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滋賀県豊郷町

Toyosato,Shiga

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May 2013 瀧山幸伸

近江商人の光と影

今回のテーマの鍵は日本橋薩摩商店の三代目、バロン薩摩。初代は伊藤忠ほか近江商人を多く輩出した豊郷町の出身だ。豪商として隆盛を極めたが二代目で廃業し、三代目は放蕩の人生を歩んだ。 近江商人の街並と言えば近江八幡がテレビや映画で馴染み深く、五個荘金堂の街並も楽しめる。そ れぞれの商人にドラマがあるが、街並探検家としては近江商人の本質を探りたい。薩摩商店の没落 と伊藤忠・丸紅などの繁栄を分けたものは何だったのか。

■ 薩摩商店

「売り家と唐様に書く三代目」初代は苦労して財産を残し、二代目はそのおかげで暮らしたもの の、三代目になると没落して家を売りに出すようになるが、売り家札はしゃれた唐様で書いてある、 という放蕩の三代目を皮肉った川柳だ。

日本橋薩摩商店の初代、薩摩治兵衛は一代で巨大な綿織物問屋を築いた人物である。1831 年豊郷 町四十九院字南町に農民茂兵衛の子として生まれるが、8 歳で父を亡くし全財産を失って村外れで 母と窮乏生活を送る。その後日本橋堀留の丁吟(丁子屋小林吟右衛門:現チョーギン)江戸店に奉 公した。丁吟は豊郷の南の小田苅で商いを始め、日本橋に店を出した近江商人であり、就職に人脈 があったのだろう。治兵衛は出世し 32 歳にして丁吟の幹部となっていた。1868 年丁吟から暖簾分 けし日本橋富沢町に「丸丁子屋」薩摩治兵衛商店として独立する。幕末の動乱期で商人の多くが静 観していた中、官軍側に付いたため事業が急拡大する。軍事物資としても重要な綿織物を輸入し莫 大な利益を得ることとなる。その後も戦争の都度大きく発展し、日本橋田所町に本店を新築する。 田所町は井筒屋小野組の本拠地だったが、三井組と並ぶほどの豪商小野組は 1874 年に乱脈経営で崩 壊し、小野組の土地の多くを治兵衛が取得している。小野組のルーツも近江商人だが湖北の高島商 人だ。治兵衛は子に恵まれなかったが 50 歳にして長男を授かった。1899 年の東京織物問屋売上高 ランキングで一位となる頃には駿河台に 1400 坪余りの土地を購入し大邸宅を構える。二代目が18歳の時に家業を譲り、その10 年後に他界した。 二代目は遅い子で甘やかされたのだろう。商売には無関心で、初代亡き後は事業を番頭に任せ趣味の蘭栽培などに没頭した。

三代目は 1901 年に生まれる。家業には関与せず 1920 年渡英後パリに移住する。潤沢な財産と生 活費を背景にパリ社交界で活躍し日本人芸術家を支援したが、とりわけ藤田嗣治や藤原義江などと 懇意だった。1926 年山田英夫伯爵の長女で会津藩主松平容保の孫となる千代と結婚する。放蕩息子 の例に倣い夫婦仲はあまり良くなかったようだ。1927 年資金難に陥っていたパリ日本館建設の援助 を行い親子揃ってレジオンドヌール勲章を受賞する。これを機に「バロン薩摩」と呼ばれた。だが 1929 年の世界恐慌で薩摩商店も大打撃を受け、急坂を転げ落ちるように事業が破たんし、1935 年には閉店する。千代は結核療養のため帰国し長野県富士見高原のサナトリウムに入院するが 1949 年他界する。治郎八は戦中戦後もパリで生活を続け 1951 年帰国する。箱根の別荘で両親と暮らすが財産 はほとんど無くなっていた。帰国後は一貫して文化と酒関連の執筆活動を行い、シャンソン歌手の 三輪明宏、越路吹雪らと交流を持った。1956 年浅草の踊り子真鍋利子と再婚し、晩年は利子の郷里 徳島に転居し 1976 年他界する。初代と二代は東京杉並の真盛寺に、三代目は徳島の敬台寺に眠る。 初代出身地の豊郷では誰に聞いても薩摩家の縁者を知らないと答える。豊郷には何が残っているのだろうか。

