安心安全で持続可能な都市(サステイナブルシティ)に関する研究

〜モデルタウン「J-town2010」の研究〜

東日本大震災の教訓と復興提言

Oct.28 2011

初稿 Apr.10 2011

瀧山幸伸

2011年6月と7月、北は岩手の宮古から南は宮城の仙台空港付近まで、被災地調査に行ってきた。

今回調査の目的は、研究を続けてきた「サステイナブルシティ」の考え方が三陸の被災地復興にも適用できるかどうかという視点での広域的検証であり、マスコミの視点とは全く異なる。現地の状況を詳しく記録し、将来の研究資料とするため、撮影枚数は1万枚近くに及んだ。以下に今回調査の概略を記す。

1. サステイナブルシティに関する研究と東日本大震災

安心安全で持続可能な都市(サステイナブルシティ)に関する研究は、当然ながら今回のような大災害を想定している。サステイナブルシティの基本は、災害対策の課題となっている、エネルギー、上水、下水、食料を各家庭で常時確保することができる災害に強い住宅ユニットで都市を構築した上に、人の生活(産業、教育、医療等)を永続させることだ。サステイナブルシティの理念の章で述べているとおり、「安全安心」は重要な理念であり、災害からの安全は都市計画にとって最重要な課題の一つである。今回の災害は明治の三陸津波から類推し想定していた範囲を大幅に超える広域に甚大な被害をもたらしたが、基本的な考え方は同じである。

被災地復興への提言は、今後の日本を、世界を、どのような社会に変えていくべきかの哲学から始まって具体的な実行案まで一貫している必要がある。既存市街地を元の姿に「復旧」するのではなく、新しく、安全で経済的な、未来へつながる都市を創るべきだ。その根拠となるのが、サステイナブルシティの理念である。理念が共有価値として合意されれば、その下での戦略や戦術の構築は比較的容易であるが、現在の混迷は産学官民問わず「理念」の欠如に起因しているのではなかろうか。

 

2. 現地事例から学ぶ

津波は天災だが、津波被害は人災だ。それぞれの被災地で因果関係を考えると、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ津波後の公的な報告書に盛り込まれた指摘事項はもちろん、 『海の壁:三陸海岸大津波』を著した吉村昭が生前警告していたように、もっと真剣に対処していれば、といたたまれなくなる。

被害は各学会で報告されている通り、メディアで報道される以上に重大で、特に土木インフラのコンクリートの脆さ、無力さが際立った。自然の脅威は想像以上で、いかに人間の「想定」が甘いかを痛いほど認識した。逆に気仙沼市吉浜のように明治三陸津波の教訓を守って高台に新しい集落を造った人々は今回の津波も免れており、改めて防災都市計画の重要さを認識した。

(1) 現地調査写真と津波到達範囲図

筆者は余暇を利用して学生時代から地理学を研究しており、全国の海岸沿いの地理を全て調査する作業の一環として、2007年と2008年に休日を利用して東北地方東海岸の調査を行った。津波で被害を受けた三陸、景勝地と産業的土地利用が進んだ仙台湾沿岸の調査には特別の注意を払ったのだが、今回の津波被害防止に貢献できなかったことはもちろん、全国の海岸線を網羅調査したと言っても写真やビデオなどきちんとした記録資料に残せていなかったことに忸怩たる思いがある。

そこで、今回は以下の方法で徹底的に資料収集を重視した調査を行った。

調査対象と参照資料: 地理学会が国土地理院の2万5千分の1地形図を元に作成した津波到達範囲図及びネット上にある地図、航空写真を参考に、津波被害を受けた地域の地理的な見地での被害状況。

調査地域: 北は岩手県宮古市田老から、南は仙台市若林区の荒浜付近まで。

写真撮影: 後日、地形図との照合及び詳細な被害状況を分析できるよう、基本的には超広角レンズ(17mmの画角)と高解像度カメラを使用し、被災した市街地は約50メートル毎に1枚、可能な限り全方向を撮影。被災した郊外地は車上から数百メートル毎に1枚、1方向を撮影。後日詳細を分析する場合、撮影地、撮影方向、被害状況を特定するにはこのように撮影するのがベストと思われる。

こちらのページに、岩手県と宮城県の津波被災地調査における記録写真の一部と、日本地理学会が作成した津波の到達範囲を示す地図を示す。

岩手県(宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市)

