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栃木県那須塩原市 関谷
Sekiya, Nasushiobara city,Tochigi


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Jan.2013 柚原君子

撮影 Oct.2012

戊辰戦争の時に大方の家は焼かれてしまったとのことで、比較的新しい家が連なる宿でした。那須塩原町文化財指定の常夜灯がありました。嘉永五年(1852)に建てられたもので、当時は愛宕神社の参道に一対あったそうですが正確な位置や方向は不明だそうです。常夜灯には西側に「秋葉山大権現、愛宕山」、北側に「金毘羅大権現、熊野三社」、東側に「白雲山大権現、稲荷大明神」、南側に「鷹八幡宮、午頭天王」という文字が読み取れます。台座には関係者の名前が刻まれています。関谷宿の当時の雰囲気を伝わる気がしました。関谷宿については下記にそのまま引用させていただきます。

■関谷村、宿の形成について---那須塩原・君島久雄記---参考文献;塩原町誌---

江戸幕府の御巡見使の記録として残されてある、貞享年間(1685年頃) 次々の御巡見使、天保九戌年、閏四月(1838)十二代将軍家慶代まで、凡そ百五十余年の間に、前後六回に渉る御巡見が行われたのである(室井家日記) 内三回は本陣止宿と書かれてある。最も精細な記録は天保九戌年閏四月七日(1838)のものである。宿の整備については、幕府の定めた、五街道(東海道・中山・甲州・日光・奥州)の宿駅の整備は江戸初期に作られ、奥州道中(正保1648年頃)、原街道・会津西街道は(明暦二年1656)に完備されたこれに準じて、脇街道や、地方村々を繋ぐ要路が整備されたものと考えられる※ 関谷の宿の形成の初めは、天正十八年(1590)(秀吉時代大田原晴清が関谷兼光の子を室井又右衛門と称させる)と考えることが至当と考える宿の要件としては、
@問屋場、本陣の整備
A人馬継立
B休泊施設
C交易機能
等の整備が基本であり、大小の別はあれ、これらの形が整えられて宿場を形成したのである関谷の宿割りは、最上端(現在の上宿あたり)に関谷寺(かんこくじ・大田原藩の黒印状寺)があり、宿通り、幅九間、屋敷割両側に、一軒分九間三尺幅、本陣、問屋、名主はその倍の屋敷幅を持つ構として整備された。両側にそれぞれ、二十屋敷に近い家並を見たのである。休泊施設家号(本陣、問屋、岸屋、梅屋、大坂屋、会津屋など)原型は、古宿より移転され、愛宕神社の常夜灯も宿内を照らした。又、上の内鷹八幡宮は、大田原公の祈願の場所でもあったのである又、関谷村は大田原藩領であり、塩原は宇都宮藩領であった。従って関谷はその接触地として、既に安貞二年(1228)には関谷より塩原へ馬道開くとあり、塩原にとっては、往来の出入口、物資の移入口等緊急の関係にあったのである此の事から、藩に於ても、其の整備に大いなる傾注をしたものと思う。察すれば、大田原藩に於ては治下領内代表の宿村として、御巡見の宿泊の所に定めた事と思う。

                    

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