■ 豊郷商人の記憶 豊郷町は彦根の南に位置する県内一小さな町で、百済系の阿直岐(あじき)氏ゆかりの渡来人の里である。東に高麗系の甲良町、南が依智(えち)秦氏の本拠地の秦荘町、北西には新羅系の三津 屋等に接している。これらの氏族はそれぞれの技術で農耕、機織、山林開拓につとめており、阿直 岐氏も池水を利用して荒地を開拓したと言われている。中世には東山道(中山道)に沿う四十九院 村と枝村に市座と関所ができ商業が活発化する。枝村商人は紙座の特権を持ち、美濃和紙を京都へ 運ぶことで利益を上げた。鈴鹿八風峠を越えて伊勢や尾張へも行商したが、峠の通行権などを巡っ て近隣の商人としばしば争論を起こした。交通の要衝であるため南北朝以降戦乱に巻き込まれるこ とが多く、文和年間(1352-56)には二代将軍足利義詮が後光厳天皇を奉じて四十九院に下向してい る。江戸時代には全域が彦根藩に属したが商業活動は引き続き活発に行われ多くの商人が生まれた。

阿自岐神社

豊郷町安食。阿直岐氏の邸宅跡と伝えられている。古事記には 284 年に百済の照古王の命で阿直 岐(百済国の博学者)が駿馬を連れて来朝したと記し、日本書紀には阿直岐氏が渡来して応神天皇 の皇子菟道稚郎子らに学問を教えたと記されている。その功績によって当地域を拝領し周囲を開い たのが豊郷の始まりだ。祀られているのは阿自岐氏の先祖神で延喜式神名帳に登場する由緒ある神 社である。阿自岐氏は高貴な渡来人で、日本に漢字を伝えた王仁氏を招き庭園を造らせたとされ、 老杉生い茂る広大な境内のほぼ全域が池泉回遊式庭園で、滋賀県の名勝に指定されている。造園が 発達していない時代、庭園は豪族の贅沢な憩いの場であったのだろう。荒れてはいるがその面影を 感じ取ることができる。

先人を偲ぶ舘と旧豊郷尋常高等小学校本館

豊郷町四十九院。先人を偲ぶ舘は薩摩氏が寄付したパリ日本館をモチーフにデザインされた。豊郷に生まれた傑人、薩摩治兵衛、伊藤忠兵衛(伊藤忠・丸紅)、古川鉄治郎(丸紅)、伊藤長兵衛(丸 紅)、藤野喜兵衛らの遺品や業績が展示されているが、薩摩治兵衛の遺品がほとんどを占めている。 敷地外れには薩摩翁頌徳碑があるが目立たない。地元の人からも忘れ去られたような印象だ。 旧豊郷尋常高等小学校本館は 1887 年至熟小学校講堂として建設された。薩摩治兵衛は 500 円寄付し ている。1937 年の改修はヴォーリズ建築事務所による。

伊藤忠兵衛記念館

豊郷町八目。伊藤忠・丸紅という大商社の基盤を築いた初代伊藤忠兵衛は近江商人としては最も後発組だ。忠兵衛は 1842 年繊維品の小売業を営む「紅長」の家に生まれた。1858 年元服し近江麻 布の行商を始めた。開国後の長崎で外国貿易の盛んな状況を見て刺激を受け、「商圏は国内だけで ない」「凡そ商業者の貴む所機敏にあり」と商社活動の本質を肌で感じ取った。後に豊郷村の村長 にもなり郷土での人望も高かった。二代目も積極的に近代経営の導入を行い事業を推進した。記念 館は「開国後のわが国は貿易の拡大によって開かねばならない」との信念を貫いた忠兵衛の本家を 公開したものであり、所蔵品が多数展示されている。

