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滋賀県高島市 海津
Kaizu,Takashima city,Shiga

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Apr.14,2017 中山辰夫


開花の状況を気にしながら出かけたが、満開に近く満足した。早目に到着したので人も少なかった。

案内
           
今年も地元の人たちのたゆまぬ支えにより見事に咲いた。

県道557号線路上から見た景観−昼前になると車の往来が激しくなり歩けない。
                      

駐車の車も花盛り
  

湖辺の散策道と園地付近から見た景観
                        

桟橋から見る比良連峰
    

船上から見る景観−大崎寺近くの乗船場〜大浦漁港近辺の往復
                                            


April 11,2015 大野木康夫 movie

2015年4月は初旬に気温が急上昇して満開となった桜が、雨で早く散り模様となり、京都では第2週には遅咲きのものを除き時期を過ぎてしまいました。
11日は関西でも遅咲きの名所とされる海津大崎に行きました。
海津大崎は9日から満開で、道路が一方通行規制となっており、写真撮影目的の方は早朝にマキノ駅駐車場に車を置いて歩いて回られていました。
私は、早朝ではなく、日が昇り切ってから行こうと思い、マキノ駅に9時前に到着しましたが、目当てのシャトルバスが9時30分からしかなかったので、レンタサイクルを借りて桜並木の入り口まで行き、歩いて大崎寺手前まで往復しました。
マキノ駅から桜並木までは約2q、大崎寺までは4qです。
行ってみると、満開三日目、強風が吹くコンディションで、花びらが風に舞って風情がありました。
行った時間は人も少なかったのですが、引き返すころ(10時前)には団体客も含め人手が多くなっていました。

                                                                                                                                                                                                                                        





Apr.11,2014 中山辰夫

                    



Apr.2012 中山辰夫

海津の町並とさくら

“海”と港や船つき場を表わす“津”の二文字からなるこの町は、海ではなく琵琶湖の“湖”のほとり
にある。古代から京と北陸を結ぶ湖上交通の要衝として琵琶湖とともに繁栄してきた。
 

湖西線マキノ駅で下車 琵琶湖に向けて進む。正面は高木浜、最近はマキノサニービーチと呼ばれる。
広大な砂浜が続く。
    

遠景
竹生島が見える。伊吹山も日によって見える。水鳥はヒドリガモか。
    

かつては近江塩津、近江今津と共に船運で栄えた町。海津集落を貫いている旧道を進む。
道の両側に民家が並ぶ。まもなく、湖岸側に石積跡が現れ景観地区の旗が立ち、石積の最終点とある。
     

湖岸に咲くさくらが見え隠れすると、本格的な石積が現れる。これが有名な海津浜の石積である。
    

元禄14年(1701)に高島郡甲府領の代官として赴任した西与市佐衛門が、風波の度に宅地への被害
が甚だしいのを哀れんで、海津東浜の代官金丸又衛門と協議し、幕府の許可を得て元禄16年に湖岸
浪除石垣を東浜668m(367間)、西浜495m(272間)にわたって築いた。
    

巨石を用いた本格的な石垣である。
この石垣のお陰で水害が無くなり、村人達はその業績を称えるため建てた碑が西浜蓮光寺に残って
いる。毎年3月15日には代官西与市左衛門の法会が現在も営まれている。
     

旧海津港跡 
海津東浜は江戸時代は北陸と大津を結ぶ重要な港場であり、宿場として大いに栄えた。明治3年
(1867)郡山藩の許可を受けた磯野源兵衛と井花伊兵衛らが共同で蒸気を購入し、大津〜海津間の
航路を開いた。これが太湖汽船琵琶湖汽船の母体となった。その当時の桟橋は杭のみ残っている。
    

