Japan Geographic

看板考 柚原君子


 

「押し売り物もらい一切お断わり」 

所在地:埼玉県浦和市

「押し売り物もらい一切お断わり」というブリキ板が、表札の横に掲げてあった。

「断りに応じない場合は110番へ」という浦和警察署浦和市防犯協会からの但し書きが添えてある。

かなり古いブリキの様子なので昭和半ば頃の表示かもしれない。

昭和半ば、ルン〇〇という言葉がまだ存在していた頃、私たち家族は下町で大衆食堂を営んでいた。

当時、電気釜の普及はなくてガス台でご飯を炊いていた。祖母がご飯を炊く係でガス加減をずっと見張ってはいるのだが、一釜ごとに多少のお焦げが出るのはやむをえなかった。

祖母はそれに紅ショウガを散らしておむすびにしていた。

髪の毛はもはやお団子状態のかたまり。それが10本ばかりに分かれて頭から垂れ下がっている。

ひげは伸び放題で頭と同じように小さなお団子垂れ下がり化している。

レインコートを着ているが、裾の方はハタキの様に破れて、これまた垂れ下がっている。

顔と手は赤茶色で、もちろん垢のかたまりの末の色だ。

ズボンはてかてかと光り靴は右と左は違う種類であったような気がする。

調理場の脇の細い出口に、午後になるとその人は現れた。

深々とおじぎをする。祖母が紅ショウガ色に染まった赤いお焦げおむすびを二つ三つ与える。

その人は再びおじぎをする。静かに流れたほんの少しの時間。

その様子を調理場の奥から垣間見た小学生だった私は、教科書に載っていない何かを勉強したような気がする。

物乞いをして生きている人は見かけなくなり、路上に座って金銭のお恵みを待つ人もほとんど姿を消し、ホームレスという路上生活者が自力で糧を得ている今となった。

看板の文言にある押し売りは、唐草模様の風呂敷を背負って、包丁を畳にさして「買え!」というタイプは漫画の世界のみとなった。

が、スーツを着て猫なで声での押し売りはちまたに時々いる。

25万円の百科事典を危うく買いそうになったことがある。押しかけイケメン居座り営業マン。

なかなかいい男ぶりであった。その話をいつか機会があったら書いてみたい。

 


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