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絹の遺産を学ぶ旅
Silk and culture



瀧山幸伸

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■■■■■■■■蚕の種類 

現在、絹の生産に利用するのは、ほとんど全て家蚕(かさん)と呼ばれるカイコガ科の一代雑種である。
そのほかに、野生種の蚕、いわゆるヤママユなどがあるが、以下全て家蚕が作り出す繭と生糸と絹製品について述べる。

蚕の姿 福井県勝山市 勝山ゆめおーれでの展示

  




■■■■■■■■絹の起源 中国での始まり
 
絹の生産は紀元前6000年から紀元前3000年頃に始まったと言われている。紀元前3300-2300年の浙江省の遺跡から絹織物片が出土したことがこれを示しているが、最も古い絹の探索は現在も進行中である。
文献では、四書五経の一つで中国最古の歴史書の『尚書(しょうしょ)』や、中国最古の詩編の『詩経(しきょう)』、中国最古の辞書の『爾雅(じが)』などに見え、錦(きん)、織(しょく)、帛(はく)、繍(しゅう)などの文字が絹製品として登場する。
ことわざ「故郷に錦を飾る」に登場する錦は輝きを表わす「金」と布を表わす「帛」から成り、一般には五彩の布を意味する。河南の襄邑(じょうゆう)などが産地として有名だった。
前漢の時代(紀元前206年 - 8年)には蚕室での温育法や蚕種の保管方法が確立していたようだが、『斉民要術(せいみんようじゅつ)』(532年から549年頃)に初めて養蚕の技術手法が記載される。これは世界農学史上最も古い農業専門書であり、中国に現存する最古で最も完全な農書である。



■■■■■■■■古代西洋での流行と養蚕の現地化

中国は蚕種や養蚕の技術を国外に持ち出すことを禁じていたため、絹製品が陸と海の「シルクロード」で中東、西洋に輸出された。紀元前1000年頃のエジプト遺跡に絹片が残っていたので、貿易はそれ以前から行われていたと推測されている。
古代ローマでは絹がもてはやされ大流行した。非常に高価で、重さあたりの価格は金の価格と同じだった。アウグストゥスが絹製衣類の着用を禁じ、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは后の懇願を拒絶したなどの逸話があるが効果は無かった。
濃紫絹染の値段は同じ重さの金の3倍もし、この色の絹は皇帝と元老院議員のロープにだけ使用された。

アウグストゥス
 

陸の「シルクロード」とは、西安からローマまでの全長約7,000kmの貿易路で、ドイツの地理学者リヒトホーフェン(1833-1905)によって名付けられた。
6世紀にはビザンチン(東ローマ帝国)に養蚕の技術と蚕種が伝わる。
12世紀、イタリアのシチリアで養蚕が始まり、その後イタリア各地で生産する一方、ベニスは中国からの絹製品の輸入を取り扱い大いに繁栄した。
16世紀にはフランスのリヨンで養蚕が開始され、温暖な気候のイタリアとフランスがヨーロッパでの生産の本場として成長する。
イギリスはことごとく養蚕に失敗したため、中国からの絹輸入により大幅な貿易赤字が発生し、これがアヘン戦争の大きな原因となった。

シルクロード (wikipedia)
 




■■■■■■■■日本の絹の文化 



■■■■■■ 養蚕と絹織りの伝来

■■■ 最初の国産絹

日本に養蚕と絹織りの技術が伝来したのは、福岡県の有田遺跡(弥生時代前期末)、佐賀県の吉野ヶ里遺跡(弥生時代中期)など九州北部の紀元前後の遺跡から日本の蚕で作られた絹織物片が出土していることから、弥生時代前期末よりも前(紀元前500年よりも前)と推定されている。 

■ 佐賀県吉野ヶ里町 吉野ヶ里遺跡(特別史跡)

  

甕棺から発掘された絹(写真: 佐賀県教育委員会)

吉野ケ里遺跡の出土織物には絹布と大麻布がある。絹は蚕の繊維を紡錘車で糸に紡ぎ、織機で布として織り上げるが、数種類の織り方や日本茜や貝紫(アカニシなどの巻貝がもつ色素によって染めたもの)などでの染色の技術もあった事が判っている。
 



■■絹関連の日本語の語源

■ 繭(まゆ)の語源は、カイコガの触角が人の眉に似ていることに由来している説、あるいは真(マ)の糸(イ)から来ているという説などがある。
カイコガの触角 (東京大学神崎研究室) 
 

■ 蚕(カイコ)の語源は、家で飼う仔(こ)虫に由来している。

■ 桑の語源は、食う葉、あるいは蚕葉(こは)に由来している。
 


■■■ 歴史書に登場する絹

古事記や日本書紀の神話に登場する絹は、古事記の蚕の起源神話が有名だ。食物の神、オオゲツヒメノカミがスサノオノミコトに殺され、死体の頭から蚕が生じたというもので、五穀の稲、粟、麦、大豆、小豆とともに重要なものだった。
魏志倭人伝(3世紀)には、「倭人は養蚕と絹織物を行っている」「卑弥呼(170-248頃)が魏の皇帝に絹織物を献上した」との記述がある。


■■■ 渡来人の技術

■ 秦氏、漢氏などが渡来し、養蚕、機織りの技術をもたらした

応神天皇14年(283年) 百済の王が真毛津(まけつ)という縫衣工女(きぬぬいおむな)を貢いだ。(日本書紀) 
応神天皇14年-16年 秦造(はたのみやつこ)の祖、融通(ゆうつう)王;別名弓月王(ゆつきのきみ)が百済から技術者を伴って帰化した。(古事記、日本書紀他)
応神天皇の時代、漢直(あやのあたい)の祖、阿知使王(あちのおみ)が来朝した。(古事記)

■ 「呉服」の起源はこの時代に遡る 

応神天皇37年(306年) 阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉(くれ)に遣わして縫工女(きぬぬいめ)を求めさせた。二人は高麗人の案内で呉に行った。呉の王は縫女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり;漢織とも)の四人を与えた。(日本書紀) 
呉織(くれはとり)は呉(くれ)の服(はとり;はたおり)と同じ。「呉服」は織物を指すのではなく、織物職人を指した。

仁徳天皇の時代(313-399) 天皇の皇后が山城の国筒木(京都府京田辺市綴喜)の韓人(からびと)ヌリノミの家に滞在し、蚕を見た。ヌリノミが養蚕を行っていた。(古事記) 
雄略天皇7年(463年) 百済から今来(いまき)の才伎(てひと)(最新の技術者)が献上された。(日本書紀) 
雄略天皇15年(471年) 弓月王の孫の秦酒公(はだのさけのきみ)に「うずまさ」という姓;太秦公宿禰(うずまさのすくね)を与えた。
雄略天皇の時代 秦氏が「ハダ」の姓を与えられる。

■ 太秦の広隆寺

秦氏の菩提寺。推古天皇11年(603)、秦河勝(はたのかわかつ)が建立(日本書紀)
秦河勝は聖徳太子と近い関係だった。

蛇塚古墳(7世紀)は飛鳥の石舞台古墳に匹敵する巨石を使用した石室を有し、広隆寺を建立した秦河勝の墓と伝えられている。
太秦大酒神社には兄媛・弟媛は弓月王、秦酒公とともに祀られる。

京都府右京区広隆寺(国宝)

 

蛇塚古墳(史跡)
 

■ 秦氏は恭仁宮、長岡京、平安京を作った技術者でもあり、特に平安京とは密接に関わっていた。

京都府木津川市 恭仁宮跡(史跡)
 

■ 絹に関係する地名、姓名には、他に錦織、倭文(しとり)などがある。

大阪府富田林市 錦織神社(重要文化財)
 

鳥取県湯梨浜町 倭文神社(伯耆一宮)

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。
 

経塚出土品は国宝。(東京国立博物館蔵)
 



■■■ 渡来人、特に秦氏が全国に拡散。全国各地に「はた」の地名が残る。


■■ 滋賀県の愛知川(えちがわ)流域

天智天皇4年(665) 百済の民男女400余人が近江の国神前(かみさき)郡に住まわせられた(日本書紀) 
神前郡は愛知川流域、現在の東近江市と彦根市と愛荘町の一部。 
渡来人との関係が考えられる寺社は、現愛荘町の豊満(とよみつ)神社(依智秦氏(えちはたうじ)に関係する)、あるいは湖東三山(甲良町西明寺愛荘町金剛輪寺東近江市百済寺) 

■ 滋賀県愛荘町豊満神社(重要文化財)

近江鉄道愛知川駅南約2kmの所にある。古代の大国荘の氏神であった。
境内地は約22000uの広さで、巨木が境内・社殿をすっぽり囲んでいる。信仰心の厚い集落に維持されている様子が判る。
南北朝時代にすでに「愛知郡総社」と呼ばれたほどの屈指の大神社で、郡内にも末社が多くある。
大国庄を開拓した愛智秦氏の祖神豊幡武尊を祀るという伝承がある。
古くから「旗の宮」「幡の宮」と呼ばれ、この由来は豊幡武尊が神功皇后の「新羅遠征」の際、日本軍の軍幡を始めて作った所だからという。
別には、「ハタ」は秦氏の秦に通じ、「東大寺文書」などの資料にも、「依智秦君(えちのはたきみ)」という名が出ており、この社が古代文化の中心だったと思われる。
源氏、佐々木氏らは軍旗にこの社の竹を用いた。

 


■ 湖東三山

鈴鹿山脈の麓に凡そ3〜5km間隔で東西に並ぶ三つの寺、百済寺・金剛輪寺・西明寺を湖東三山という。
三つの寺ともに千余年の歴史を持つ古刹で、巨大な境内をかかえ、両側に坊舎跡が並ぶ長い参道を持つ。
かつては多数の僧兵を擁し、度々兵火を浴びたなどの共通点をもつ。百済寺は三山のなかで一番古い寺である。


甲良町西明寺(国宝)