宮城県(気仙沼市、南三陸町、石巻市、女川町、東松島市、塩釜市、仙台市宮城野区・若林区)

(2) 教訓を活かし市街地移転で津波被害を免れた 〜気仙沼市吉浜

現地で、昭和4年生まれで昭和三陸津波も経験した柧木沢(はのきざわ)さんにお話を伺った。柧木沢さんが4歳のとき、昭和三陸津波に遭遇した。真夜中、父親におんぶされて避難した記憶が残るという。ゴオーーというすさまじいうなり音に夜も眠れなかったそうだ。

彼が話す吉浜の教訓とは、、、

「明治三陸津波が来襲する以前には、現在の県道よりも低い地域の浜辺を通る道路が主要道路で、浜辺一体の現在農地となっている区域に村の中心部があり、全体で千軒ほどあったという。明治の津波で二百から三百軒が飲み込まれた。それを教訓に、当時の村長の指導のもと、村を安全な場所に創り直す事業を行った。まず道路を津波が来ない高台に付け替えたのが現在の県道で、集落の中心部で標高17m程度である。それは大きく半円を描いて浜辺を迂回している。村はこの県道よりも低い土地には家を建てないように規制を行った。その結果、昭和三陸津波、チリ地震津波、そして今回の津波でも集落はほとんど被害を受けなかった。実際、今回の津波は県道の下ぎりぎりまで到達しており、この教訓に従わず県道よりも下に家を設けた数件は一部津波の浸水を受けた。対岸の浜辺近くの低地に建てた民宿(三階建て)は津波で跡形も無く流された。海岸の堤防はもちろん、美しい松林も津波に飲み込まれてしまったが、吉浜の集落だけは残った。他の地域の人々も吉浜の教訓を活かしてほしかった。」

というのが柧木沢さんのお話の骨子だ。柧木沢さんは浜辺の橋のたもとに津波記念碑が埋まっているのを記憶していた。このお話を伺った前日、津波記念碑が発見された。この碑は、昭和三十年代の道路工事に伴い工事の邪魔になるからと、壊すか埋めるかの決断を迫られ、結果として埋められてしまっていたのだが、今回の津波で道路も崩壊してしまったため、3mほど下の旧地盤から顔を出したのだ。石には「津波記念」という文字が深く彫られている。これが明治の津波のものか昭和の津波のものか定かではないが、すぐに完全に復元されて検証が進むだろう。改めて先人の教えを守り伝えることの難しさを痛感した。

左:吉浜の集落中心部(高台を走る県道沿い) 右:県道から浜辺へ 低地は農地に利用されていたため人的被害は無かった。

  

左:柧木沢さんにお話を伺う 右:橋のたもとから出てきた震災記念碑には「津波記念」の文字が 

  

(3) 10メートルの二重防潮堤が役に立たなかった 〜宮古市田老

田老については、2008年の夏休みを利用して津波調査を行っていたが、これほど徹底的に破壊されるとは予測できなかった。土木技術の限界を思い知らされた。

左: 崖の白い標識は明治三陸津波と昭和三陸津波の高さを示すもので、今回はそれらを上回った。上の標識は明治三陸大津波(約15m)で、田老村死者1,867人(死者率83%・全戸流失)、下の標識は昭和三陸大津波(約10m)で、田老村死者792人(死者率44%・362戸中358戸流失)。

右: 2008年夏当時の標識。人の高さと比べると津波のすさまじさがわかる。

  

急傾斜の防潮堤は破壊された。緩傾斜の防潮堤は残っているが、津波には無力だった。右は2008年夏当時の防潮堤と街並。

   

防波堤、漁港設備は津波で破壊された。

  

2008年の漁港付近(堤防上から、海側から)

  

道の駅付近 高台で、サステイナブルシティ建設候補地となりうる。旧市街地から3Km程度。

  

津波に対する社会工学的な対応がどうであったか。明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ津波における田老住民の行動とその後の対策について、東大大学院教授の社会心理学者で、防災と災害時の情報管理に詳しい池田謙一氏の田老に関する調査メモが非常に良い参考になる。なお、これらを部分的に用いた文献として、 『緊急時の情報処理』 池田謙一(1986)東京大学出版会 が出版されている。

https://JAPAN GEOGRAPHIC/special/town/j-town2010-html/bousai/sanriku_tsunami_related_articles_Ikeda2011.pdf