道路の左側に蓮光寺、右に海津迎賓館(旧井花邸)とされる館を過ぎる。桜並木にも近い。
    

古い建屋を町中で見かけることが少ない。数少ない一例である。
  

水辺景観(第二区)の周辺である。
    

清酒・竹生島(吉田酒店)
民家が建ち並ぶ中に一際目立つ。琵琶湖の眼前に浮かぶ竹生島の名をとった地酒で、創業は明治。
    

道路は、湖北の山に突き当たり、丁字路を左折すると清水の桜を経て敦賀方面へ、右折すると
海津大崎から大浦、近江塩津方面へと通じている。清水の桜を目指す。
    

清水のさくら
海津の町はずれの墓地の中に一本大きくそびえ、樹齢300年以上といわれる巨桜「清水の桜」は
エドヒガンザクラで、高さ16m、幹の周囲6.4m、滋賀県自然記念物に指定の県下最大級の桜。
      

この桜がこの地に根付いた頃、桜の前には北国北陸からの物資を京や大坂に運ぶ「七里半越え」
とよばれる山越えの厳しい道が通っていた。
この桜は水上勉の小説「櫻守」で題材とされたことや、その昔、加賀藩主前田候が上洛の折に
その美しさに見とれ何度も振り返り眺めたことから「見返りの桜」といわれる。
山の裾野をJR湖西線が走っており、桜と列車の撮影に、カメラマンが多数列をなしていた。
   

再びもとの道に戻る。湖岸に沿って咲く桜並木が始まっている。菜の花ともマッチングしている。


この桜並木は、昭和11年(1936)6月に大崎トンネルが完成した記念に海津村が植樹したもの。

延長4kmにわたり6千本の桜が咲き誇る。「日本のさくら名所100選」として春の風物詩である。

この桜並木は、海津村の植樹に先立つこと5年前に、当時線路の修路作業員だった宗戸清七さん
が自費で桜の苗を植樹したことに端を発している。
                                         

≪資料≫

海津の歴史
≪ あちら山 行きげの空に なりぬれば かいつの里に みぞれふりつつ ≫
平安時代の終わり頃、藤原仲実が詠んだ和歌。仲実は越前の国司を勤めたので、京と越前を往き来する
道すがら詠んだとおもわれる。

「あちら」の名は、万葉集をはじめ多くの歌集に出てくる名で、このあたりが古代より京と越前を結ぶ
要路であったことを物語っている。

そして≪いかばかり 降りつみぬらん≫と雪の厳しさと≪足も血しおにそむるばかりぞ(親鸞)≫と歌
の多くがけわしい山道を詠んでいる。

古代三関の一つ愛発関(あらちのせき)もこの道すじにあり、この道の重要性を思わせる文献が残る。
中世以降は、義経記、平家物語、源平盛衰記などで海津の名が出、義経、木曽義仲などにからんだ伝承
が、この近辺に数多く残っている。
浅井三代記などには、浅井亮政長政・海津政元など部将の名も登場する。海津の古寺には豊臣秀吉の
書簡とされる古文書も残る。小説「湖笛」には秀吉が海津を訪れ、武田元明の謀殺にかかわったと記さ
れ歴史の舞台ともなっている。

海津から敦賀までの山越えの道を、七里半超と呼び、西近江路北国海道の難所とされた。
 

この道は古代より重要な道であったが、湖上を往来する舟便の発達で、海津が港町として脚光を浴び栄
えるようになったのは、平安時代中頃からである。
初めは軍事上、交通上重要視された海津も舟便などの発達で交易等経済上の重みが増し、港町・宿場町
として徐々に繁栄の道をたどった。
江戸時代に入ると幕府は海津の軍事・交通・経済上などの重要性から幕府直轄地=天領としておさえた。
世情が安定し泰平の世が続くと人々の往来や荷駄の出入も多くなり、湖上舟便も大型化して海津は益々
活気づいた。舟便が増えると乗船待ちや通行客の休憩、宿泊旅籠や店、貨物倉庫などが充実、花街まで
も出現した。

多くの船問屋は、船の建造や廻船、倉庫の整備、貸客の采配、七里半越陸路輸送のための人足や車馬の
用意などで活況を呈した。中には敦賀に出店をもち、更に北前船で遠く北国各地まで交易の場を拡大し
全国に足を伸ばす発展振りだった。