西明寺は山号が「龍應山」、通称が「池寺」と「水」と深い関わりがあった寺院である。
寺伝によると、伊吹山を開いた三修上人がこの地の小池より光明の輝くのを見て、承和元年(834)が開創したと伝わる。
平安時代から室町時代にかけて、修行・祈願の道場として栄え、別所諸堂十七ケ所・社宮十二神・坊舎三百をもち、寺領も2000石に及んだ大寺院だったとされる。
元亀2年(1571)比叡山が織田信長に抵抗したため、天台宗の西明寺も元亀2年(1571)丹羽長秀の攻撃を受けたが、山麓の塔頭を焼いたのみで、本堂・三重塔・二天門は残った。
一説によると、火の手があまりにすさまじく、望見した織田の兵が、本堂以下が焼け落ちたと勘違いして引き揚げたともいう。

 


愛荘町金剛輪寺(国宝)

寺伝では、天平13年(741)に行基が開祖した聖武天皇の勅願寺で、いまも伽藍の本堂を「天平大悲閣」と呼んでいる。
古来より当地方に勢力を張っていた依智秦氏がその創建に関わっていたとも考えられる。
平安初期の嘉祥年間(848〜50)に、比叡山の慈覚大師円仁が中興し、天台の道場として以来、天台宗となった。
鎌倉時代を中心に寺運隆盛であったことが、現在に残る仏像や建築でわかると共に、当時の古い歴史を物語ってくれる。
中世には近江源氏佐々木氏の厚い崇敬を受け最も盛況を呈し、多数の坊舎が甍を並べていた。
応仁の乱後の戦乱で衰微し、信長の焼き討ちに遭ったが、幸いに寺僧の機転で本堂、三重塔、二天門などは被害を免れ今日に至る。
江戸時代に入ってからは、彦根藩及び天海僧正を始めとする天台宗一門の庇護を受け寛永期から諸堂宇の修理・復興が続けられた。
寛文4年(1664)山内絵図面によると堂宇は本堂を含めて七宇、坊は二十四となっている。
これら坊のうち、現存しているのは、明寿院・西光寺・常照院のみであるが、調査で24の坊跡が確認されている。

 

東近江市百済寺(重要文化財)
 

寺伝によると、推古天皇の時代に聖徳太子の発願により、高句麗僧恵慈を導師に百済僧道欣が創建したという。
その年代は推古14年(606)ともいわれる。
その堂塔は百済の龍雲寺を模して建てられたとも伝える。
古代より、湖東一帯には朝鮮半島から日本海をわたり、北陸の若狭を経由してやって来た渡来人が多く定住していた。
中でもこの辺りには、5世紀頃より秦氏の一族が多く帰化していた。
当時の渡来人は、灌漑、土木や建築などの分野で、日本には無い先進技術を持っていた。
彼らはこの地域を開墾し、豊沃な土地に替えて行った。百済寺の創建当時は渡来文化が花開いた時期で、深いかかわりがあったことは「百済寺」という寺号からも伺える。
平安時代に入ると、天台宗に改宗、無動寺の末寺として最盛期を迎えた。
その伽藍は壮大で「湖東の小叡山」と称されるほどだったと伝わる。
その時代には、僧俗1000人を超える人々が山内に住んでいたという。
近隣一帯の寺領が経済基盤であり、寺内には北谷・東谷・西谷・南谷の四谷があった。
北谷や南谷からは、室町時代後期から戦国時代にかけて造られたと見られる空堀や石垣が発見され要塞化されていたことが判明している。
記録では、文永11年(1274)に大火、ついで明応7年(1498)失火により本堂・堂舎のすべてを焼失した。
文亀3年(1503)には、近江守護六角氏高頼と被官伊庭貞隆の争いで兵火を受け、その後復興が進められた。
織田信長の侵攻に際して、六角氏の被官鯰江氏を助けた百済寺は、天正元年(1573)焼討ちをかけられ全山が灰燼に帰し寺宝をほとんど失った。

 




■■■■■■大化の改新(645)と律令制


■■絹の価値体系確立

大化の改新の招により、絹織物、生糸、絹綿(真綿)による納税(調)が始まる。
役人の給与は絹織物。役人はそれを奈良の東西の市で物々交換した。

織部司(おりべのつかさ)と縫部司(ぬいべのつかさ)の制定
朝廷用の染色、織り、縫いを管理した。

衣服の色の制定
紫は皇族の一部に許された「禁色(きんじき)」となった。
当時の染色材料には、紅花(ベニバナ)、茜(アカネ)、紫(ムラサキ)、藍(アイ)、蘇芳(スオウ)、クチナシ、黄檗(キハダ)などがある。 


■■絹織物の種類

錦 色や模様が多様で美しい
綾 文様が特徴的
紗 薄い織物(うすきぬ)
羅 薄い織物(うすもの)


■■当時の絹製品の文化 

■ 天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう) (国宝) 7世紀前半 
奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する飛鳥時代の染織工芸品。天寿国曼荼羅繍帳とも呼ばれる。銘文によれば、聖徳太子の死去を悼んでその妃、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が太子の死を弔うため秦久麻に作らせたという。飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品。

 

高松塚古墳 (特別史跡) 壁画西壁の女子群像 藤原京期(694年〜710年)

奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
人物群像の持ち物が『貞観(じょうがん)儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人(とねり)ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。
壁画について、発掘当初から、高句麗古墳群(世界遺産)と比較する研究がなされている。女子群像の服装は、高句麗古墳の愁撫塚や舞踊塚の壁画の婦人像の服装と相似することが指摘されている。

 


■万葉集(8世紀)に登場する絹関連の歌

富み人の 家の子どもの 着る身無(な)み 腐(くた)し棄つらむ きぬ綿らはも (山上憶良 5,900)
筑波嶺(つくはね)の 新桑(にひぐは)繭(まよ)の 衣(きぬ)はあれど 君が御衣(みけし)し あやに着欲しも (14,3350)
なかなかに 人とあらずは 桑子(くはこ)にも ならましものを 玉(たま)の緒(を)ばかり (12,3086)
高麗錦(こまにしき) 紐解きかはし 天人の 妻問ふ宵ぞ 我れも偲はむ (10,2090)





■■■■■■ 平安時代

■■ 平安王朝の絹文化

それまでの中国輸入の着衣文化ではなく、日本独自の着衣文化が発展した。

■■色の重ねと重ね着

王朝文学の重要な要素となっている。
「冬は躑躅、桜、掻練襲(かいねりかさね)、蘇芳襲。夏は二藍(ふたあい)、白襲。」(枕草子) 
「なでしこのわか葉の色したる唐ごろも」(源氏物語)
牛車と出衣(いだしぎぬ)のファッションなど、色の重ねのセンスが重視された。


■ 京都市 葵祭

斎王代は十二単、おすべらかしの髪で檜扇を持つ。
 

花傘をさしているのは、女別当(おんなべっとう)、内侍(ないし)、命婦(みょうぶ)で、さしていないのは内侍司(ないしづかさ)の女嬬(にょじゅ)。
 

■ 京都市下京区 風俗博物館の展示
 

■ 京都市上京区 京都御所 後宮の皇后宮常御殿、藤壺付近の展示

仁寿殿(じじゅうでん)よりも北に位置する七殿五舎を「後宮」と言う。
七殿とは承香殿(じょうきょうでん)、弘徽殿(こきでん)、登花殿(とうかでん)、貞観殿(じょうがんでん)、宣耀殿(せんようでん)、麗景殿(れいけいでん)、常寧殿(じょうねいでん)。
後宮七殿の東西にある、飛香舎(ひぎょうしゃ)、凝花舎(ぎょうかしゃ)、襲芳舎(しほうしゃ)、昭陽舎(しょうようしゃ)、淑景舎(しげいしゃ)を後宮五舎という。
それぞれ、藤壺、梅壷、雷鳴壷、梨壷、桐壺と呼ばれる。

  


■ 「佐竹本三十六歌仙絵巻 小野小町」 (重要文化財) 東京国立博物館

鎌倉時代・13世紀に制作された絵巻物。鎌倉時代の肖像画、歌仙絵を代表する作品である。元は上下2巻の巻物で、各巻に18名ずつ、計36名の歌人の肖像が描かれていたが、1919年(大正8年)に各歌人ごとに切り離され、掛軸装に改められた。
藤原公任(966-1041)は11世紀初め頃に私撰集「三十六人撰」を撰した。これは、『万葉集』の時代から、平安時代中期までの歌人36名の秀歌を集めて歌合形式としたもので、これら36名を後に「三十六歌仙」と称するようになった。本絵巻はこの三十六歌仙の肖像画にその代表歌と略歴を添え、巻物形式としたものである。

 


■■染めと刺繍の技巧が進展する

染め色が多様化し、絞り染め、摺染(すりぞめ)などが登場する。

福島県福島市 文知摺観音(もぢずりかんのん)の多宝塔と文知摺石(鏡石)

「みちのくの しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」(源融)
と百人一首に収められている和歌は、光源氏のモデルと言われる河原左大臣(かわらのさだいじん)源融(みなもとのとおる)が土地の娘虎女(とらじょ)へ送った恋歌で、文知摺石(もぢずりいし)が福島の郊外にある。
当地は古くから養蚕が盛んで、絹織物の産地だった。自然の石を利用して摺り染めた絹織物がしのぶもぢずりとして都でもてはやされ、そのみだれ染めの紋様から乱れこころの枕詞が生まれた。
芭蕉は元禄2年に、正岡子規は明治26年に、日本画家小川芋銭(うせん)が明治44年と大正4年にここを訪れ、それぞれに句を残している。

  





■■■■■■ 鎌倉時代 

■■ 日宋貿易(10世紀から13世紀)で生糸、絹織物の輸入

国産の生糸は低品質で、生糸も絹織物も大量に中国から輸入した。輸入は鎖国まで続く。
日宋貿易では清盛が博多を拠点に絹織物を輸入し莫大な利益を得る。輸入対価として大量の金銀が流出した。
博多織は鎌倉時代の仁治2年(1241)僧弁円と共に宋から帰国した博多商人の満田弥三右衛門が持ち帰った唐織の技術が始まりと言われる。

 

