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東京都荒川区 芋坂
Imozaka,Arakawaku,Tokyo

Category
評価とコメント
 General 総合評価
 
 Nature 自然環境(主に緑)とエコロジーへの配慮。
 
 Water 水への配慮

 Sound/Noise 音への配慮 良い音、騒音など
 
 Atmosphere 大気への配慮(風、香り、排気など)

 

 Flower 花への配慮

 Culture 文化環境への配慮(街並、文化財、文芸関連)
  
 Facility 設備、情報、サービス

 Food 飲食

瀧山幸伸

「芋坂も団子も月のゆかりかな」 


荒川区東日暮里5-52と54との間にあり西南向きに上る坂。

始点 北緯35度 42分 秒、東経139度 45分 秒 標高 約10m
終点 北緯35度 42分 秒、東経139度 45分 秒 標高 約20m
坂延長 約 m

現在の芋坂


国土地理院 1/25000地図 



江戸切絵図 (国土地理院所蔵)



芋坂と言えば坂下の羽二重団子が特に有名だ。新婚の森鴎外も根岸に居を構えていたが、正岡子規との関わりが深い。


子規は晩年の明治27年(1894)から明治35年(1902)までここに居住し生涯を終えた。
新聞『日本』の記者を経て雑誌『ホトトギス』を創刊した子規はがこの庵で開催した句会・歌会には、漱石、鴎外はじめ、 伊藤幸千夫、長塚節などが参加した。

子規庵 戦災で焼失したが昭和25年(1950)再建された。

 

羽二重団子周辺 
王子街道と芋坂の辻にある老舗の創業は文化文政時代に遡る。店の外観はやはり小竹で和風に演出され緑陰を提供している。建物内部の席は中庭に面しており、庭の形式は山水式である。葉が風にそよぎ陽が洩れて美しい。ガラス張りなので葉擦れの音が聞こえないのは残念だが。店の調度も当然ながら和風であり落ち着く。入口付近に江戸時代の店舗図や時代物の調度品、事務用品が展示されている。一つ一つに当時の人々の息吹が感じられて面白い。
 

子規が取り上げた羽二重団子は、まずはじめに、
明治32年、新聞『日本』で

こゝに石橋ありて芋坂團子の店あり。繁昌いつに變わらず。店の内には十人ばかり腰掛けて喰ひ居り。店の外には女二人彳みて團子の出來るを待つ。根岸に琴の鳴らぬ日はありとも此店に人の待たぬ時はあらじ。戯れに俚歌を作る。 
 根岸名物芋坂團子賣りきれ申候の笹の雪
と紹介している。


『仰臥漫録』で、間食に団子を

九月四日 朝曇 後晴
昨夜はよく眠る 新聞『日本』『二六』『京華』『大阪毎日』を読む例の如し 『海南新聞』 は前日の分翌日の夕刻に届くを例とす
朝雑炊三椀 佃煮 梅干 牛乳一合(ココア入り) 菓子パン二個
昼鰹のさしみ 粥三椀 みそ汁 佃煮 梨二つ 葡萄酒一杯(これは食事の例なり 前日日記にぬかす)
間食 芋坂團子を買来らしむ(これに付悶着あり) あん付三本焼一本を食ふ 麦湯一杯

主要な作品としては『寒山落木(三)』『俳句稿巻一』で多く取り上げている。

芋阪に名物の團子あり
芋阪も團子も月のゆかりかな

根岸名所ノ内
芋阪の團子屋寝たりけふの月

元光院観月会
芋阪の團子の起り尋ねけり
名物や月の根岸の串團子
秋昔三十年の團子店

短歌会第四会
芋阪の團子売る店にぎわひて團子くふ人團子もむ人



羽二重団子は夏目漱石の『吾輩は猫である』にも「芋坂の團子」として登場する。
---「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行つて団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食つた事がありますか。奥さん一辺行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱へ下りる。吾輩は又少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で團子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、又尾行する勇気もないからずっと略してその間休養せんければ成らん。

その他、泉鏡花の『松の葉』、田山花袋の『東京の近郊』、久保田万太郎の『うしろかげ』などにも登場するが、作品の主題ではないので省略する。

創業当時を再現した「羽二重団子江戸オリジナル店」が別にあれば面白いだろう。当然空調は無いから、夏の暑さや冬の寒さを体現できる。街道の茶店だから、徒歩が必須条件。上野から茶店までの道中手形、いわゆるタイムスタンプがなければ入れないし買えない。車で行くことは原則禁止とするが、ペナルティ料金を払えば買える。そのような「苦労して調達した貴重品」を包んでもらえば、訪問客にとっても主人にとっても価値があろう。さらに鈴木晴信の浮世絵に登場するような粋な着物を着た笠森お仙のような看板娘が欲しい。お仙は天王寺(現谷中霊園)にあった水茶屋鍵屋の売れっ子娘。江戸中の人が見物に来た、今で言うスーパーアイドルだろう。
 



