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滋賀県豊郷町 千樹寺

Senjuji,Toyosato,Shiga

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Sep. 2010 撮影: 中山辰夫

豊郷町下枝

臨済宗

千樹寺は一般に観音堂と呼ばれている。

この寺も唯念寺と同じく行基が創建したもので四十九院の一つである。

織田信長の兵火に遭いこの寺も焼失した。しかし、本能寺の変で信長亡きすぐ後、近江商人となった藤野喜兵衛の先祖、太郎右エ門が寄付して再建したもの。

この落慶法要で時の住職が境内に人形を沢山並べお経に音頭の節をつけて唱え、しかも手ふり、足ふり拍子をそろえて踊り出した。

見物人も面白くなって踊り出し、ついに夜のふけるのも知らずに踊りあかしたといわれる。

今の「江洲音頭」の始まりだった。

その後、また寺は大火にあって焼失した。この時も喜兵衛の二代目藤野四郎兵衛が寄金して再建した。

そして、この時の落慶法要は一段と華麗さを増した踊りが編み出されました。

それは、八日市の唄づくりの名人を招き、お経の文に一般向きの分かり易い音頭をつくって歌わせた。

さらに絵日傘音頭、扇踊りとして現在に伝わっています。

特長のある江州温度がこの地に生まれたのは、ユニークな和尚さんと信仰厚い郷土人と近江商人の深い郷土愛があったからといえる。

江洲音頭

Goshuondo

街道左手に「江洲音頭発祥の地」と書かれた石碑が建つ所が千樹寺である。

この寺は俗に観音堂といわれていたが、信長の兵火で焼失したのを藤野太郎右衛門が再建し、天正14年(1586)の落慶法要の際にこの寺の住職根興上人(こんぶ)が経文に節をつけて唄い、地元民を手振り足ぶりで躍らせたところに群集も参加して踊ったのが江洲音頭の始まりといわれ、それ以来旧暦の7月17日にこの行事が続けられた。

この観音堂は、後年またも火災に遭遇したが、藤野四郎兵衛によって現在地に再建され、弘化3年(1846)に遷仏供養が行なわれた時に、八日市の祭文作りの名人「歌寅」を招いて一般民衆向きの音頭を作らせ節をつけて踊ったものが、次第に広まり現在のような江洲音頭へ普及していったとされる。

滋賀県は他の県に比べ民謡の少ないところであるが、江洲音頭は全県的に広まった。

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