■■ 重ね着から小袖へ

武家社会は平安貴族に比べ質素な服装となる。
当時の社会では絹製品が貨幣の代用だった。
小袖、練貫(ねりぬき;しじら、熨斗目(のしめ)など)が着物のスタイルとして定着する。
絹製品を扱う座が発達した。(大舎人織手座、練貫座、小袖座、帯座、絹座、糸座)


■「一遍上人絵伝」(国宝) 東京国立博物館

伊予国(現在の愛媛県)に生まれ浄土宗を修めたのち新しく独自の宗旨である時宗を興した開祖一遍を描いた絵巻。
奥書により、正安1年(1299)一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、円伊が絵を描いた。
独自の踊念仏という信仰を生み出し、全国を遊行して貴賤を問わず広く念仏を勧め、民衆の布教に努めた一遍の活動を忠実に記録し、その模様とともに各地の社寺や名所の景観を取り入れた点は特筆に値する。
全体的に人物を小さく扱い、背景の自然描写に深い関心が注がれ、四季の風景を美しく描いた歌絵は名所図絵的な趣を伝える。
人物や建物の的確な描写には鎌倉時代の写実主義的な傾向が強く見られ、山水の描写には中国宋代の影響が指摘される。

 




■■■■■■南北朝、室町時代

■■日明貿易で生糸、高級絹織物の輸入

日明貿易(勘合貿易)で生糸、絹織物の輸入が増大した。

■■ 生糸、絹織物需要の拡大要因

緞子(どんす;ダマスク)、綴織(つづれおり;タペストリー)の流行。
当時流行していた能楽の衣装や茶の湯に使う古袱紗(ふくさ)や仕覆(しふく)などに用いる。

■能の成立と衣装需要

婆佐羅(ばさら) 身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。

能衣装 半臂(はんぴ) 金地亀甲花菱模様 (重要文化財)東京国立博物館

平縫で全身を敷き詰めるように花入り亀甲紋を刺繍する。袖ぐりには綾地緯錦(あやじぬきにしき)が用いられる。
 

佐渡 椎崎諏訪神社の薪能 『羽衣』

かつて佐渡島内に二百以上の能舞台があったほど各集落で能楽が盛んにおこなわれてきたが、今でも三十以上の能舞台が神社などに点在する。世阿弥が佐渡に配流されたこと、能楽師の家系の佐渡奉行大久保長安が奨励したことがその理由だ。佐渡では能は鑑賞するものではなく舞って楽しむもの。
 


■茶の湯の成立と絹製品の需要

萬暦赤絵樹下人物紋茶器(景徳鎮、明時代)東京国立博物館

 


■綴織(つづれおり)

祭りの山車(やま) 

京都祇園祭
貞観11年(863)に、相次いで起こった震災、噴火、飢饉などの悪疫を鎮めるため、66カ国に応じた66本の鉾を神泉苑に立て、祇園社から神輿を出して牛頭天王を祀ったのが始まりとされている。

 

春の高山祭り

 

秋の高山祭り

 



■■ 西陣の隆盛

西陣は、上京区内の東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの範囲を指す。
秦氏の太秦、平安初期に織部司が置かれた土地に近く、工人の技術の継承があった。
宮中の総務役であった大舎人が織部の職工から技術を習得し、鎌倉時代には既に錦を生産していた。
応仁の乱(応仁元年(1467年)-文明9年(1477年))で西軍が陣地を構え、西陣の地名となる。
乱の最中、生産者は堺に避難したが、応仁の乱後この地に戻り高級絹織物を生産した。
江戸時代に入って西陣織は隆盛を迎え、今出川近辺の大宮通は一日に千両の商いがあるとして「千両が辻」と呼ばれた。
「千両が辻」には今でも多くの織屋や元織屋が残っている。
西陣織として知られる織物産業の集積地で、その出荷額は近年減少したとはいえ、平成22(2010)年度でおよそ800億円に上る。

■ 富田屋(国登録有形文化財)

主屋は明治前期の建築。 近世末期まで伏見で両替商を営んでいた所有者が、明治18年頃にこの地に移り織物問屋を創業して建てた建築である。
間口約5間、奥行7間の大規模な表屋造で、明治期に京都市内に作られた大規模商家建築の好例ということができる。
表蔵は明治前期の建築。主屋と並び、街路に面して建つ土蔵。角地であるため妻面と平面を街路に見せている。
街路側には出入り口を設けず、腰から下を一枚板で飾る特徴的な外観を持つ。
現在は内部が居室として利用され、角地に建つこともあってランドマーク的な役割を果たしている。
 

■浄福寺通の上立売通から寺之内通までの間の大黒町
ほぼ西陣の中心にある。平成元年にまちづくり協議会を設立し、景観に関する協定を定め、道路を石畳化するなど職住一体の特色あるまちづくりを進めている。ミュージアム「織成館」を中心に、織工場や京繍の工房などが集まっており、伝統産業が息づいている地域。
 

■三上家路地(三上家十軒職人長屋)
大宮通と智恵光院通の間、五辻通の一本北側の小路(紋屋図子)の中ほどにある。突当たりが御寮織物師(紋屋)六家の一つ三上家で、かつては三上家の職人を住まわせていた長屋だが、現在は芸術家や蜂蜜専門店などが入居している。周辺も西陣らしい街並。
 
 

■西陣織会館

ジャカードが無い時代、2人で複雑な織物を織っていた「空引機」が復元されている。
 

手機(綴織)の実演
 

きものショーは外国人観光客に人気がある。
 





■■■■■■ 安土桃山時代


■■朱印船貿易、南蛮貿易と桃山文化

倭寇に苦しみ朝鮮の役で敵対した明と日本とは直接交易できなかったので東南アジア経由の貿易が行われた。朱印船貿易は博多、坊津、堺を拠点に、南蛮貿易は平戸長崎を拠点に、生糸、絹織物などを輸入した。日本からは石見銀山の銀などが輸出された。

平戸オランダ商館跡(国史跡)

平戸は海流と潮の関係で古くから日本海側へも太平洋側へも航行に便利な水運の拠点だった。オランダ商館は1609年に設置された東アジアにおけるオランダの貿易拠点で、1641年に長崎出島移転が命じられるまでの33年間存続し、鎖国以前の海外交流を示す重要な存在。平戸オランダ商館は、オランダの東アジア地域での最前線として重要な役割を担っていた。日本が徐々に海外交易の統制(鎖国政策)を強めていく1630年代後半からは、貿易額は飛躍的に増大したため膨大な量の商品を保管するために大型倉庫の建設に着手した。
1639年に建設された倉庫は、日本では類を見ない巨大な洋風の石造りの倉庫であり、当時の日本人の目にはこの倉庫の外観がかなり奇異なものであった。
日本人の海外渡航が禁止されポルトガル船の来航も禁止されると、オランダは中国を除いて唯一の交易相手として日本貿易を一手に担うことになるが、鎖国政策の波は平戸オランダ商館にもおよび、巨費を投じて建設した倉庫の破壊を命じられ、最終的には長崎出島へと移転させられた。

 


■■ 生糸、絹織物需要の拡大要因

■奢侈と自由貿易

信長、秀吉は贅沢な絹織物を好み、絹製品の輸入と京の絹織物生産を奨励した。家康も貿易を推進した。

■茶の湯のさらなる隆盛

■小袖の主流化

小袖が主流となり、贅沢な摺箔、縫箔、辻が花(絞り染めを加えたもの)がもてはやされる。
能の隆盛に伴い唐織(からおり)、熨斗目(のしめ)、水衣(みずごろも)の需要が増大する。
海外から輸入されたケルメス、コチニールなど派手な染色材料が使われるようになる。

唐織 東京国立博物館

 

水衣 萌黄よれ地水衣 東京国立博物館

 



■ 「花下遊楽図屏風」(国宝) 狩野長信 17世紀 東京国立博物館

華麗豪華な遊楽図の多いなか,本図の特異さは,背景に金碧を用いず,水墨画の技法を生かしている点にある。しかし,描かれた当初の衣裳や花木の,今よりずっと鮮明な色彩を想像すると,落ち着いた背景との対比によって匂うように浮き出たさまがさぞかし優雅であったと思われる。作者長信(1577-1654)の祖父元信が花鳥図に用いた手法である。
 


■ 猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織 東京国立博物館

秀吉の養子で,後に安芸の小早川隆景の養子となり,慶長の役に総大将として出陣した小早川秀秋(1577-1602)所用と伝えられる。猩々緋は,ケルメスで染められた鮮やかな緋色のことで,桃山時代から南蛮船によってもたらされ,陣羽織などの生地としてしばしば用いられた。
 




■■■■■■ 江戸時代

■■■■鎖国

鎖国後も長崎出島を拠点に生糸、絹織物を大量に輸入していたと同時に、 坊津などでの密貿易も発生していた。 
結果、貿易赤字のため、大量の金銀の流出が起こった。

長崎出島(史跡)

長崎はひなびた漁村だった。元亀元年(1570)キリシタン大名の大村純忠はイエズス会に長崎を提供した。
ポルトガル人はここに教会や病院まで備えた大規模な街を作りあげた。
徳川幕府も海外貿易を盛んに奨励し、ポルトガルのほか、平戸にオランダ商館の設置を認め、スペイン、中国、イギリスとも通商を許した。
しかし、キリスト教徒が増加し、有力な大名までもが改宗するに及んで、キリスト教は弾圧され、慶長19年(1614)ついに禁教とされた。
幕府は寛永13年(1636)長崎に出島を作ってポルトガル人を集めた。
さらに寛永14年(1637)キリスト教徒が島原の乱を起こすに及び、幕府は寛永18年(1641)ポルトガル人を追放し、平戸にあったオランダ商館を出島に移した。
その後、長崎は西洋文明と関わる唯一の窓として経済的文化的に幕末まで繁栄が続く。
現在、出島にはミニ出島の模型や出島資料館、歴史民俗資料館が設けられている。

 



■■■■ 絹の国産化と養蚕、生糸製造、絹織物の発展

■■■ 生糸、絹織物需要の拡大要因

・天下泰平となり生活にゆとりができる
・町人の富裕層が拡大する
・芝居など奢侈の流行
・農民も絹の着物を求めた
・西鶴、近松の作品に登場し、さらなる流行を生む

■ 近松の『曽根崎心中』に登場する曽根崎お初天神

 

