呼ぶが、彼ら以外にも有力な家々があり勢力を誇った。戦国時代末期になって、江北の浅井氏や越前の朝倉氏に従ったことから、元龜4年(1572)に織田信長の攻撃を受け滅んでしまう。
現在残されている遺構は、寺坊跡を再利用したものである。

■■玉泉寺
安曇川町田中3459
■安曇川駅から西へ2.5q程の三田集落のやや小高い所にある。天台宗真盛派。天平年間(729〜49)に行基が開いたとあるが信憑性は薄いようだ。
享禄年間(1528〜32)に火災にあい、仏像と一房社を残して焼失した。1533(天文2)年、田中城主の田中下野守理春(しもつけ みちはる)が(玉泉精舎)の荒廃を嘆いて再興した。本堂前の石造層塔は鎌倉時代の優品とされる。

■本寺境内の本堂前に、高島鵜川の四十八体石仏と同じ坐像形式の石仏5体が南面して並んでいる。これらの石仏は、五智如来と呼んでおり向かって左から阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・弥勒仏・釈迦如来という。石仏の像高は104〜105cmである、

■六観音と六地蔵
六観音は総高1.6m、厚さ40cmの花崗岩石材に、光背と像を彫りだしたもの。六観音の次に六地蔵が立ち並ぶが、その右端に棟から上部を欠落した石仏がある。これも六地蔵の一つであろう。
いずれも室町時代の作風である。六観音・六地蔵は六道(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)教化の菩薩である。六観音は平安時代から、鎌倉は六地蔵が深く信仰された。
これら石仏群の前方に、多くの苔蒸した石仏群が林立し、そこに天台密教思想の反映と、念仏を唱え極楽浄土を願った庶民信仰の厚さを感じる。

■三昧鳥居
玉泉寺の裏手には、今も旧田中郷各村の各宗が入交った広大な墓地がある。その入口に花崗岩の石鳥居(高さ3m)が立つ。これは聖地、結界(俗地との境)の標示として、弥陀の浄土に旅立つ入口として建てられたもの。他のお寺では、大阪四天王寺の西門にも鎌倉時代の石鳥居が立つ。

■■石地蔵
道路際に立つ石地蔵を納めた石室である。
西に阿弥陀山を望む玉泉寺の後方の山麓は中世以来葬地とされてきた。湖東からも船で渡って死者を運び、ここに埋葬したと伝える。庶民の切なる信仰と結びついた、阿弥陀如来の住む西方浄土への道標でもあったか。

■■石敢当
魔よけの意味も持つ道標。

■■鶴塚
巨大さを誇る石造宝塔

■■安閑神社
安曇川町田中
蔵王権現がご祭神であったが、神仏分離令で祭神が安閑天皇になり、社名も安閑神社にかわったともいわれる。

■■神代文字碑
安閑神社境内にある。謎を秘めた記号

■■胞衣塚(えなずか)
安曇川町三尾里 里出
三尾里集落の南、平地に築かれた円墳。継体天皇が出産された際の胞衣をここに埋めたという伝承が残こされている。(胞衣は胎盤である)
倒れて今は見えないが、古墳の上に一本の松が生えていて「ごんでんの松」と呼ばれ、塚のすぐ南を流れている川を「御殿川」、付近の小字名を「上御殿」といい、継体天皇にまつわる伝承が多く残る。

■■御殿川(ごんでんがわ)
胞衣塚のすぐ南側を流れるこの川は御殿川 と呼ばれている。 この近くには「上御殿」や「下御殿」の小字名があり、それが訛ってか「ごんでん」や「ごんで」とも呼ばれている。
また、南には「天皇橋」と呼ばれる橋もあり、この辺りには継体天皇に関連する 何か大きな屋敷があったのではないかと連想される。


■■上御殿川遺蹟
上御殿近くの青井川改修工事現場で遺跡の調査が行われており、2月と7月に調査成果の説明会が行われた。

古墳時代から平安時代にかけての興味深い遺物が出土している。腕輪型石製品の「石釧」や国内初の墨書人名土器といった遺物である。

調査は今後も続くようで成果が楽しみである。

■■天皇橋
鴨川にかかるこの橋。もとは「天王(てんおう)橋」と呼ばれていたが、鴨稲荷山古墳の発見後「天皇橋」と言われている。 また、すぐ北には「胞衣塚」が、そして南には「鴨稲荷山古墳」があり、こうしたものとの関連を考えると、この橋(現在の橋は新しいが)も継体天皇との関連があるのでは思える。

■■鴨稲荷山古墳
高島町鴨
JR近江高島駅の北約3km
三尾氏の首長を葬ったとされるが、彦主人王の御陵との見方もある。
安曇川と鴨川で形成された沖積平野に立地する全長約60mの前方後円墳で、周濠を有し二段築成とされる。古墳時代後期(6世紀前半)の築造。
埋葬施設は横穴式石室で、石棺内の被葬者の身の周りには金銅製の宝冠、飾履、魚佩、金製垂飾付耳飾等の豪華な副葬品が納められ、石室内は朱で塗られていた。これら副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることが分かり、この古墳の被葬者や場所と大陸との交流関係について、様々な興味と話題を呼んだ。
家型石棺に加工された石は、二上山「大阪府と奈良県の境に位置する)で産する白色凝灰岩であり、この巨大な石が高島の地まで搬入されたことから、鴨稲荷山古墳の被葬者は大和や河内の有力者とも関係があったとされる。

被葬者は継体擁立に功績のあった首長で、六世紀前半代にこの地域に登場し豪族、つまり三尾氏の族長の一人とされる。

■■高島歴史民俗資料館
鴨稲荷山古墳の南150mの所にあって、高島の歴史、民俗、考古資料を収蔵展示している。鴨稲荷山関係の出土品が多い。

今回は継体天皇ゆかりの地を中心に散策した。
安曇川は今後行われる遺跡調査から貴重な出土品が発見される期待が残されており楽しみな地域である。

≪参考≫

 

参考資料≪安曇川町史、滋賀県の地名、滋賀県・高島市発行資料、他≫



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