豊会館

豊郷町下枝。藤野家は美濃紙を扱う枝村商人の末葉だった。初代藤野喜兵衛は 1800 年 20 歳で蝦夷地に渡り、屋号を柏屋、商標を又十として松前で独立開業した。1805 年までの 6 年間に大小 7 隻 の船主になり翌年には東西蝦夷地数か所の漁場を請け負った。1816 年国後に進出し、鮭・鱒・鰊を 北前船で輸送して巨利を得た。続いて宗谷、紋別、斜里などに漁場を開き、間宮林蔵、高田屋嘉兵 衛らと親交を結び漁業と廻船業に全力を注ぎ、一代で蝦夷地一番の豪商になった。藤野家は函館や 松前から人を移住させて市街地や道路を数多く開発した。彼の業績は代々受け継がれ鮭鱒缶詰工場 へと発展し、後の「あけぼの印の缶詰」となった。網走市史に「旧幕時代からオホーツク沿岸の主 要部落に鎮座していた神社はすべて藤野家が私祭するものだった」の記述があり、藤野家が地域の 中心であったことがわかる。豊会館の建物は、天保飢饉に見舞われていた 1836 年に二代目四郎兵衛 が窮民救済策として建築したもので、又十屋敷とも呼ばれ、主屋、書院、文庫蔵、庭園が残されて いる。彦根藩主井伊直弼から拝領した多くの武具や調度品も展示されているが、松前屏風や北前船 長者丸の模型に、壮大な夢を描いて北海道で雄飛した喜兵衛の業績を見る事ができる。

豊郷小学校旧校舎群

旧中山道に面し敷地は一万二千坪に及ぶ。ヴォーリズの設計により 1937 年竣工した。白亜の教育 殿堂、東洋一の小学校といわれ、白鷺が羽を広げたような洋風建築の校舎、「兎と亀」の階段飾り、 時代を先取りした鉄筋コンクリート構造、暖房、水洗便所等々で著名な建物である。丸紅創始者伊 藤忠兵衛の右腕として活躍した専務の古川鉄治郎が私財を寄贈して建設された。古川は当校の旧校 舎で学び 1887 年に卒業しているが、大阪や神戸の大学を見て回り、これらに劣らない設備の整った 学校の建築を所望したといわれる。「一文の支出をも惜しみ始末に徹しながら、一方では公共のた めに千金をなげうっても悔いない」これが近江商人の誇りだった。 老朽化に伴い存続が危ぶまれていたが 2009 年改修工事が施された。現在は校舎としては使用されて いないが内部も健在である。

 

■ 近江商人

近江商人とは「近江国に本宅を置いて他国稼ぎをした商人」である。往路では近江の特産物や上 方の呉服・太物・小間物・荒物類を他国に運び(持ち下り)、復路では各地の特産物を仕入れて近 江国や上方に運び(登せ荷)、往復で商いをすることから「のこぎり商人」と称された。

中世になると、生産技術の向上や貨幣の流通、人的交流の拡大によって商業が発達し、中央と地 方を結ぶ取引も拡大する。12 世紀に入り近江では延暦寺や佐々木氏の保護下で定期市が行われた。 呉服座、塩座などの同業者の組合に加わった座商人が座税を納め、物々交換の商売を営んだ。近江 には東山道、東海道、北国街道など多くの街道が通っており、人と物資が往来する街道沿いに市場 が成立した。中でも東山道沿いには近江の親市と呼ばれる長野市をはじめ数多くの市場が設けられ た。17 世紀には日野商人や八幡商人が活動を始め、少し遅れて高島商人が続き、18 世紀になると五 個荘商人が多く輩出し、19 世紀に入ると豊郷商人の動きが顕著となった。

