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エドヒガンザクラ |
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April 5,2015 大野木康夫 source movie
酒波寺に行基桜を見に行きました。
あいにく土砂降りでしたが、満開の桜は見事でした。
山門付近
参道の桜
参道の石段の中ほどに見えるエドヒガンの巨木が行基桜です。
樹齢はおよそ340年といわれています。
根方から
中門から
鐘楼から
帰路
Oct.2011 中山辰夫
高島市今津727
真言宗
本尊:千手観音
JR今津駅から約4.5km。酒波集落西方の山麓に建つ。高島七ケ寺の一つ。箱館山にも近い。
キチンと整備された真直ぐな参道が目に映える。参道筋にはソメイヨシノが並ぶ。周りの庭園も手入れが行き届いている。
この地域の冬は雪が多い。積雪の参道(1月)
参道左側、山門前の樹齢数百年のエドヒガン桜が見事である。樹勢が年々弱る傾向にあって心配である。
信長の軍勢に焼かれた時の影響とされる半分が焼けた幹が痛々しい。(開花−引用)
境内地5,000㎡で、山腹を利用し、深い木立に囲まれた本堂・庫裏・護摩堂・鐘楼など、古寺にふさわしいたたずまいを残している。
鎮守参道 百数段の石段道と愛宕社 途中左側に1584年建造の「山王大権現」が祀られている。
由緒
天平13年(741)、行基により開かれたと伝わる。
奈良時代に創建され、藤原氏の氏寺興福寺に属し、56坊、1500人の僧を抱える大寺だった。寺領は白鬚神社の手前まであった。
平安初期には、比叡山の義真が本堂を建立し、天台・真言兼学の道場となったが、一時衰微し、平安末期の1101年に再建された。
室町後期の弘治2年(1556)に、浅井長政が堂塔の荒廃を嘆き、修復を行い寺領1800石を寄進した。
元亀3年(1572)、津田信澄により焼失し寺領を没収された。天正年間に再興が図られたが成功せず。
再興が叶ったのは寛文2年(1662)に伊香郡の菅山寺より覚仁上人を招いた後である。当時の様子を描いた古絵図が残されている。
延宝7年(1679)に京都智積院末寺と成り、真言宗に改められた。
青蓮山院内絵図 桃山時代
酒波寺に伝来するこの絵図は、織田信澄の兵火によって元亀3年(1572)焼失した酒波寺境内の寺坊を描いたもので、往時の景観を
示す貴重な資料である。
楮紙(こうぞ)6枚を継いで料紙とし、山・道・寺坊などを墨線で描き寺名・本尊を記入している。
元裏書には、天正15年2月5日に筆者三田善介らが後世のために書留め、本図を劒社に納置したことを注記している。
大般若経 600帖の内 平安時代
褐麻紙に淡墨を施し書写した大般若経である。その書風は奈良後期の姿を残した正楷で書写されている。
本経収めた唐櫃内底の墨書名によれば、永禄12年(1569)には近くの酒波社に伝来していたことがわかる。
近江には平安・鎌倉期の大般若経が比較的多く伝来しており、中世の村落生活との深いかかわりあいを示す。
600巻500万字に及ぶ。100巻ずつの経櫃に収められている。
奈良時代は600人の僧に一巻ずつ読ませたとか。
今も8月9日、昔の川上庄内の安全と発展を祈る護摩祈祷の折に転読されている。
転読とは、全巻を読まずに各巻の経題と数行を読んでそれで読んだことにする。
山本周五郎の≪やぶからし≫ 昭和19年に発表された作品ですが、その中の短編≪鉢の木≫に酒波寺が登場します。
ルートは判りませんが山本周五郎氏も、湖上の蒸気船にのって今津に到着し、その場所「酒波寺」に足を運んだ
のかも知れません。
壱式四郎兵衛は鳥居元忠の家来だったが、三年前彦石衛門元忠の意にかなわぬ事があって勘当されたが、折を見て
必ず帰参のかなうように計ろう・・望みを棄てずに辛抱せよの旧友の言葉をたよりに、妹の萩尾を連れて退国し
遠いしるべのつてでここ酒波の地に身を隠した・・・。
酒波は近江のくに高島にあり、琵琶湖の今津という舟着き場から二里ほどの在に当る。・・・・
僅か20数ページの一編ですが、やはり知った地名の入った物語には近しい思いをいだく。
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