■ 西鶴の『日本永代蔵』 に登場する酒田の鐙屋(史跡)

 


■■■元禄文化と小袖の隆盛 

贅沢な着物需要
・小袖一枚のみで美を競う。
・多彩な染めと文様。
 金紗(きんしゃ)、縫(ぬい)、惣鹿子(そうかのこ) 
・歌舞伎の隆盛と役者衣装の流行

贅沢禁止令が何度も出されたがあまり効果が無かった。茶と鼠は規制がなかったので、「四十八茶百鼠」といわれるように茶味や鼠かかった色が流行し、多くの色合いが生まれた。

■ 浮世絵 「飛鳥山花見」 鳥居清長 東京国立博物館

 

■ 小袖 紫白染分縮緬地笠扇桜文字模様(むらさきしろそめわけちりめんじかさおうぎさくらもじもよう)江戸時代 18世紀 東京国立博物館

友禅染で団扇(うちわ)、扇、笠模様を表わし、金糸や絹糸で文字と桜の模様を刺繍した小袖。文字模様は伊勢大輔(いせのたゆう)の和歌 「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」を、町方の女性にも親しめるようにカタカナで表したもの。もともとは振袖。
 

■ 小袖 紺木綿地瑠寛縞模様(こんもめんじりかんじまもよう)東京国立博物館 

歌舞伎役者、嵐瑠寛が着用した縞模様を取り入れた町人向けの衣装。
 


■■■ 幕府の養蚕と絹織物の振興政策

近江、美濃などの国内産生糸を京都西陣へ輸送させた。(登せ糸) 
8代将軍徳川吉宗は天領、諸藩を問わずに生糸、絹織物の国内生産を奨励した。
結城藩領を天領化する。
天領の陸奥国伊達郡(現福島県伊達市)に蚕種の生産拠点を設け、蚕種の独占販売を行なった。



■■■ 諸藩の養蚕、絹織物振興政策

仙台藩、尾張藩、加賀藩といった大藩や、上野国や信濃国などで養蚕、絹織物の増産が推進された。



■■■ 蚕種の品種改良 

『蚕飼養法記』をはじめ江戸時代に百冊の蚕書が執筆された。
江戸時代中期には日本の生糸は中国と遜色がなくなった。
蚕種の産地は、福島県梁川、富山県富山市八尾 群馬県など。

■ 富山県富山市八尾 風の盆

八尾は富山の南部に位置する。井田川の河岸段丘の上に、室町末期、浄土真宗の古刹、聞名寺(もんみょうじ)が建立され、その門前町として成立した。藩政時代から蚕種や和紙の取引を中心に、飛騨に至る街道沿いの商人町として栄えた。
この繁栄をうけて、春に行われる曳山の祭り、9月はじめに行われる「おわら風の盆」の祭りが今日まで賑わいを続けてきた。
おわら風の盆祭りは、毎年9月の1、2、3日開催される。9月1日は旧暦の八朔(8月1日)の月遅れの祭りである。
八朔の祭りとは、二百十日の稲穂が出る頃、台風の強風を受けることから、実りの神(田の実の神、すなわち頼みの神)に祈願するものであり、この地方にも、風の宮など、風封じの祭礼風習があった。
一方、八尾は全国的に有名な蚕種の産地でもあったため、蚕の換気目的での風は歓迎された。
盆とは、旧暦7月15日の盂蘭盆会(うらぼんえ)、いわゆる施餓鬼会であり、先祖や死者に食物を供する祭りであるが、養蚕の繁忙期とも重なるため、八朔の時期にあわせて盆祭りとしたものであろう。
おわら節と踊りの起源は、浄土真宗の勢力が強かったこの地方の踊り念仏と言われている。胡弓の哀愁漂う旋律は念仏を想起させる。
祭りの夜には蛍光灯や水銀灯の無粋な照明が無い。緩やかな坂の両側、暗い街並にぼんぼりが灯り、格子戸の中からの明かりが美しい。
物悲しい胡弓の音が流れ、笠を深めに被った踊り手の優雅な姿が浮かび上がる。
直木賞受賞作家、高橋治の恋愛小説「風の盆恋歌」で一躍有名になり、石川さゆりの歌もある。
物語では、この祭の夜に、好き合っていた男女が、20年の歳月を経て、死の予感にふるえつつ忍び逢う、危うい恋の旅路を美しく描き出す。
  


■■■絹織物の特産品

幕府による西陣の保護育成をはじめ、各藩の振興により特産品の銘柄が誕生した。

平織り: 浜羽二重 加賀絹、丹後絹、秩父絹、日野絹(伊勢崎、富岡、藤岡)、福島、川越絹、南部絹、郡内絹(甲斐絹(かいき))
縮緬(ちりめん): 京、浜、美濃、上州、丹後
竜門: 桐生、福島、安中
綸子(りんず): 京、上州
絽: 上州
紬: 結城、甲州、飛騨、信州、加賀
太織(ふとり): 郡内、上州
『絹布重宝記』より



■■■ 絹製品の流通(呉服商)


■■三井越後屋


■ 松阪 三井発祥の地。当初は酒、味噌を商う。

  


■京都店 絹織物の仕入れと販売

室町通の三井京都店跡付近

三井高利は延宝元年(1673)最初の店を室町通蛸薬師東側北寄りに設けた。京都と江戸それぞれの店を息子たちに当たらせ、開店直後は高利自身が京都に上って指揮をとった。
経営が軌道に乗ってくると、当初の北寄りの借家では手狭となり、延宝4年(1676)に南寄り に仕入れ店を移した。
さらに元禄4年(1691)には同町西側に家屋を買い、南寄りと西側の両店を京本店と総称した。
これらの店も手狭となり、宝永元年(1704)、室町通二条上ル冷泉町西側に家屋敷を購入して移転した。以来、江戸期ではこの地において京本店が存続していく。

宝永元年(1704)以降の本店跡は三井越後屋京本店記念庭園となっている。
 

■大阪店 絹織物の販売 

店の活気は、浄瑠璃集『おそめ久松・袂の白しぼり』に描写されている。 

当初の三井大阪店は高麗橋、現在の三井ガーデンホテル大阪淀屋橋。
 


■ 江戸店 絹織物の仕入れと販売 

三井の繁盛の様子は、西鶴の『日本永代蔵』に登場する。 
「三井九郎右衛門といふ男、手金の光、むかし小判の駿河町といふ所に、面九間に四十間に、棟高く長屋作りして、新棚を出し、よろず現銀売りに、かけねなしと相定め、、、、」

「駿河町越後屋正月風景図」 鳥居清長 筆 江戸時代(18世紀) 三井記念美術館

駿河町の両角地を占める三井越後屋の正月風景を描いたもので、遠近法を強調した画法により駿河町通りの向こうには江戸城越しの富士が遠望される。この景観は江戸名所のひとつとされる。右(現在の三井本館)が絹店、左(現在の三越)が木綿店。
 

三井本館(重要文化財)

現在の建物は明治35年(1902)に竣工した旧三井本館が関東大震災で被災したために建替えられたもの。昭和4年(1929)竣工。アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所が設計しジェームズ・スチュワート社が施工を行った。
地下大金庫の最大厚さ90センチメートルの扉は搬入に際し重量の大きさ(約50トン)から日本橋が損傷する恐れがあるために通過が認められず、川に浮かべ船で運ばれた。近年、川から陸揚げを行っている写真が発見された。
新古典主義様式の外観を持つ建物で、イタリア・ヴェネツィア産大理石などが使用されている。エアシューターや全館完全空調を初めて導入した。

 


■ 藤岡店 絹織物の仕入れ

享保7年(1722)、現地の絹商人、星野金左衛門の要請に応じ出店し、10数年後には閉店した。
安永9年(1780)、越後屋が諏訪神社に奉納した雌雄一対の神輿や、買い付け担当が奉納した石灯籠が今も残る。
藤岡では年六回絹市が開かれ、周囲から絹織物が集まっていた。

2006年の藤岡まつりでの神輿と古文書の調査



2006年藤岡まつりでの神輿
 

三井が奉納した神輿
 

星野家に残る神輿関係の古文書
 (三井文庫の由井文庫長、賀川主任研究員と星野さん)
安永9年に三井が奉納した神輿は人形町の仏師安岡が制作したもの。
  

星野家の主屋と絹蔵 文化文政時代の建築
  



■■ 江戸時代から続く呉服商建築

■ 京都市下京区 杉本家住宅 (重要文化財)

杉本家は江戸時代中期から呉服商奈良屋として続いた家柄で、現在の主屋は、前の建物が元治元(1864)年の禁門の変に伴う「どんどん焼け」と呼ばれる大火により焼失した後、明治3(1870)年に建造された。
建物も住まい方も建築時のままとされ、京町家を代表する建物。
 


■ 盛岡市 旧中村家 (重要文化財)

屋号「いとや」 天明創業 江戸末期からムラサキを使う「禁色」の紫根染を扱う店だった。
 




■■■■■■ 開港後 




■■■ ヨーロッパでの養蚕激減と絹による殖産興業 

ヨーロッパで蚕の微粒子病が蔓延し1853頃から生産が激減した。 パスツールが原因の病原虫を究明し『蚕病論』を著した。
絹関連製品は日本の重要な輸出品であり、殖産興業の主要産業となった。横浜が生糸と蚕種の積み出し港になり、旧士族の授産事業としても注目された。

■■旧士族の授産事業

■山形県鶴岡市 松ヶ岡開墾場(史跡)