芋坂周囲の様子は、寺田虎彦の『子規自筆の根岸地図』が興味深い。

 子規の自筆を二つ持っている。その一つは端書(はがき)で「今朝ハ失敬、今日午後四時頃夏目来訪只今(九時)帰申候。寓所ハ牛込矢来町(やらいちょう)三番地字(あざ)中ノ丸丙六〇号」とある。片仮名は三字だけである。「四時頃」の三字はあとから行の右側へ書き入れになっている。表面には「駒込西片町(にしかたまち)十番地いノ十六 寺田寅彦殿 上根岸(かみねぎし)八十二 正岡常規(つねのり)」とあり、消印は「武蔵東京下谷(したや) 卅三年七月二十四日イ便」となっている。これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京した事をわざわざ知らしてくれたものと思われる。その頃自分は大学二年生であったが、その少し前に郷里から妻を呼びよせて西片町に家をもっていたのである。
「今日」とあるのは七月二十三日だろうと思われるのは消印が二十四日のイ便であるのに「只今(九時)帰申候」とあるからである。夏目先生が帰ってからすぐに筆をとってこの端書をかき、そうして、おそらくすぐに令妹律子さんに渡してポストに入れさせたのではないかとも想像される。それが最後の集便時刻を過ぎていたので消印が翌日の日附になったものであろう。
 それはとにかく「四時」「九時」と時刻を克明に書いている所に何となく自分の頭にある子規という人が出ているような気がする。そうかと思うと日附は書いてないのも何となく面白い。
 配達局の消印も明瞭で駒込局のロ便になっている。一体にその頃の消印ははっきりしていたが、近頃のは捺(お)し方がぞんざいで不明なのが多いような気がする。こんな些末なところにも現代の慌だしさが出ているかもしれないと思われる。
 もう一つの子規自筆の記念品は、子規の家から中村不折(ふせつ)の家に行く道筋を自分に教えるために描いてくれた地図である。子規常用の唐紙に朱罫(しゅけい)を劃した二十四字十八行詰の原稿紙いっぱいにかいたものである。紙の左上から右辺の中ほどまで二条の並行曲線が引いてあるのが上野の麓を通る鉄道線路を示している。その線路の右端の下方、すなわち紙の右下隅に鶯横町(うぐいすよこちょう)の彎曲(わんきょく)した道があって、その片側にいびつな長方形のかいてあるのがすなわち子規庵の所在を示すらしい。紙の右半はそれだけであとは空白であるが、左半の方にはややゴタゴタ入り組んだ街路がかいてある。不折の家は二つ並んだ袋町(ふくろまち)の一方のいちばん奥にあって「上根岸四十番不折」としてある。隣の袋町に○印をして「浅井」とあるのは浅井忠(ちゅう)氏の家であろう。この袋町への入口の両脇に「ユヤ」「床屋」としてある。この界隈(かいわい)の右方に鳥居をかいて「三島神社」とある。それから下の方へ下がった道脇に「正門」とあるのはたぶん前田邸の正門の意味かと思われる。
 もちろん仰向けに寝ていて描いたのだと思うがなかなか威勢のいい地図で、また頭のいい地図である。その頃はもう寝たきりで動けなくなっていた子規が頭の中で根岸の町を歩いて画いてくれた図だと思うと特別に面白いような気がする。
 表装でもしておくといいと思いながらそのままに、色々な古手紙と一しょに突込んであったのを、近頃見せたい人があって捜し出して書斎の机の抽斗(ひきだし)に入れてある。せめて状袋にでも入れて「正岡子規自筆根岸地図」とでも誌(しる)しておかないと自分が死んだあとでは、紙屑になってしまうだろうと思う。

 こんな事を書いていたら、急に三十年来行ったことのない鶯横町へ行ってみたくなった。日曜の午後に谷中(やなか)へ行ってみると寛永寺坂に地下鉄の停車場が出来たりしてだいぶ昔と様子がちがっている。昔の御院殿坂を捜して墓地の中を歩いているうちに鉄道線路へ出たがどもう見覚えがない。陸橋を渡るとそこらの家の表札は日暮里(にっぽり)となっている。昨日の雨でぐじゃぐじゃになった新開街路を歩いているとラジオドラマの放送の声がついて来る。上根岸百何番とあるからこの辺かと思うが何一つ昔の見覚えのあるものはない。昔の根岸はもうとうに亡くなってしまっている。鶯横町も消えているのではないかという気がして心細くなって来た。とある横町を這入って行くと左側にシャボテンを売る店があった。もう少し行くと路地の角の塀に掛けた居住者姓名札の中に「寒川陽光」とあるのが突然眼についた。そのすぐ向う側に寒川氏の家があって、その隣が子規庵である。表札を見ると間違いはないのであるが、どういうものか三十年前の記憶とだいぶちがうような気がする。門も板塀も昔の方が今のより古くさびていたように思われ、それから門から玄関までの距離が昔はもっと遠かったような気がする。もちろん思い違いかもしれない。ただ向う側の割竹を並べた垣の上に鬱蒼と茂って路地の上に蔽いかぶさっている椎(しい)の木らしいものだけが昔のままのように見える。人間よりも家屋よりもこうした樹の方が年を取らぬものと思われる。とにかくこの樹の茂りを見てはじめて三十年前の鶯横町を取返したような気がした。
 帰りにはやっぱり御院殿の坂が見付かった。どこか昔の姿が残っているが昔のこんもりした感じはもうない。
 鶯横町の椎の茂りを見ただけで満足してそのまま帰って来てよかったような気がする。三十年前の錯覚だらけの記憶をそのまま大事にそっとしておくのも悪くはないと思うのである。
 帰ってから現在の東京の地図を出して上根岸の部分を物色したが、図が不正確なせいか鶯横町も分らないし、子規自筆地図にある二つの袋町も見えない。ことによるとちょうどその辺を今電車が走っているのかもしれないのである。

御院殿坂の由来の御隠殿は寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸のことであり、昔寛永寺の北門から根岸に抜ける坂であった。
やはり子規が取り上げている。

御院田にて鳴雪不折両氏と別る
月の根岸闇の谷中や別れ道 

紅葉坂は、日暮里南口から天王寺に上る坂だが、名の由来は不明である。


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