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東京都板橋区 乗蓮寺

Jorenji,Itabashiku,Tokyo

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Oct.6,2015 柚原君子

所在地: 板橋区赤塚5−28−3 

乗蓮寺は、応永年間(1394年〜1427年)に創建されたと伝えられる寺院です。1591(天正19)年に徳川家康から十石の朱印地が与えられ、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられた格式ある寺院です。当時は仲宿にあって(板橋区仲宿交差点と山手通りの間のマンション地のあたり)、八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われた寺院です。徳川家由縁ですので、徳川葵(江戸後期・13本芯の葉の)の紋が許されて、門や本殿などに飾られています。1973(昭和48)年に国道17号線の拡張や首都高速5号線の工事の為に現在地(千葉氏の居城であった赤塚城の二の丸跡地)に移転してきました。正面の門または脇の入り口から急な階段を上がります。山門は見ごたえがあります。表側には金剛力士(仁王様)裏側には毘沙門天様がお立ちです。くぐると右側に黒い大仏様(阿弥陀如来)が半眼でお座りです。手の組み方、背中の丸み、どこからみても優美な姿です。新緑、桜、紅葉、雪景色、どの景色にも映えそうですが、夕陽があたる晩秋はとても美しいとの評判があります。私も夕方まで待ってみたのですが、あいにくと夕陽は雲にかくれてしまい、残念な結果でした。

参拝の方も多く、線香が絶えません。小学生の遠足、社会見学の一団も見学中。銀杏が落ちて秋色真っ盛りでした。

寺院内には乗蓮寺の代名詞ともなる東京大仏(阿弥陀如来)、飢餓供養塔、藤堂家より寄進された石仏、冒険家植村直己氏のお墓、板橋宿本陣・豊田家のお墓などがあります。

                                         

■東京大仏(または赤塚大仏)

案内板によると、この大仏様(阿弥陀如来)は乗蓮寺住職23世正誉隆道さんが、1974(昭和49)年に、88歳にて発願して完成まで3年が掛かっていると、書かれています。大仏様は高さ13メートルの青銅製で重さが32トン。浅草の翠雲堂制作だそうです。鋳造大仏としては、奈良、鎌倉に次いで3番目の大きさとのことですが、そうかな?という程度にとどめます。新東京百景にも選ばれています。境内は落ち着いた雰囲気です。樹木や池、本堂などあらゆる角度から東京大仏をとらえることができて、四季折々の風景の中で静かに鎮座されています。

                                            

■天保の飢饉供養塔

江戸時代は三大飢饉があり、天保の飢餓もその一つでした。多くの人が亡くなりました。たくさんの小さなお地蔵様が供えられて、お線香の煙が絶えません。飽食の今を反省しながらお参りしました。

教育委員会の立て札は次のように書かれています。

「天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の一つに数えられています。1833(天保4)年から同7年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。

幕府は、白米や銭を支給するとともに、1837(天保8)年には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に務めましたが、亡くなる者はあとを絶ちませんでした。

この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮誉上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸時代中期の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀仏」の名号が、また台座には同8年3月から11月の間に亡くなった423人(男333人、女49人、子供41人)の戒名が刻まれています。

昭和61年度に板橋区の文化財(歴史資料)に登録されました。」

   

■伊勢国津藩藤堂家石仏群

乗蓮寺には東京大仏のほかに目を引く石仏群があります。伊勢国津藩の初代藩主となった藤堂高虎が豊臣秀吉政権下の朝鮮出兵で半島に渡り、その際に持ち帰った石仏。それら石仏は、明治時代に津藩の家老職を務めていた寺村家の庭先に移されていたのですが、現在は乗蓮寺に寄進されています。

泣きそうな笑いそうな鬼は「何でも耐える がまんの鬼」という立て札が立っています。鬼は強いイメージですが童話の世界でも心優しく弱い立場で描かれることも多いので、うなづけるような石像です。

ゆるい坂の途中には役 小角(えんのおづの /おづぬ)の石像があります。飛鳥時代から奈良時代の呪術者である実在の人物として、また修験道の開祖といわれる役小角の姿です。山伏の姿で修行を続ける像や絵ではいろいろあるようですが、この像は随分と優しそう。ほんとうに修験道の開祖?本人?と思ってしまいます。役小角は1799年(寛政11)年には朝廷から「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の号を贈られていますので、菩薩様ではありますけれどもね。役 小角は鬼をも従えたという言い伝えがありますから、その手前にある「何でも耐える がまんの鬼」は、ちょっとおもしろい流れにみえます。

そのお隣は奪衣婆(だつえば)。閻魔大王の后とも言われていますが、ご存知のように三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた死者の衣服を剥ぎ取ってしまうおばあさんです。左ひざを立てて口を大きく開けたお決まりの姿です。

そのお隣は蓮の上に乗ったお姿のまま、獅子の背に乗っている「文殊菩薩騎獅像」です。

カワイイという言葉で処理するのは好きではありませんが、おもわず可愛い獅子だなぁ、と思ってしまいました。……とこれらは境内の散策道にありますが、実は我慢の鬼の奥に入って行く道があり、その奥に、なんともゆったりと福々しい大黒様が一体あります。

                              

■板橋宿本陣主豊田家と冒険家植村直己氏のお墓

乗蓮寺には有名なお墓が二つあります。一つは、世界5大陸最高峰登頂、犬ゾリによる北極圏の完全走破などの冒険を成し遂げ、1984(昭和59)アラスカのマッキンリーで冬季世界初単独登頂に成功した後に消息を絶ってしまった冒険家植村直己氏のお墓です。消息不明後、二度に渡って捜索がなされましたが遺体は発見されていません。墓石には詩人草野心平さんが詩を寄せています。『地球には もう彼はいない けれども生きている 修身に化けて 植村直己は 私たち心中に 生きつづける』

もう一つの墓石は、というより墓所でしょうね。乗蓮寺が中山道の仲宿にあった関係でしょうか、板橋宿の仲宿で本陣を仰せ付けられていた豊田家の墓所があります。現在板橋区仲宿には本陣の跡碑が立っているのみですが、こんなに遠く離れた赤塚に菩提寺があったとは、少しの驚きでした。

       

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