明治維新直後の廃藩置県の折、旧藩家老菅実秀が旧藩士の先行きを考え、養蚕によって日本の近代化を進め、庄内の再建を行うべく開墾を行ったもの。
明治5年(1871)に旧庄内藩士3,000人によって開墾され、明治7年には311ヘクタールに及ぶ桑園が完成し、明治8〜10年には大蚕室10棟が建設された。その後鶴岡に製糸工場と絹織物工場が創設された。
平成元年国の史跡に指定され、大蚕室5棟、藤島より移築された本陣(開墾創業時に松ヶ岡本陣とした)、新徴屋敷(庄内藩江戸取締の際その配下となった浪士組織新徴組のために藩が建てた100棟の住宅のうち30棟を松ヶ岡に移築し、開墾士の住宅とした)などが保存されている。また蚕室は開墾記念館、ギャラリー、侍カフェ、くらふと松ヶ岡、庄内農具館などに利用され、庄内映画村資料館も併設されている。


第一蚕室(開墾記念館)

松ヶ岡開墾場の蚕室を建築した棟梁は、当時の名匠高橋兼吉ら2名で、養蚕業の先進地であった上州島村田島家の蚕室を模して建造したといわれている。
大きな柱、大きな梁をもつ和風構造形式の建築で、桁行21間(37.8m)、梁間5間(9m)。2階の腰窓には和風建築独特の無双窓をつけ、また2階建ての上に通風換気のための越屋根をとりつけた、通風のバランスを考えた構造である。
屋根には同8年に取り壊された鶴岡城の瓦が使われている。

 

松ヶ岡本陣
 




■■■ 製糸技術の近代化

輸出生糸の品質が悪く、座繰り製糸からの脱却が急務となった。

従来の座繰り(富岡製糸場での繰り糸体験)
  



■ 富岡製糸場 (重要文化財)

政府(渋沢栄一関与)がフランス人技師ポール・ブリューナからの技術指導を決定した。
ブリューナは、日本では富岡製糸場、中国では寶昌糸廠の建設に関わった。
ブリューナが富岡での工場立地を選ぶ。

官営富岡製糸場開業 明治5年(1873) 
国営で創設した最初の工場である。東まゆ倉庫は木骨れんが造りの階高が高い大変美しい建築物であり、ポール・ブリューナの設計による。明治26年(1893)三井に払い下げられ、更に原合名会社、片倉製糸(株)、 片倉工業(株)へと移行したが、昭和62年工場閉鎖となった。

全景
  

東繭倉庫
 

繰り糸場
  


■ 伝習工女

『富岡日記』を著した和田英(1857-1929)は第一回目の伝習工女志願者。長野市の松代藩士横田数馬の次女として生まれる。

横田家(重要文化財)

 





■■■養蚕技術の近代化 

■■温暖育

福島県伊達市梁川を中心に蚕種業が隆盛した。 
天保9年(1838年)、田口留兵衛が温暖育を完成させる。
弘化4年(1847年)、梁川の中村善右衛門が蚕当計(養蚕用寒暖計)を発明した。
五十沢(いさざわ)村の庄屋であった宍戸氏は江戸の三井家と提携して梁川一帯の生糸を江戸に出荷し財をなした。その財で、江戸幕府の桑折陣焼失時の再建、江戸城北の丸焼失時の再建などに多額の寄付をして、幕府より永世苗字帯刀を許されている。

伊達市梁川 五十沢

昭和初期まで盛んだった旧養蚕農家が多く残る。現在、当地域での主要な農業収入は果樹栽培(アンポ柿、モモ、リンゴ、ナシ等)だが、原発事故で多大な風評被害を受けた。

  



旧亀岡家 明治18年(1885) (福島県重要文化財)

蚕種製造など農業に携わる傍ら郡会議員なども務めていた亀岡正元が、明治10年ごろから建築を始めたとされる擬洋館建築。
外壁には下見板張りの上に銅板で仕上げるなど独特な工法が用いられ、色合いも上品で実に美しい外観。
改築もされているため正確な竣工時期や設計者は明かされていないが、その珍しい建築方法は実に貴重である。
堂々としたファサード、玄関から3階の展望室にかけて八角形に飾られた頂点には、ドーマーや一対の小塔を持ち、その頂華の装飾も実に洋風で瀟洒である。
この建物の内部には洋間を一つと、こけし職人が仕上げたという階段の手摺り子以外には洋館要素が一つも無い。内部に入るとそこは正に豪農の日本建築。屋内の土間に井戸が掘られ、杉の間・楓の間という具合に和室もそれぞれ違った木材で造られている。廊下の天井板なども、一度焼いてから笹の葉で磨き木の年輪模様を浮き立たせていたり、床柱には阿武隈川の川底に数千年埋もれていた「埋もれ木」が使用されていたりと、その贅沢さは格別だ。
   

旧広瀬座 (重要文化財) 明治20年(1887)
 
梁川の蚕種業隆盛を反映した芝居小屋。福島県伊達郡梁川町(現伊達市)にあった。
建築は明治20年と推定されている。大衆娯楽施設として広瀬川の近くに町民有志のもとに建てられた。舞台中央の回り舞台や奈落、花道といった舞台装置や桟敷席などが備えられており、裏手は楽屋になっている。壁には当時の役者の落書きが残されている。和風の外観ではあるが、小屋組みは建築当時の流行であった洋風の真束組みが採用されている。芝居小屋として建設されたが、大正時代にかけ映画館としての役割が大きくなり、昭和50年代まで映画館として親しまれた。戦時中は軍需工場にも転用された。1986年水害により広瀬川が氾濫し、河川改修のため移転されることとなり、1990年解体、1994年福島市民家園に移築された。

  


■■清涼育 

■群馬県伊勢崎市境島村,田島弥平旧宅 (史跡)

通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平が文久3年(1863)に建てた主屋兼蚕室。間口約25m、奥行約9mの瓦葺き総二階建てで、初めて屋根に換気用の越屋根が付けられた。この構造は弥平が「清涼育」普及のために著した「養蚕新論」「続養蚕新論」によって各地に広まり、近代養蚕農家の原型になった。

  

6代目当主
 


■■清温育

■ 群馬県藤岡市 高山社跡(史跡)

明治16年(1883)頃 高山長五郎が清涼育と温暖育とを折衷した「清温育」、通風と温度管理を調和させた蚕の飼育法を生み出した。
翌年、この地に設立された養蚕教育機関高山社は、その技術を全国及び海外に広め、清温育は全国標準の養蚕法となった。明治24年(1891)に建てられた主屋兼蚕室は「清温育」に最適な構造で、多くの実習生が学んだ。
高山社は明治34年(1901)高山社産業学校を藤岡に設立し、60以上の分教場、1200人の生徒、4万人の社員を有する日本一の養蚕指導組織だった。

  

桑貯蔵庫
 

高山長五郎(1830〜1886)
 


■■温度管理の実際


■下仁田町 荒船風穴 (史跡) 

明治38年(1905)から大正3年(1914)に造られた。岩の隙間から吹き出す冷風を利用した蚕種の貯蔵施設で、冷蔵技術を活かし、当時年1回だった養蚕を複数回可能にした。3基の風穴があり、貯蔵能力は国内最大規模で、取引先は全国38道府県をはじめ朝鮮半島にも及んだ。
 

■中之条町 栃窪(東谷)風穴 (史跡)

荒船風穴と同様の蚕種保管の冷蔵施設。明治43年(1910)に蚕種貯蔵を開始し、戦後まで使用された。貯蔵枚数は種紙15万枚で群馬県内第2位。
 

上田蚕種協業組合の温度管理 

現在も継続する蚕種事業。絹の効能が注目されており、大学や薬品会社、化粧品会社などの研究室から注文がある。
  

孵化(ふか)室 27度で卵が孵化する。
 



■■一代雑種蚕種の研究 

外山亀太郎がメンデルの法則の蚕への応用を日本とタイで研究した。
その後蚕種は雑種強勢となる一代雑種を採用することとなった。

外山亀太郎(1867-1918)
 

1892年、東京帝国大学農科大学を卒業し、助手として勤める。1896年、福島県立蚕業学校校長に就任。1902年、東京帝国大学農科大学助教授となる。同年より1905年まで、現在のタイの政府顧問として招聘(しょうへい)され、現地で蚕業指導にあたりながら、カイコの交雑実験を行う。1906年、カイコの遺伝がメンデルの法則に従うことを明らかにした論文を発表する。1909年、『蚕種論』を出版。1911年より農商務省原蚕種製造所の技師を兼任し、一代雑種の普及に努める。1917年、東京帝国大学農科大学教授就任。


■■■ 生糸と蚕種の輸出

■■横浜の繁栄

開国後、横浜港が主要な輸出港となる。日本の生糸輸出は清と競合し市場が暴落したためヨーロッパの絹生産が衰退した。 
 

横浜市中区 三渓園 (名勝、重要文化財)

生糸王の原富太郎(三渓)が造営した。自宅を構え、貿易相手の接待などに利用した。廃仏毀釈で荒廃していた各地の文化財建築を園内に移築保存した。

   

原富太郎(1868-1939)
小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫・原 屋寿(はら やす)と結婚し、原家に入る。横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。1923年の関東大震災後には、横浜市復興会の会長を務めた。しかし関東大震災後の復興支援のため私財を投じ衰微。美術品の収集家として知られ、小林古径、前田青邨らを援助した。横浜本牧に三渓園を作り、全国の古建築の建物を移築した。三渓園は戦前より一部公開されていたが、戦後原家より横浜市に譲られ、現在は財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。

■ 横浜市中区 山手 外国人貿易商などの居住地。

旧エリスマン邸 大正15年(1926)
エリスマンは慶応元年(1865)横浜に設立されたスイス系の生糸貿易商社シーベルブレンワルド商会の支配人。山手町127番地に立てられた建物を1990年マンション建設のため移築した。
シーベルブレンワルド商会は横浜発祥の会社で、後のシーベルヘグナー。現在はスイス本拠の国際商社に発展している。

  

■ 横浜開港資料館(旧英国総領事館) 

 

■ 横浜市開港記念会館 開港50年を記念し市民の資金で建設された。

 

旧横浜正金銀行 生糸の貿易金融を目的に設立された。後の東京銀行、MUFJへ。

 

■ 横浜日本郵船ビル、日本郵船歴史博物館

 

■ 横浜税関本関庁舎 

 

■ 旧横浜生糸検査所 明治29年(1896) 輸出生糸の検査目的に設立された。

  