(4) 多くの市街地がほぼ壊滅した 

女川の市街地は壊滅的な状況だった。津波以前に同じ位置から市街地全体の姿を撮影していたので、比較すると一目瞭然だ。

上:被災後、下:2007年

 

 

市街地中心部の被災状況 側方流動(液状化)でビルが横倒しとなっている。

  

(5) 津波被害は人災 

A. 多くの児童が被災した石巻市の大川小学校

多くの児童と教職員を亡くし悲惨だった石巻市の大川小学校だが、この目で現地と周囲を確認して、問題は二つあると思った。

一つは、学校用地の選定間違い。

北上川河口付近のバックマーシュ(河川の後背湿地)に立地しており、海面との標高差はほとんどない。このような津波に弱い土地に、学校という子供たちの命を守り地域の防災拠点ともなる施設を設けることは大きな間違いだ。

もう一つは、社会工学的な間違い。

避難マニュアル、避難訓練、避難路などの不備が重なり、致命的な間違いを起こした。釜石ではそれらの成果が出たのとは対照的に、非常に無念だ。いずれの間違いも、管轄する当局の責任は重大だが、日本ではこのような事故を天災として諦めてしまう傾向がある。

欧米では人災として責任を問い、二度とこのような事故を起こさない教訓とすることが常識となっている。刑事罰として過失責任を問われ、民事では損害賠償の集団訴訟になりうるということで、地位や名誉などの社会的責任ももちろん問われる。

福島第一原発の事故は人災として損害賠償の対象となったが、電力会社の当事者も行政の担当者も諮問学者も、個人的には損害賠償責任も刑事罰も問われないだろう。「想定外」や「遺憾」などというあいまいな言葉でその場を凌ぎ、無過失なのか重過失なのかを問われない社会は健全な社会とは言えない。

「津波てんでんこ」の教訓を活かした避難マニュアルや訓練が欠如していたため、点呼を優先したこと、右側の崖には避難路が無く、避難を阻んだことが直接の被災につながったが、このような危険な土地に学校を設けたことが基本的に間違っている。

  

B. 高齢者が被災した山田町の老人保健施設「霞露」

もう一つ、大川小学校に似た悲しい事例が、岩手県山田町の老人保健施設、「霞露」だ。

海に近く風光明媚な場所ではあるが、障害を持つ高齢者施設として安全第一での立地選定がなされていなかったため、津波で多数の犠牲者が出た。

   

(6) 福島原発

こちらに関しては現地実査ができないので、同じく池田謙一氏のスリーマイル島事故対応資料を参照してほしい。いかに危機管理が難しいかが理解できる。

https://JAPAN GEOGRAPHIC/special/town/j-town2010-html/bousai/3mile_island_related_articles_Ikeda2011.pdf

3. サステイナブルシティ戦略論に基いた東日本大震災被災地復興への提言

(1) 福島第一原子力発電所災害地域 (原子力災害を受けた半径数キロ程度の範囲内)

A案 「J-town2010型サステイナブルハウス」

原子力災害を受けた半径数キロ程度の範囲内は、おそらく物理的理由以外の風評や心理的理由のため居住と農業生産に問題が生じるであろう。

その区域内では、サステイナブルシティの理念を反映し、サステイナブルシティの水と食糧の章で提示した「J-town2010型サステイナブルハウス」の実現を目指す案を推奨する。

「J-town2010型サステイナブルハウス」はセルフコンテインド型であり、住まいと水とエネルギーと食料生産(水耕栽培)のサイクルを完結しているので、原子力災害の水と土壌の汚染の影響は軽微である。

B案 「太陽光発電プラント」

人の居住や農業その他、通常の産業用の土地利用が不可能な場合には、大規模な再生可能エネルギープラントの施設用地として利用する。現状で一番有効な案は、太陽光発電プラントであろう。その中に風力発電施設を併設してもよい。現在の福島第一発電所を廃止しても、変電送電設備等はそのまま利用できるので、新しい土地に発電所を建設するよりも経済的である。

例えば、半径5kmの半円内に薄膜型太陽光発電パネルを敷き詰めると、福島第一原発6基の合計480万キロワットより大型の600万キロワット、夏の昼間ピーク時に対応可能な発電所ができあがる。その建設費用は、パネル1Kwあたり6万円として、架台等を含めて4,000〜5,000億円程度であろう。

