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東京都文京区 団子坂
Bunkyo Dangozaka
文京区千駄木二丁目と三丁目境にあり、不忍通り団子坂下交差点から西向きに上る坂。
始点 北緯35度43分29.57秒、東経139度45分46.77秒 標高 約10m
終点 北緯35度43分30秒、東経139度45分39.48秒 標高 約20m
坂延長 約150m
Category
評価とコメント
 General 総合評価
 
 Nature 自然環境(主に緑)とエコロジーへの配慮。
 坂は緩やかに湾曲しており、視覚的に美しい。道路脇の石垣にも風情が感じられる。
 Water 水への配慮

 Sound/Noise 音への配慮 良い音、騒音など
路線バスのルートでもあり、交通量が激しくあわただしい雰囲気である。
 Atmosphere 大気への配慮(風、香り、排気など)

 

 Flower 花への配慮

 Culture 文化環境への配慮(街並、文化財、文芸関連)
  建築物は情緒を感じさせるものがほとんどなく単調である。漱石鴎外などの文学に登場する。特に「三四郎」のベストシーンとして描写されている。
 Facility 設備、情報、サービス
坂の景観を楽しむスポットはなく、無料休憩設備もない。
 Food 飲食






写真:現在の団子坂


               

国土地理院 1/25000地図 

 

江戸切絵図 (国土地理院所蔵)
 


別名、千駄木坂、潮見坂、七面坂という。
千駄木坂の由来は、幕府の御林地がこの地にあったことに由来した町名「千駄木」にある坂であるため。御府内備考に「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ」とある。
「千駄木」の由来は、一日千駄の薪を採取していた雑木林があったから、あるいは太田道灌がセンダンを植えたからといわれているが、確証はない。
当時の武蔵野台地の植生と土地利用からして雑木林説を支持する。
潮見坂の由来は、坂上から江戸湾が遠望できたことに由来する。
坂の中腹に居を構えた森鴎外が居宅を観潮楼と命名したことからも、風光明媚な坂であったことが推察される。
森鴎外は「細木香以」で光景をこのように描写している。

---崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している。小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端が見え、この端と向丘との間が豁然として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、此方角である。

写真:観潮楼跡

   


七面坂に関しては、混乱が見られる。現在、この坂の東北側、延命院から始まり宗林寺までが七面坂と呼ばれている。
江戸名所図会の巻之五第十四冊には「七面大明神社: 慶安元年(1648)三沢の局甲斐の七面山へ千日の間参籠し夢中に鱗一枚を感得す。よって当社を建立し厳命によって延命院と号くるとぞ」とあり、それに因み命名されたと思われるが、それがいつからのことかはわからない。一方、同じく江戸名所図会の巻之五第十五冊では「根津神社旧地」図に団子坂が描かれ、右下に小さく七面宮が添えられている。七面の宮が2か所にあったことに由来する混乱である。
  


団子坂に関しては、坂が急で団子のように転ぶ人が絶えなかったからという説と、近辺に団子屋があったからとの説がある。


写真:明治後年の団子坂 大谷新助「谷根千同窓会」


団子坂と文学との関連では、漱石の「三四郎」が卓越している。その他、森鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」にも登場するし、 江戸川乱歩が「D坂殺人事件」で取り上げたD坂は団子坂のことと言われている。
団子坂の菊人形が物語の山場として登場する、漱石の「三四郎」の主人公を題材にこの坂を考察してみたい。

さて、最初に菊人形の変遷を追ってみよう。江戸時代、現在の文京区から豊島区にかけては植木農家が多く、文化9年(1812)染井で菊細工、今で言えばトピアリーのようなものが始まっているが、その後下火になっていた。弘化元年(1844)には、巣鴨霊感院の会式、白山神社内八幡宮や妙清寺の開帳もあり、大いに流行した。
その後再び下火になるが、安政元年(1854)団子坂の植木屋が主流となり、従来の動物や名所をを模した出品から歌舞伎を題材としたものに変わった。
団子坂には嘉永5年(1852)「花屋敷紫泉亭」を始めた植木屋、楠田宇平次のほか、浅草花屋敷を開いた森田六三郎、藪蕎麦の元祖蔦屋の三輪傳次郎らがおり、料亭茶店で菊人形を見せながら飲食を供する趣向が当時の庶民にもてはやされた。
歌川広重は「名所江戸百景」で「千駄木団子坂花屋敷」として紫泉亭付近の景観を描写している。