■ ホテルニューグランド 
旧グランドホテル(明治3年(1870)、英国公使館跡地に開業)が関東大震災で壊れたため、市民の資金で建設された。

  

■ その他 横浜三井銀行ビル 横浜旧三菱銀行ビル 横浜銀行協会ビル 旧富士銀行 横浜旧川崎銀行 横浜旧東京海上ビル 



■■ 横浜への輸送網

■ 山手線 
明治18年(1885) 群馬方面からの生糸を直接横浜に運ぶ目的で敷設した。

■ 横浜線 
明治41年(1908) 八王子横浜間は「日本のシルクロード」と呼ばれる。八王子や信州で生産された生糸を横浜へ輸送することを目的として敷設された。


■■■ 織物工業の近代化


■■ 技術革新と教育

■山形県米沢市 山形大学工学部

明治43年 (1910) に設立された米沢高等工業学校が母体 

旧米沢高等工業学校
本館(重要文化財)
 


■長野県上田市 信州大学繊維学部

明治43年(1910)に設立された官立の上田蚕糸専門学校を母体とする国内唯一の繊維学部。

信州大学繊維学部講堂(重要文化財)
 


■群馬県桐生市 群馬大学工学部 

機織り機の研究開発 大正4年(1915)地元繊維事業者の寄付により設立された桐生高等染織学校が母体。

同窓記念会館
  



■■ 労働環境と社会問題

明治中期以降、劣悪な労働環境が社会問題になる。
『女工哀史』 細井和喜蔵 大正14年(1925)
『ああ野麦峠』 山本茂実 昭和43年(1968)

野麦峠
から松本方面を望む

明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、飛騨の女性が女工として働くためにこの峠を越えた。この史実は1山本茂実の『ああ野麦峠』で全国的に有名になった。

 




■■■■■■ 世界恐慌(1929年)以後

世界恐慌で世界的に生糸価格が暴落し日本の農村も不況となる。
第二次世界大戦で欧米の絹価格が高騰する。
戦後、ナイロン、レーヨンなど人造繊維の使用が盛んになり、日本の絹生産は衰退する。
現在 中国、インド、ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生糸生産の9割を占める。日本のシェアはほぼゼロ。




■■■■■■■■ 各地に残る産業遺産 (養蚕、生糸関連)

■ 山形県鶴岡市 田麦俣の多層民家 養蚕農家

田麦俣は湯殿山登拝の道者宿や先達をつとめたり、山登りの強力などを生業とする山村。明治以降は三山参りの減少など街道集落的な性格が薄れ、田畑の耕作と山仕事のかたわら、養蚕を生業とするようになった。民家の改造改築が行われるようになり、本来寄棟屋根であった民家は、妻側の屋根を大きく開き、通風と採光を目的とした高ハッポウとよばれる高窓をとりつけた結果、カブト造りといわれる均整のとれた美しい茅葺き屋根になった。1962年岡本太郎が訪問し、感動とともに撮影した写真が素晴らしい。
 


旧渋谷家 文政5年(1822) (重要文化財) (移築先:山形県鶴岡市 致道博物館)

県内でも有数の豪雪地帯にあったこの民家は多層民家と呼ばれているもので、狭い山峡の敷地と深い雪の生活に適応して三層四層に空間を求め、二階三階、屋根裏部屋までも養蚕などの作業場や収納場として利用している。
 


■ 福島県伊達市 旧小野家(福島市文化財) 移築先:福島市福島市福島民家園 

戦前まで蚕業先進地であった県北地方の養蚕農家の典型。半切妻屋根は県北地方の養蚕農家の代表的な特徴。
一階各室の床には、蚕業時期の保温を目的とした炉が切られ、東端の下野(げや)は糸取場(いととりば)として使われた。足場式中二階と屋根裏も蚕室として利用され、明りを取り入れる工夫として半切妻屋根になっており、屋内空間のほとんどが養蚕のための造りとなっている。
 


■ 群馬県高崎市 旧内務省勧業寮屑糸紡績所(新町紡績所) 明治10年(1877)

富岡とともに建設されたもうひとつの官営模範工場。日本人の手で建設された日本で最初の機械化された先進的な大工場。
富岡製糸場のような製糸工場から出る屑糸や製糸できない屑繭を紡績して絹糸をつくる工場。この種の工場は日本にはなく、1873年のウィーン万博で渡欧した佐々木長淳の献策により設置が決まり、基本的な設備はスイスとドイツから輸入された。工場建築はウィーン万博で渡欧した新潟出身の大工山添喜三郎が担当した。
内務省から農商務省に所管が移った後、明治20年(1887)に三井組に譲渡され、いくつかの会社の手を経て明治44年(1911)に鐘淵紡績に譲渡された。
鐘紡に譲渡された前後から紡績絹糸の評判が高まり、伊勢崎銘仙の原料などとしてひろく使われた。このため大正6年(1917)には工場の大拡張が行われた。その後、大正、昭和期にも業績を伸ばし、製糸工場なども併設された。
戦後は合成繊維の分野にも進出、最盛期には約5万坪の敷地に3000人以上の従業員の働く一大工場となった。1970年代頃から繊維産業全体の退潮期を迎え、昭和50年(1975)に絹糸紡績は廃止された。その後は製糸、合繊も廃止となり、食品工場に転用されたものの工場規模は年々縮小された。

  


■ 群馬県安中市 旧碓氷社本社 明治38年(1905) (群馬県重要文化財)

小屋組・軸組に洋風の構造をもち、窓ガラスにはフランス製と思われる板ガラスを用いるなど洋風の材料・技術を大胆に採用している。明治時代に建てられた近代和風の代表的な建物であり、また、当時の群馬県の組合製糸業の発展・興隆を示す歴史的遺産として貴重。
碓氷社は東上磯部(現安中市)の豪農萩原鐐太郎(1843〜1916年)により明治11年(1878)に設立された。横浜港の開港以降、生糸の輸出量急増が粗製乱造につながり、輸出先の信用を落とし、糸の値段は下がった。糸を生産する農家は収入を減らし、苦境に陥っていく中で、農家を「組合員」としてまとめたのが碓氷社である。
碓氷社に参加した農家では、女性たちが江戸時代から伝わる座繰りで生糸を生産していた。しかし、太かったり、細かったりしたため、単独では大きな収入につながらなかったため、碓氷社では農家をまとめることで多種類の糸を大量に集め、それらを均一の品質に分類し、海外の織物業者のニーズにこたえるシステムをつくり上げた。良質の生糸を生産する碓氷社の信用は高まり、生糸は高い価格で取引された。
働いている女性は社員の妻や娘など身内ばかりで、だれもが碓氷社で働くことを誇りにしていた。
碓氷社の地盤は終戦直後、グンサンに引き継がれ、60年代前半の最盛期に県内に直営5工場を持ち、従業員1千人、年間1万俵(1俵60キロ)の生糸を生産していた。
 


■ 群馬県 前橋市蚕糸記念館 (群馬県重要文化財) 旧国立原蚕種製造所前橋支所本館 明治44年(1911)

前橋市岩神町(現、昭和町3丁目)に、国立原蚕種製造所前橋支所の本館(事務棟)として建てられたものを、前橋市が「糸の町」前橋のシンボルとして後生に遺すため、昭和56年、国から払い下げを受け、敷島公園バラ園内に移築保存した。
玄関のエンタシス状の柱、レンガ積みの基礎、上下開閉式の窓、出入口のドアの低い位置の取っ手、避雷針の設置、高い天井、大壁造、横箱目地板張、などの特長をもつ、明治末期の代表的な洋風木造建築物。館内には、養蚕・製糸に関する用具・器械等が展示されている。

 


■ 群馬県甘楽町小幡 

旧甘楽社小幡組(かんらしゃおばたぐみ)倉庫

座繰製糸を改良した組合製糸の遺構。小幡・上野地区などの養蚕農家が組織した甘楽社小幡組の繭・生糸などを保管した二階建ての倉庫。現在は甘楽町歴史民俗資料館 として利用されている。
 

かつての養蚕農家
  


■ 群馬県安中市 碓氷峠鉄道遺産 明治26年(1893) (重要文化財) 

富岡信州間をつなぐ鉄道は地元が反対したため碓氷峠経由となった。アブト式で、イギリスの技術指導を受けて橋梁、トンネル等がレンガで建設された。
養蚕・製糸業が盛んだった群馬と長野を結び、蚕種や繭・生糸の輸送を担った。

碓氷川第三橋梁(めがね橋)

イギリス人技師パウナルが設計したレンガ造の4連アーチ型構造で、長さ約91m、高さ約31mあり、200万個のレンガが使用された。
 

旧丸山変電所

碓氷線は隧道が多く、煙のため乗客や機関手が大変な苦痛を受けており、輸送力の向上も目的に明治45年(1912)日本の幹線鉄道としては初めて電化された。
電化のため、横川に専用の火力発電所が作られ、その電力を鉄道用の電圧にしたり、緊急時に備えて蓄電するために、丸山にレンガ造の変電所と蓄電池室の2棟が作られた。
アブト式鉄道は、新線の建設にともない昭和38年(1963)廃線となった。
 


■ 群馬県下仁田町 上野鉄道遺産 

三井による富岡製糸場取得(明治26年(1893))に伴い、明治30年(1897)原料運搬のため三井により上野(こうずけ)鉄道が敷設された。
上野鉄道は高崎下仁田間を結ぶ。都市部を除くと四国の伊予鉄道に続いて2番目の私鉄。当初の筆頭株主は合名会社三井銀行総長三井高保であり、株主数563人中、南蛇井以西の養蚕農家が327名を占めていた。

上野鉄道鬼ヶ沢橋梁

大正13年(1924)の電化の際、多くの上野鉄道時代の施設は姿を消したが、鬼ヶ沢橋梁は拡幅ではなくショートカットされたことと、白山赤津地域の人々の富岡方面への道路として残された。上野鉄道時代の構造物はこの橋梁と2箇所のトンネルが下仁田町白山地内に残るのみ。橋台の水当り部や縁石は強度が必要なため地元産のクヌギ石が積まれ、間の平面部には赤レンガが積まれている。レンガはイギリス積みとなっている。橋桁部は鋼板とアングル、リベット接合で構成されているプレートガーダー橋。
  