太陽光発電は昼間のピークに対応するのみであり、原子力発電は24時間コンスタントに発電するから同一には比べられないが、同規模600万キロワットの原子力発電所を建設するには2兆円程度必要である。(九州電力が公開している玄海原子力発電所3号機118万キロワットの建設単価を援用)

太陽光発電所の運用においては、30年以上の耐久性があるし、燃料も不要で、維持費は極小である。発電所周囲の海上では、東大の石原孟教授が研究している洋上風力発電を推進する。

石原研 http://windeng.t.u-tokyo.ac.jp/ishihara/

(2) 津波被災地域

津波災害は人災であり、人智により対処可能である。災害に襲われない安全な場所に都市を創り家を建てることは基本であり、東日本大震災の津波においても、明治三陸津波の教訓を守った吉浜村などは津波の被害を最小限に食い止めることができた。

生命の尊厳は経済価値とは次元が異なる根本的な価値であり、何人も否定できない。過去の三陸における津波災害は、生命と経済性、利便性との取引であり、この過ちを繰り返してはならない。今回の津波罹災地域は、生命の安全を守るという国家と行政の基本理念に鑑み、ある程度私権を制限するべきである。

A. 高台の集合住宅型サステイナブルシティとセルフコンテインド化

具体的には、津波が到達しない場所に新しい市街地を創造する。仙台湾沿岸の平野部では津波到達の標高線程度、三陸地方ではさらに5mから10m程度のバッファゾーンよりも標高が高い区域が該当し、それよりも海抜が低い地域は居住制限(あるいは宿泊を伴う用途の建築制限)を行う。 仙台湾沿岸の平野部では、津波の到達域が内陸部まで広範囲に及んだため、がれき等を利用した防潮堤兼道路で防災効果が得られ経済的な土木工事を検討することも可能だが、三陸地方では防潮堤の効果が信頼できないので、バッファを多く取り、標高の高い土地に集合住宅型のサステイナブルシティを建設する。

津波到達区域内における私権の制限の代償として、公共が津波被災地の私有地の一部を買収し、防災等公共の福祉に資する目的の土地利用、あるいは人命と財産の安全が担保される産業用土地利用を推進する。買収対象は、住宅地も業務用地も一定面積以下、例えば住宅地は小規模住宅地(200m2)程度以下に限定する。津波被災区域は、言わば数十年に一度の大波が来る波打ち際であるので、現在の海岸線や河川堤防と同様に原則として国有地とし、厳しい利用制限を設けるが、漁業等産業関係の土地利用は建築制限を緩和する。河川敷や波打ち際や船の上に住めないのと同様である。なお、強制的な土地収用を行う必要は無い。

集合住宅型のサステイナブルシティは、J-town2010型サステイナブルハウスのような完全セルフコンテインド型は難しいが、可能な限りセルフコンテインドの理念を達成できるよう、市街地周辺部に各種施設を配置する。

例えば、上水に関しては、谷沿いに複数取水浄化拠点を持つとともに災害用井戸を多数確保し、平常時も非常時も上水を確保する。

津波被災地は居住用に利用できないので、そこに太陽光発電及び太陽熱温水プラント、集中下水処理プラント、水耕栽培プラント等を配置し、「平常時のみ」自給自足可能とする。

津波が再来した場合など「非常時」にはこの地域の施設は破壊されるので、過剰な設備投資は行わない。非常時には電力は自家発電装置または風力発電で賄う。熱源は備蓄燃料またはバイオマス(薪等)を利用せざるを得ない。

B. 漁業メガフロート

産業関係の施設も原則は津波被災地を避けるが、漁業関係は特別の対策が必要だ。今回大きな被害を受けた漁港の港湾設備や船舶を次の被害から救うためには、抜本的な発想の転換が必要だ。安全を担保しつつ、従来の漁港施設を復元するよりもコストが安い方法を検討する必要がある。

具体的には、漁業関係施設、船舶、作業員等を津波から守るため、従来の港湾施設の機能を沖合に定置する半沈降型メガフロートに集中させる。メガフロートと陸上とはシャトルボートで往復する。要するに漁業関係者が高台のコンパクトシティからメガフロートに通勤するシステムである。メガフロートの安全性と経済性については省略するが、具体的で現実的な解決法である。

cf: 財団法人 日本造船技術センター メガフロートの紹介 http://www.srcj.or.jp/html/megafloat/

4. サステイナブルシティの創造に向けて 〜宮古市田老の新都市立地案

上記提言を元に具体的な都市計画を策定するにはどうすればよいのであろうか。試みに、田老について検討してみたい。

田老は、明治三陸津波後に市街地を移転する案と防潮堤を築く案とを検討したが、結果的に防潮堤の案を採用した。当時は自動車という便利な交通手段がなかったため、漁業者が漁港近くに居住することを望んだことが最大の理由であるが、今回こそ吉浜と同様に安全な高台に新都市を建設することを真剣に検討すべきであろう。