「名所江戸百景;千駄木団子坂花屋敷」 歌川広重
 

広重が描いたのは春の花見であるが、菊人形小屋はどのようなものであったのだろうか。
団子坂菊人形は、明治9年東京府から木戸銭収受の許可を受け正式に興業化し、明治20、30年代に黄金期を迎える。歌舞伎や時事ニュースを題材に、回り舞台やジオラマに人形師が作った迫真の人形頭を付けて興業を打って膨大な人気を誇っていたが、明治42年に両国国技館で大規模な菊人形の興業が始まり、大正期には国技館での乃村泰資(乃村工芸社の祖)のディスプレイによる大胆な興業に圧され、マンネリ化とともに廃れていった。

最盛期の団子坂菊人形の再現風景 (文京ふるさと歴史館)
 

「新撰東京名所図会」第50編 本郷区の部 その3 明治40年(1907) (文京ふるさと歴史館)
 

菊人形の頭 (文京ふるさと歴史館)
  



『三四郎』は夏目漱石が 1908年9月から12月にかけて朝日新聞に連載したものである。
主人公の三四郎と美禰子について、三つの世界が描かれる。 
第一の世界は、三四郎の故郷に象徴される、田舎・大衆・素朴さの世界であり、物語の随所で三四郎がこの世界から決別できていないことが描写されている。
第二の世界は、三四郎・野々宮・広田に象徴される、都会・学問・素朴さの世界であり、三四郎の将来を暗示させるが、明確な進路として確立していない。
第三の世界は、美禰子や彼女の婚約者に象徴される、都会・社交・恋愛のセレビリティ界である。

三四郎は第一の世界観に浸っているばかりか、意気地無しでもある。名古屋での女性からの誘い、母親が我が子の意気地なしをこぼす愚痴、大久保での轢死事件が三四郎の女性への潜在的恐怖心を煽ったことが物語の伏線となっている。さらに三四郎は第二第三の世界の共通価値、芸術にも無関心である。美禰子と二人だけとなる展覧会での会話があまりにも退屈で不調和となり、第一の世界の巻貝と化している。

この三つの世界観、人生観の違いがモラトリアム状態の学生にもたらす苦い経験の小説であるが、『それから』『門』に続く序章の意味合いを持った作品だ。
三四郎がモラトリアムから抜け出して第二第三の世界に進むことはかなり難しいだろう。
漱石の創作の源泉となった人生観、世界観がいかに形成されたかは本論の趣旨ではないが、彼自身の内部世界観、(人生を主体的に変えうる尺度(Locus of control))をこの3つの世界観との関連で考えてみたい。
漱石にとって第一の世界は、無意識のうちに培ってきた旧型の日本人としての遺伝子であり、幼少期の浅草での生活が、歌舞伎、寄席、菊人形などの嗜好を生んでいる。第二の世界は、漢文の素養の延長で形成された学究肌の世界で、帝大、英文学、留学の世界だが、遁世的世界観だ。第三の世界は、西欧文明と俗世間と権威の世界であるが、これは漱石の好むところではない。これら3つの世界観の葛藤が数々の作品の下地となっていることが強く感じられる。 

美禰子とはどのような女性なのだろうか。
美禰子のモデルは平塚らいてうだといわれている。平塚が興した青鞜社は団子坂に事務所を構えていた。「青鞜」の表紙絵は、高村光太郎の妻となる長沼ちえによるものだ。高村の住居はここから近い。三四郎が新聞に連載される年の春3月21日、平塚らいてうと森田草平の塩原心中未遂事件が起きた。漱石が世間の耳目を集めたこのスキャンダルを創作に反映したのは事実だろうが、平塚らいてうモデル説にしては美禰子の描写が具体的すぎる。おそらく漱石の実体験、すなわち平塚らいていよりももっと近くでもっと親しい関係だった女性、例えば漱石が青春時代に交際した女性の実際の言動を反映していると思える。そのモデルの候補として、漱石があこがれていたが結果的に失恋したと言われている大塚楠緒子のほうがふさわしい。