上り荷は、大量の加賀米や大豆、身欠きニシン、棒ダラ、数の子、昆布などの海産品、高岡の鉄びんや
銅器、輪島の漆器、富山の薬等が主であった。一方、地方へ向かう下り荷は、京阪・名古屋の呉服類や
美濃尾張近江の陶磁器、三河の綿等であった。

湖上での貸客輸送には、主に丸子船が使われ、海津を母港とする丸子船は大きさも百石積み前後の大き
さが主力で、50〜100隻、舟子も約300人が常にあって、塩津、今津も含め、大津、長浜と共に琵琶湖
舟便の主軸となっていた。海津にとってはこの頃が最盛期であった。

江戸時代も後半になると、日本海西廻り航路が発達し、海津の港も衰微しはじめていった。
江戸時代の名残りは、「ゆな町」の地名や、社寺寄進帳等に残る遊女の名、うだつのある町並、蔵屋敷
を思わせる石垣等に、今も残っており、当時の繁栄を偲ばせる。
昭和49年(1974)地元民宿願の湖西線が開通。その恵まれた自然環境と文化遺産が注目され、高島市
海津・西浜・知内の水辺環境が、国の重要文化的景観に選定された。

参考資料≪マキノ町史、他≫







Apr.2010 撮影/文 中山辰夫

海津大崎

高島市マキノ海津町

マキノ駅から東方へ湖岸に沿って約4km、東山の山麓の湖岸道路(国道303号)の右手に千本桜の並木が続く。
青く澄みきった湖に面し、義経隠れ岩、天狗岩などの奇岩がある。

海津大崎の桜並木は、昭和11年(1936)“大崎トンネル”の開通を記念してマキノ町も前身である海津村が植樹したものである。
満々と水をたたえる琵琶湖の青と東山連峰の緑の間を可憐なピンクの花びらが帯状に伸びる景観は、奥琵琶湖に春の訪れを告げる絶好の風物詩でもある。

この桜並木の誕生は、海津村による植樹に先立つこと5年前、当時滋賀県高島郡地方事務所に道路補修をする修路作業員として勤めていた宗戸清七(当時37歳百瀬村(現マキノ町)在住・故人)が作業の合間に自費で購入した若木を植えたことに端を発します。宗戸さんは当時未舗装の県道の改良や補修を日常業務とし、助手2人とリヤカーに土砂を積んで毎日巡回し、くぼみの土砂を埋め、盛り上がっている場所を削って平らにするという作業にたずさわっていた。
そんな重労働の疲れを癒してくれたのが、道から見える澄み切った琵琶湖と沖に浮ぶ竹生島だった。

愛着のある道に何かを残したいと思った彼は、桜並木があれば景色が華やかになると考え、自力で桜を植え始めた。
3年後に若木が花をつけ始めると、村の青年団も協力をし始めた。
彼の指示で団員がリヤカーに水や土を運び、若木がしっかりと根付くよう丹精込めて植樹された。
こうして、宗戸さんと村の若者達のが植えた桜がしっかりと根を下ろしたことが、現在の桜並木をつくるきっかけとなった。

平成2年(1990)財団法人日本さくらの会から「日本のさくら名所百選」に選ばれた。
地元の人たちが豪雪やがけ崩れによる被害の際に植樹を続け維持されてきた。
樹齢70年、かつてのような勢いはなくなったが、今後も地元の人たちの努力で守り続けられるよう願いたい。

琵琶湖一周にチャレンジするウオーカーの長い列に出会った。
満開の桜のトンネルに誰もが満足しきっていた。
今回はバス車中と船上での鑑賞であるが来年は歩いて散策して愛でたいと思った。

バス窓よりの撮影
                    

船上よりの撮影
                 

船内風景
           





琵琶湖 海津大崎

May 2007 撮影:瀧山幸伸 Preview video 500Kbps HD video Video FAQ

       



May. 2006 瀧山幸伸 Preview video 500Kbps HD video Video FAQ


濃い八重桜と青い湖、周囲の緑と白いダイコンの花。桜の先に竹生島を遠望する。
集落の街並も古風で、なつかしい光景が展開する。


                            
     


海津
     

マキノビーチ
            


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