下の図は、新しい都市計画の概念図だ。

居住部分を青の破線で示す。現在の道の駅周辺である。今後予測される田老区域の住民数は約5000人程度で、サステイナブルシティJ-town2010のモデルユニットと同規模である。赤い波線で示した旧田老鉱山を見てほしい。このような狭い区域に最盛期は1800人が働いていた。住民の数はそれ以上の集約化された町だったのだから、青線の区域に5000人1500世帯の町を創るのは難しくはない。 この区域のさらに2Kmほど北のグリーンピア田老まで平坦な高台が続いているので用地に不足は無い。また、今後建設される三陸北縦貫道へのアクセスも良いだろう。

津波被害を受け、非居住地域に指定する部分を緑の波線で示す。この地域は、農業などの産業用途とする。

原図:国土地理院

 

計画をより詳細に検討してみよう。モデル都市J-town2010では、半径800m、2Km2程度の都市区域に水耕栽培施設を併設した平屋のJ-town2010型サステイナブルハウスを1500戸収容するが、当都市計画案では、居住部分(青)と非居住部分(緑)に分けてサステイナブルシティの理念であるセルフコンテインド化を達成する。

すなわち、当地の地理的要因と経済性を考慮し、居住区域には木造ニ階建ての集合住宅と一戸建て住宅を建設する。住宅は極力現状の地形に沿って建設し、造成費を極小化させる。下水処理施設と水耕栽培施設は、各建物毎の分散処理、あるいは緑線内の津波浸水被害を受けた旧市街地周辺地区で集中浄化する。浄化した処理水は緑区域での農業用に利用する。

電力及び温水は、住宅棟の屋根に設置した太陽光発電パネルと太陽光温水器で賄うが、足りない電力は、緑区域に太陽光発電パネルを増設するか、高台に風力発電施設を建設することにより補完する。

上水に関しては、グローバル対応のJ-town2010型サステイナブル住宅は水不足に悩む国向けの雨水仕様となっているが、当地では雨水利用の必然性は無いので、区域外の取水浄水場から引水しても良い。

産業、特に漁業関係では、沖合のメガフロートに漁業関係設備を集約するため、田老港の港湾整備は必要最小限とする。その他産業に関しては特別な配慮を要する課題は見当たらない。

防災の観点から、旧市街地と新市街地の縦断図を見てみよう。A-Bの縦断図を次に示す。

 

このように見ると、旧市街地の危険性と新市街地の安全性が一目瞭然である。旧市街地は標高10m以下の超低地であるが、新市街地は標高100m以上の高台である。こうなれば、地震の度に津波に怯え、避難する必要もない。津波警報をオオカミ少年として無視する悲劇も起きない。

実は、三陸沿岸の高台には縄文時代の遺跡が残っている。田老の南6Kmに、国の史跡となっている崎山貝塚がある。海から1.5Km離れた標高120mほどの台地に立地する。6000年前から3000年前頃まで、人々がここで大規模な土木工事を行い、広場を中心とした計画的な集落を造り、この台地にわざわざ魚や貝を運んで暮らしていたのである。また、気仙地方には多くの貝塚が密集しており、大船渡湾で国の史跡に指定されている蛸ノ浦貝塚、大洞貝塚や下船渡貝塚などは、いずれも30m以上の海抜に立地し、今回の津波の被害を受けなかった。縄文海進を考慮してもサステイナビリティに優れた立地だ。

今日まで数千年、災害にあうことなく貝塚と集落跡が残っている「縄文のまほろば」は、狩猟ばかりではなく栽培もおこなっており、日本型サステイナブルシティの原点なのである。経済性、利便性に目を奪われ、危険な低地に集落を形成したことは過ちだったのではなかろうか。縄文遺跡に学ぶことは多い。

宮古市の崎山貝塚は写真中央の高台に立地する(写真:文化庁)

 

崎山貝塚 http://www.city.miyako.iwate.jp/cb/hpc/Article-641-1330.html

All rights reserved