 



三四郎池での出会いの場面は、いささか品性を欠くほどの劇画的な描写である。

---「ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目付を形容するにはこれより外に言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうして正しく官能に訴えている。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴え方である。甘いものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴え方である。甘いと云わんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違う。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な目付である」

団子坂菊人形で二人きりになる場面も同様である。おそらくその場の三四郎は腑抜け男のように口を開けていただろう。

---「どうかしましたか」と思わず言った。美禰子はまだなんとも答えない。黒い目をさもものうそうに三四郎の額の上にすえた。その時三四郎は美禰子の二重瞼(ふたえまぶた)に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸(ひとみ)とこの瞼(まぶた)の間にすべてを遺却(いきゃく)した。



ヒロイン美禰子について、もう少し深く考察してみたい。
漱石はグルーズの絵を美禰子のヴォラプチュアス(肉感的)な印象の引き合いに出しているが、現代の肉感的という表現とはずいぶん異なることを考慮すべきである。
漱石がロンドンのウォーレスコレクションやぱりのルーブルで絵画を鑑賞していたとしたら、彼の脳裏にあったイメージが何だったかは自ずと知れよう。
美禰子は、グルーズやロココスタイルのブーシェというよりは、バロックのフラゴナールという印象に近い。

「こわれた瓶」グルーズ1785 ルーブル美術館
 


「読書をする女」 フラゴナール 1775頃 (ワシントン ナショナルギャラリー)
 

他に美禰子の印象に近い絵画は、モネの「日傘をさす女」ではなかろうか。三四郎池での白い衣装とこの絵画のドレスの印象が重なって見える。

「日傘を差す女(モネ夫人)」モネ1875 (ワシントン ナショナルギャラリー)
 

日本の画家でいえば、当時の権威、黒田清輝だろう。
「湖畔」のモデルは、のちに清輝の妻となった当時23歳の金子種子である。

「湖畔」黒田清輝 1897 東京国立博物館

 

漱石の執筆と同時代の世俗が求めた美人イコンとして参考となるのは、三越のポスターではなかろうか。
「むらさきしらべ」と題されたポスターの原画は、岡田三郎助の「婦人像」1907三越重役高橋義雄夫人をモデルにしたといわれている。
漱石の「虞美人草」発表に合わせ三越が事前に「虞美人草浴衣」を商品企画していた。漱石は三四郎の創作においても世間がどのような美人像を求めているかに関心があったはずである。

三越ポスター 「むらさきしらべ」 1909
 


次に、 「坂上の世界」と「坂下の世界」について考えてみたい。 
団子坂上は、大学に関係する知識人と実業人の居住する世界であり、第二第三の世界を形成する。
団子坂下は、菊人形や乞食が登場し、大衆が第一の世界を形成する。
第一の世界の空気を吸いに、あるいは癒されに、漱石は散歩する。坂下の世界を無意識に賛美している。

---ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、団子坂(だんござか)の上から、左へ折れて千駄木(せんだぎ)林町(はやしちょう)の広い通りへ出た。秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。こういう空の下に生きていると思うだけでも頭ははっきりする。そのうえ、野へ出れば申し分はない。気がのびのびして魂が大空ほどの大きさになる。それでいてからだ総体がしまってくる。だらしのない春ののどかさとは違う。三四郎は左右の生垣(いけがき)をながめながら、生まれてはじめての東京の秋をかぎつつやって来た。
坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである。坂を曲がる時は幟(のぼり)さえ見えた。今はただ声だけ聞こえる、どんちゃんどんちゃん遠くからはやしている。そのはやしの音が、下の方から次第に浮き上がってきて、澄み切った秋の空気の中へ広がり尽くすと、ついにはきわめて稀薄な波になる。そのまた余波が三四郎の鼓膜(こまく)のそばまで来てしぜんにとまる。
騒がしいというよりはかえっていい心持ちである。
三四郎の間違いは、菊人形で平常心を失った美禰子を自分の好きな第一の世界へ誘ってしまったということだ。第二第三の世界である坂上に行くべきだった。
坂はロマンの源泉である。上り坂で恋愛し、下り坂で失恋する。
それはなぜなのか。その要因として三つ挙げる。
1.ヴィスタ
2.登坂中の視線 
3.登坂運動のダイナミズム
が考えられる。 
ヴィスタに関しては、坂上からの雄大な俯瞰が心理的な解放感をもたらし、それに登坂の高揚感、達成感が加わり、前向きな行動への決断動機が生まれるのではなかろうか。
登坂中と降坂中の男女の視点視線が異なることは重要だ。通常平地では男性が女性を見下ろす視線だが、登り坂ではお互いの位置関係により非日常の視点と視線があり、新鮮な発見がある。
登坂はダンスと同様の男女共同の運動である。坂を登る姿のダイナミックな肉体美とともに、運動に伴う呼吸心拍の増加、発汗などの生理的変化がお互いの意識を高めるのではなかろうか。
要するに、登り坂で躁状態となり、下り坂でうつ状態となるのではなかろうか。『三四郎』の創作と当時の外国作家についてはどう考えたらよいのであろうか。
議論の材料としてメレディスが取り上げられるが、ハーディの『帰郷』が比較の対象として興味深い。田園生活と都会生活、ライフスタイルの相違と男女関係というテーマは漱石作品共通のものであるし、文明の疲れを感じている現代人の激しく同意するところではなかろうか。 
同じくハーディの『ダーバヴィル家のテス』テスが純情であるがゆえに不幸な人生を歩む、肉食系男と草食系男に人生を翻弄される女主人公は違う意味でstray sheepだ。

漱石は、迷子(stray sheep)のアナロジーで何を言いたかったのだろうか。
聖書のルカ福音書15章に、「罪深い人」と記述されているstray sheepとは、愛なき美禰子が三四郎を傷つけた行為を指す。

---「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味(いやみ)のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調(くちょう)であった。
「迷える子(ストレイ・シープ)」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸(いき)を感ずることができた。
「迷子の英譯を知つていらしつて」
三四郎は迷へる子の何者かをすぐ悟つた。のみならず、端書の裏に、迷へる子を二匹書いて、其一匹を暗に自分に見立てて呉れたのを甚だ嬉しく思つた。

美禰子が「我は我が咎を知る。我罪は常に我前にあり」という罪とは、 三四郎、野々宮、結婚相手に対する罪であり、美禰子が展覧会場で野々宮と三四郎を愚弄した罪であり、三四郎に好意を寄せつつも、第一第二の世界と第三の世界ではライフスタイルが合わないため決別を決意した罪であろう。美禰子は自分自身でも明確な意思を持たないまま複数の男を候補または駆け引きに利用したという罪の意識がある。
キリスト者である美禰子と、ホーソーンの『緋文字』に描かれるヒロイン、ピューリタンのヘスターに与えられた姦通罪の試練が想起される。漱石の『三四郎』は『それから』や『門』で描かれる、より深刻な男女関係の倫理問題の序章としての作品と位置づけられる。
参考文献 
「細木香以」「ちくま文庫 森鴎外全集6」 森鴎外 筑摩書房
「菊人形今昔」 特別展図録 2002年10月 文京ふるさと歴史館
「大日本古記録 斎藤月岑日記」斎藤月岑 岩波書店
「漱石の源泉 創造への階梯」 飛ヶ谷 美穂子 慶應義塾大学出版会 2002年10月
メレディスと漱石 (一) : 受容と変質 和泉 一 「近代」 35, p.91-117 神戸大学「近代」発行会 1964年2月