下仁田倉庫
下仁田倉庫(株)は大正9年(1920)に設立された。
営業内容は(1)倉庫業(1)物品運送業並びに生繭乾燥(1)物品並びに不動産担保金銭貸付業ほかとなっている。
上野鉄道、下仁田製糸合資会社、下仁田社、下仁田銀行とも関係が深く、会社設立と同時に上野鉄道より専用引込線を引入れ、繭、生糸、ほか青倉和紙や原料のコウゾなどを搬出していた。
  



■ 群馬県中之条町 旧富沢家住宅 (重要文化財) 

群馬県内最古級の養蚕農家で、江戸末期の建築。木造2階建て、茅葺き、入母屋造りで、桁行23.9m、梁間12.9mと大型。二階は出梁造り、屋根の正面はかぶと造りと、養蚕に適した造りになっている。

  

■ 群馬県上野村 旧黒澤家住宅 (重要文化財) 

林業で栄えた大庄屋で、建物は330平方メートルを越える大きな板葺屋で、質、保存とも良い。
この家の特色は養蚕に使われた広い二階のあることで、養蚕農家の先駆的な実例としても貴重。

  


■ 群馬県中之条町 赤岩 (重要伝統的建造物群保存地区) 

明治中期を中心とする出梁造りの養蚕農家十数棟を中心に、近代養蚕農家が良好な状態で多数現存している。

  


■ 群馬県みなかみ町 旧雲越家住宅 (重要有形民俗文化財)

江戸から明治にかけての両妻兜造り農家。明治30年(1897)生れの雲越仙太郎が使用していた生活用品4000点余りが国の重要有形民俗文化財に指定されている。養蚕農具も展示されている。

  

■ 群馬県 みなかみ町箕輪、大影 養蚕農村

多層養蚕民家が集積しており、特異な街並景観を呈している。柱と梁をあらわした豪壮な建築。往時の繁栄の面影が色濃く残る。養蚕で繁栄した当時そのままの農家は大規模で壮観。

  


■ 群馬県安中市郷原 養蚕農村

 


■ 群馬県南牧村 六車、大日向、砥沢 養蚕農村

  


■ 群馬県富岡市 妙義神社

 

青銅製燈籠
妙義神社入り口の階段の手前に建つ総高4.35mの青銅製の燈籠。元治元年(1864)「養蚕倍盛・商売繁盛」を祈願して諸国の糸繭商人、諸商人、養蚕家の人々など合計223人の寄進により建てられた。

 


■ 群馬県富岡市貫前神社

 

唐銅製燈籠
総門の前に建てられた高さ3.95mの一対の青銅製の燈籠で、慶応2年(1866)、養蚕や生糸生産の繁栄興隆を願って建てられた。県内各地の養蚕農家や生糸商人、東京や横浜の生糸・絹商人合計1,544人が献金した。

 



■ 埼玉県秩父市 内田家 (重要文化財) 養蚕農家

 


■ 埼玉県長瀞町 新井家 (重要文化財)養蚕農家
 


■ 山梨県甲州市 広瀬家住宅 (移築先:神奈川県川崎市日本民家園) 養蚕農家
 
 


■ 長野県東御市 海野宿 (重要伝統的建造物群保存地区) 

江戸時代の宿場町が明治期以降養蚕農家群に変わった。

  


■ 長野県諏訪市 片倉館 (重要文化財) 製糸業者が建設した温泉厚生施設

  


■ 長野県岡谷市 旧林家 (重要文化財) 明治30年代 製糸業者

明治9年に天竜製糸所として創業した一山カ林製糸所の初代林国蔵の旧住宅。林国蔵は片倉、尾沢とともに開明社を設立し、年番社長をつとめ、生糸の品質管理システムを構築し、日本の製糸業発展の基を築いた。
住宅は主屋と離れの座敷、茶室、洋館に分かれ、主屋の南側には繭倉庫の形式をとどめる土蔵が並ぶ。金唐紙と呼ばれる壁紙が張り巡らされている和室や欄間彫刻の希少価値が高い。

    


■ 長野県須坂市 紡績産業

小規模な水力利用の紡績を行っていた。松井須磨子は松代生まれであるが、若くして離婚した後、叔母の家である小田切家(右側)の従業員10人に満たない製糸工場で働いていた。その須磨子がある日突然行方をくらました。しばらくして早稲田島村抱月のもとで演劇を勉強しているという便りが。
 


旧田尻製糸繭蔵(ふれあい館まゆぐら)
 


■ 長野県上田市 常田 常田館と繭蔵

明治11年(1878)岡谷で創業した製糸業者が明治33年(1900)、常田館製糸場として上田工場を建設したもの。

  


■ 富山県南砺市 五箇山 (重要伝統的建造物群保存地区、史跡) 養蚕集落 

各家屋は、1階が田の字型間取りの居住空間で、2、3階で養蚕を行っており、養蚕特有の換気に配慮した作り。
玄関脇には小便所があり、小便と草を原料として、加賀藩秘伝の火薬材料である煙硝を生産していた。
集落の背後の山は開墾され、一面の桑畑であったが、養蚕が衰えると共に元の雑木林に戻ってしまった。

相倉
 

菅沼
 


■ 岐阜県白川村 白川郷 (重要伝統的建造物群保存地区) 養蚕集落

 

その他の合掌造り保存先
 神奈川県川崎市 日本民家園
 岐阜県高山市 飛騨民俗村 
 岐阜県下呂市 下呂合掌村
 神奈川県横浜市 三渓園




■■■■■■■■ 各地に残る産業遺産と現在に続く伝統工芸品 (絹織物関連)

■■ 山形

■ 米沢置賜(おいたま)紬 

紬の生産は8世紀から。江戸初期、上杉景勝が奨励した。置賜紬は、この地区で生産されている織物すべての呼び名。米琉板締小絣、白鷹板締小絣、緯総絣、併用絣、草木染紬、紅花紬の6品種あり、いずれも糸を先に染めてから織る先染めの平織(ひらおり)。

■ 米織

江戸時代上杉鷹山が奨励した。鷹山の藩政改革により桑の栽培と養蚕が盛んになり、織物は麻織物から麻絹交織、絹織物へと移行していった。
真綿を原料にした紬織物は、米琉紬、長井紬、白鷹紬と呼ばれ、のちに統一され、伝統的な置賜紬に発展していく。

上杉鷹山
 


■■ 茨城

■ 結城紬 (ユネスコ無形遺産)

結城紬は8世紀から。鎌倉時代結城氏が奨励した。
  

■■ 栃木

足利
銘仙、伊勢崎銘仙

■ 足利織姫神社

 

■ 旧足利模範撚糸合資会社工場

明治36年(1903) 建築
農商務省の輸出振興政策に基づく模範工場。足利における近代工場の先駆けとなった建物。

 

■ 旧足利織物会社工場 

大正2年(1913)〜大正8年(1919)建築
平屋構造は「赤レンガサラン工場」鋸屋根をもつのは「赤レンガ捺染工場」
足利が織物で隆盛を極めていた時に建てられたもの。
現在のトチセンは繊維だけでなく、工業製品の染色もしている。
黒い迷彩模様は、終戦直前に空襲を避けるためのカモフラージュとして施された。今ではデザインのようで面白い。

  

■ 旧木村輸出織物 

明治25年(1892)建築
工場棟は木造平屋建寄棟桟瓦葺き、外観は伝統的な土蔵造り。
内部屋根裏の小屋組は純洋式の洗練された骨組みを用いている。
旧事務所棟は、木骨石造2階建、寄棟造石綿スレート葺きの洋風建築で、明治44年(1911)建築。

 


■■ 群馬

桐生

桐生織の生産は9世紀から。
各所に鋸屋根の工場群が残る。鋸屋根の用途は二つあって、織物工場における天窓としての明るさの確保と、精錬・染色工場においての湯気や臭いの対策のため。
一般的には織物工場では山型の連続、染色工場では片屋根になっている。
桐生で鋸屋根が多いのはジャガード織機を使って織っていたため。
電気設備の進歩・普及により必要がなくなり、織物産業の衰退と共に減少していった。
工場閉鎖や建物の老朽化(雨水が溜まりやすい)により年々減少しているが、再利用で活用・保存を図っている。


■ 桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区

天正19年(1591)に桐生新町が形成されて以来、この地区は織物の中心地として桐生の経済発展を支えてきた。桐生の織物業は大正期から昭和初期に最盛期を迎え、買継商や糸商、呉服商、染物業など織物業の店舗などで街並が形成された。

 


■ 旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟附倉庫 (桐生市近代化遺産絹撚記念館)

大正6年、倉庫は昭和8年
明治35年(1902)、当時の農商務省の殖産興業施策によって現在のJR桐生駅南口の一帯に桐生撚糸合資会社として広大な工場を設置したことに始まる。
この工場は織物に加工する前の糸に「ヨリ」をかける工程を機械化したもので工場の建物は鋸屋根でフランス式の撚糸機を備えた、全国6ヶ所の「模範工場」の一つだった。
その後、明治41年に模範工場桐生撚糸株式会社、大正7年に日本絹撚株式会社と改称された。日本絹撚株式会社時代は、資本金60万円、敷地14,315坪で日本最大の撚糸工場に発展したが、昭和19年8月には軍需工場となり戦後は本格的に再建されることはなかった。
現存しているのはこの事務所棟のみ。大谷石造り洋風二階建て外面セメント漆喰、内面漆喰仕上げ。屋根は本来スレート瓦であった。関東大震災以前の洋風石造建造物については現存例は少なく、全国的にも貴重なものであり群馬県最古として位置づけられる。

 


■ 桐生織物会館旧館

昭和9年(1934)桐生織物向上のため設立された桐生織物同業組合の事務所として建てられた。外壁はスクラッチタイル張、屋根は青緑色の日本洋葺、2階窓にはステンドグラスを用いて洋風の外観となっている。現在は「桐生織物記念館」として一般公開している。

 


■ 無鄰館(旧北川織物工場事務所ほか)