近江商人には多くの類型と呼称があるが、大きくまとめると、八幡商人、五個荘商人、日野商人である。

八幡商人は近江八幡を基盤とする。1585 年豊臣秀次が八幡山の南側に開いた碁盤状の城下町だ。 秀次は楽市楽座を開くとともに、八幡堀、背割(下水道)、共同井戸等を整備し、尾張清洲に転封す るまでに経済発展の基盤を確立した。このとき小幡商人や安土商人が移住したのが八幡商人のはじ まりである。八幡商人は鎖国まではベトナムやタイなど海外へも進出していた。その後天領となり、 天秤棒を担いで全国津々浦々を行商した。「辺鄙なところは競合が少ないから商機あり」という論 理で全国展開するが、草創期の江戸にも積極進出し、日本橋に店を構えた者は「八幡の大店」と称 される。特に西川甚五郎、西川庄六、森五郎兵衛は御三家と呼ばれ、主に畳表、蚊帳、数珠、麻布、 灯心、扇子などを扱って隆盛を極めた。北海道交易にも積極的で、両浜組を組織し松前藩と共に蝦 夷地で事業を展開した。1905 年に滋賀県立商業学校の教師として来日したヴォーリズはこの町を愛 し多くの作品を残した。彼の建築は古い街並にも溶け込んでおり、この町の魅力の重要な要素とな っている。浚渫により甦った八幡堀や碁盤状の街並は現在も往時の面影を残しており、国の重要伝 統的建造物群保存地区に指定されている。物語と人物に無縁の街は人の心に生き続けられない。ロ ケ地としても魅力に富み、常に新しい物語が生みだされているこの街から多くのまちおこしのヒン トが得られる。

五個荘商人は東近江市の五個荘町を基盤とする。琵琶湖の東側、愛知川の左岸に位置する交通の 要所である。農閑期に麻布を織り、その行商から始まった。幕末から明治にかけて天秤棒を担いで 全国津々浦々まで行商に歩いていたが、明治以降に活動が活発化した。麻布などの繊維製品を中心 に手懸け、海外への進出など進取の気性に富み、昭和にかけて多くの豪商が生まれた。五個荘金堂 も国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。商人の本宅と白壁土蔵が並び、道路沿いの 水路、寺社や農家と水田が融和した街並景観が美しい。

日野商人は日野町を基盤とし、日野漆器と売薬に特徴があった。「大当番仲間」を形成し大都市を避けて地方に小規模店を数多く出店し、その周囲を商圏とした。

■ 近江商人道 近江商人の本質は行商にある。「近江の千両天秤」の諺には、天秤一本で行商をして千両の財を成した商魂と、千両を稼いでも初心を忘れず商売に励むという教訓が込められている。全国を舞台 にした近江商人は行商することで商品の需給状況や価格などの情報を入手し活用した。販路を確立 し、資本を蓄え、各地に出店や枝店と呼ばれる支店を積極的に開設し、最終的には江戸日本橋、大 坂本町、京都室町に進出して豪商になったが、成功の見返りとして社会還元に熱心だった。 なぜ少ない元手で富が得られたのか、数百年続く事業を継続できたのか。五個荘の近江商人博物館 では、近江商人を育んだ土壌から、彼らの商法、教育、精神までの全貌を紹介している。中でも近 江商人の家訓には現代の閉塞感を打破するヒントがある。近江商人の経営活動を支えていたのは勤 勉・倹約・正直・堅実・自立の精神で、先祖を大切に、敬神の念を常に忘れず、成功しても「奢者 必不久」「自彊不息」の心で公益事業に貢献した。「買い手よし、売り手よし、世間よし」の「三 方よし」の理念の他にも「目先の利益に迷わず遠き行く末を見る」ことを説き、「売って悔やむよ うならば先々に利益有るなり」と説く。「お客様に得をしてもらってはじめてお得意様になる」と 説く。寺子屋に通う人数が多く、算術普及率も全国平均をはるかに超えていた。優秀でなければ長 男でも家を継がせない。家長であっても不適切な行ないが有った場合は分家の合議で隠居させるな ど厳しいルールも働かせていた。

近江出身ではないが、石田梅岩の心学は近江商人の経営哲学と相通ずるところがある。「商業の 本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」というもので、倹約 の奨励や富の蓄積を天命の実現と見る考え方はカルヴァンの日本版とも言え、日本の近代産業発展 の原動力ともなった。「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の 商人は、先も立、我も立つことを思うなり」という梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」の思想 と並んで今日の企業倫理活動、CSR の原点とも言え、丁稚から身を起こした松下幸之助も梅岩の影 響を受け PHP 研究所などを設立し倫理教育に参画した。

豊郷は街並景観としては特異なものではないが、近江商人の光と影に学ぶ点は多い。


Sep. 2010 撮影: 中山辰夫

 

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