現存する鋸屋根工場は、大正5年(1916)に建築され、昭和35年頃まで操業していた。現在は建築設計事務所のほか、彫刻家、画家たちの創作工房として利用されている。

 


■ 後藤織物

洋式染色技術を導入し織物の改良を行うなど桐生織物業に貢献してきた後藤織物は現在も織物生産を行っている。
現存する木造の鋸屋根工場のほか繭蔵、織物倉庫などは、織物生産のシステムをそのまま現している。

 


■ 金善ビル

桐生市内で大規模な織物工場を操業していた金善織物会社が大正10年ごろに建てたビルで、事務所として使用されていた。地上4階、地下1階建てで、県内でも初期の鉄筋コンクリート造りの建物であり、当時の桐生新町のシンボルの一つ。

 


■ 日本織物株式会社発電所跡及び煉瓦積遺構

日本織物株式会社は桐生市内で初めて鋸屋根を持つ煉瓦造りの織物工場を建てた。工場には動力及び発電用のタービンが設置され、明治22年に運転を始めた。この水力発電施設は昭和22年の水害で導水路が決壊するまで、織物産業発展の原動力となった。

 



■ 旧金谷レース工業工場及び事務所

大正8年(1919)建築。
桐生市で唯一の鋸屋根を持つレンガ造の工場。
金芳織物(金谷レース)は桐生では大店だった。
工場は現在はベーカリー。鋸屋根の構造がよくわかる。


   


■ 旧森芳工場

現在は東京芸術大学のアトリエとなっている。
  


■ 旧堀祐織物工場

昭和10年(1935)頃建築
大谷石の鋸屋根の工場で、現在は美容室で、素材を活かしたデザインと改装が見事。

 


■ 森合資会社・事務所及び店蔵

事務所は大正3年(1914)建築。 蔵は明治前期の建築。

 

■ 旧曽我織物工場

5連の鋸屋根を持つ大谷石造りの工場。

 

■ 桐生倶楽部

織物業者の社交クラブ
 


■ 桐生織物参考館 ゆかり 

現在も織物カレンダーを生産する大規模な織物業者。資料館、体験館を併設している。

   


■ 桐生彦部家 (重要文化財) 

小規模な絹織物業の姿を残す。

主屋
 

染織工場
 

旧寄宿舎(女工寮)
 




■■ 埼玉

秩父
銘仙

秩父銘仙は、崇神天皇の時代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源と言われている。
実態は帰化人による織物技術集団だとする説がある。
彼らは当時のハイテク集団で、酒造、織物など、日本の産業文化の指導を担った。
その伝統が戦後の高度成長期まで脈々と当地の織物産業を支えていた。
秩父神社の西門(黒門)の正面にある黒門通りには、秩父近郷の織物工場の出張所が建ち並び、買継商と呼ばれる仲買い商店に納める製品置場となっていた。
買継商通りは黒門通りと平行に走る通りで、織物の売買で年中繁盛していた。
店の裏側は工場出張所につながっており、商品が売れるたびにすぐ在庫補充ができる合理的な仕組みだった。


■ 秩父買次商通り 

 


■ 旧埼玉県繊維試験場秩父支場 (秩父めいせん館)

木造,平屋,寄棟造,桟瓦葺で,事務棟として内部は執務室,会議室などが配される。
主体部に比して異様に巨大な玄関ポーチを正面に突出させるとともに,大谷石積腰壁や連続した縦長の窓によってF.L.ライト風の外観を造るなど,特筆すべき造形がみられる。

 


■■ 東京

多摩織 滝山紬や横山紬 室町から 明治以降隆盛した。
本場黄八丈 室町時代から 江戸中期以降隆盛した。
村山大島紬 江戸後期から。

■■ 新潟

塩沢紬、本塩沢 江戸時代から。
小千谷紬 昭和から。
十日町絣、紬 明治から。
十日町明石ちぢみ 明治中期から。

十日町紬

 

■■ 石川・福井

■ 牛首紬

江戸初期から。戦前に隆盛した。
主に石川県白山市白峰地区において生産される紬織物。旧白峰村が明治初期まで牛首村と称されていたことに由来する。釘を抜けるほど丈夫なことから釘抜紬(くぎぬきつむぎ)とも称される。
絹糸の原料であるカイコの繭は、通常一頭のカイコが作るものだが、まれに二頭のカイコが入っているものがあり、これを『玉繭(たままゆ)』という。
玉繭は二頭の糸が内部で複雑に絡み合っているため製糸は難しいが、白峰の人々は先祖伝来の技でこの繭から糸をとりよこ糸とし、通常の絹糸をたて糸として織り上げる。これが牛首紬である。
玉繭の糸は何本もの繊維がからみつくため所々に節ができてしまう。この節は織物にしても残り、牛首紬の特徴となっている。
上等な繭は生糸や羽二重にするため出荷し、残った玉繭を利用するために織り始められたものが牛首紬の始まりである。

石川県白山市白峰

 

石川県伝統産業工芸館

 


■ 羽二重 

日本を代表する絹織物であり「絹の良さは羽二重に始まり羽二重に終わる」と言われる。 明治時代、日本の絹織物の輸出は羽二重が中心だった。 

福井県勝山市 ゆめおーれ (市文化財、国近代化遺産)

はたや記念館「ゆめおーれ勝山」は、明治38年(1905)から平成10年(1998)まで勝山の中堅機業場として操業していた建物を保存・活用したもの。 1階は、まゆ玉クラフトや手織りができる体験コーナーやスィーツのカフェコーナー、お土産処の物産販売コーナー。
2階は「繊維のまち・勝山」を紹介するミュージアムゾーン。「機屋(はたや)」の建物を活かした歴史ギャラリーと収蔵展示コーナーがある。

  


■■ 滋賀

長浜市 木之本 丸三ハシモト 楽器用の絹糸製造
 

長浜市 木之本 邦楽器糸の里〜いかぐ糸の里
 

滋賀県長浜市 浜ちりめん 


■■ 京都

京都府京丹後市 丹後ちりめん 

与謝野町 加悦(重要伝統的建造物群保存地区)
 

与謝野町 丹後ちりめん歴史館
   

■■ 九州

博多織は鎌倉時代から。 
大島紬は7世紀から。 江戸中期以降隆盛した。
久米島紬ほか





■■■■■■■■ 各地に残る産業遺産と現在に続く伝統工芸品 (絹染物、刺繍関連)

京友禅 8世紀から 江戸時代以降隆盛した。
京鹿の子絞 室町から 江戸中期以降隆盛した。
京小紋 室町から 江戸中期以降隆盛した。
京黒紋付染 江戸初期から
京くみひも 8世紀から
京繍 8世紀織部司から

名古屋黒紋付染 江戸初期から
名古屋友禅 江戸後期から

東京染小紋
東京手描友禅

■ 加賀繍(ぬい) 室町から始まり、江戸時代隆盛した。

石川県伝統産業工芸館

 

■ 加賀友禅 江戸中期から

石川県伝統産業工芸館
  


■■■■■■■絹に関する重要無形文化財

伊勢紙型
久米島紬
経錦(たてにしき)
結城紬
献上博多織
江戸小紋
紅型
佐賀錦
刺繍
首里の織物
精好仙台平
綴織
紬織
木版摺更紗
紋紗
友禅
有職織物





■■■■■■■■ 養蚕の民俗学

■■ 養蚕の起源伝承とオシラサマ

中国の馬婚姻譚が最も古く、馬と娘が恋に落ち、蚕に化すという。(捜神記 4世紀)
日本でも各地に馬と娘と蚕の伝承があり、遠野のオシラサマは有名。

■ 岩手県遠野市 遠野伝承園のおしら堂

 


■■ 蚕の神 

カイコは女性視されており、蚕の神は女性神だった。 
「さまづけに育てられたる蚕かな」(一茶)

■ 小幡歴史民俗資料館の蚕の女神像

 


■■ 蚕の社

養蚕の豊作を願い、蚕影(こかげ)神社、蚕の社が各地に作られた。 

■ 京都市右京区蚕養神社 

太秦の通称蚕ノ社、蚕養(こかい)神社は木島坐天照御魂神社(このしまにいますあまてるみたまじんじゃ)の東本殿であり、蚕が重視されていた。

 

■ 蚕影山(こかげさん)祠堂 神奈川県川崎市日本民家園

 


■■ 猫の宮 

蚕を食う鼠を退治する猫は大切に扱われ、猫を祀る神社が各地にある。 

■ 山形県高畠町 猫の宮

近くにマタギの猟犬を祀った犬の宮もある。

 


■■ 桑

■ 滋賀県近江八幡市 桑実寺(くわのみじ) 

白鳳6年(678)天智天皇の勅願寺院として創建されたと伝わる。藤原定恵が中国より桑の木を持ち帰り、この地において日本で最初に養蚕技術を教えたことによるとされる。
山号の繖山(きぬがさやま)も糸へんに散ると書き、カイコから糸を散らしてマユを作り、それが絹糸になることにちなんでつけられたものである。

 


■■ 繭玉 

養蚕の豊作祈願に繭玉が作られた。
 
愛媛県西予市 宇和卯之町
 



■■■■■■■■ 参考文献

『絹(I,II)』 伊藤智夫 法政大学出版局 1992 
『倭人の絹』 布目順郎 小学館 1995
ほか多数


■■■■■■■■ 撮影/資料編集協力 

Japan Geographic通信員

田中康平 吉野ヶ里遺跡
野崎順次 蛇塚古墳 蚕養神社
酒井英樹 錦織神社
中山辰夫 豊満神社 風俗博物館 桑実寺
大野木康夫 葵祭 西陣 杉本家住宅
小笠原生雄 文知摺観音 
柴田由紀江 旧亀岡家 横浜開港資料館 ホテルニューグランド
高橋久美子 前橋市蚕糸記念館 旧足利模範撚糸合資会社工場 旧足利織物会社工場 
柚原君子 須坂市 
川村由幸 結城市
瀧山幸伸 上記以外

■■■■■■■■ 


初版 2012年5月7日
改訂 2012年11月21日
改訂 2013年5月22日


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