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東京都台東区 旧岩崎邸と無縁坂

Former Iwasaki residence/ Muenzaka,Taitoku,Tokyo

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台東区池之端1-3-45 旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目) 洋館 重文 近代/住居 明治 明治29(1896)頃 木造、建築面積531.5㎡、二階建、煉瓦造地下室付(撞球室及び大広間との接続部を含む)、玄関部塔屋付、スレート葺洋館北面袖塀1基、洋館北面袖塀1基、煉瓦塀1基、実測図1枚 19611228

台東区池之端1-3-45 旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目) 撞球室 重文 近代/住居 明治 明治29(1896)頃 木造、建築面積138.0㎡、一階建、スレート葺 19611228

台東区池之端1-3-45 旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目) 大広間 重文 近代/住居 明治 明治29(1896)頃 木造、建築面積319.6㎡、桟瓦及び銅板葺、廊下・茶室及び便所附属 19691218


Oct. 21, 2016 松田浩史 source movie
 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

 


Nov.14,2014 中山辰夫

旧岩崎邸庭園

東京都台東区池之端1−3−45 旧岩崎邸宅と庭園は無縁坂の赤レンガの塀沿いを登りきった左手の道を曲がったところにある。

■無縁坂

東大の鉄の門と不忍池を結ぶ無縁坂は本庭園の北側を通っている。

      

■■旧岩崎家邸宅と庭園

邸宅は、岩崎彌太郎の三男で、三菱の三代目当主・久彌が築いた明治期の代表的な大邸宅で1896(明治29)年に建築された。迎賓館であった洋館と居館であった和館が隣接している。中でも、ジョサイア・コンドル設計の洋館は、彼の才能の大集成といわれる。

庭園は、江戸期には越後高田藩榊原氏、および明治初期は舞鶴藩牧野氏の屋敷であった。当時をしのぶ庭の様子は、江戸時代の石碑や和館前の手水鉢や庭石、モッコクの大木にみられる。

岩崎邸宅の往時は、約1万5,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいた。現存するのは、洋館・撞球室・和館大広間の3棟である。

国重要文化財:洋館・撞球室・和館大広間・袖塀、家具調達・什器類等多数

■邸宅の外周

    

■アプローチ

庭芝の外周に森林のように常緑広葉樹が植えられている。

     

■袖塀と三菱重ね三階菱

袖塀は国重要文化財。「三階菱」は岩崎家は甲斐武田氏の末裔と言われるところから、武田菱にならったものという。

三菱の名とスリーダイヤマークは、土佐藩主山内家の家紋・三ツ柏と岩崎家の三階菱を組み合せたものとされる。

    

■■旧岩崎邸邸宅

説明

    

表門から洋館玄関へと続くアプローチは小砂利が敷き詰められている。

■洋館外観

構造:建築面積:160余坪、木造2階建・地下室付き、外壁は下見板張ペンキ塗り仕上げ、屋根は天然スレート葺、玄関部が角ドームの塔屋。

この洋館は明治期の上層階級の邸宅建築を知る上で貴重な遺構である。一階は主に接客に利用する諸室。二階は私的な部屋が設けてある。

様式は17世紀初頭の英国のジャコビアン風のモテイ—フなど複数の様式を折衷しながらも整然としたデザインとされる。

            

■北側外観詳細

ジャコビアン様式の意匠が見える。壁面を飾る木はジャコビアンの意匠。北側正面の玄関の全体的の構成はルネッサンス様式。

左側の中央部の3連窓は他と異なる長さにして変化を見せている。

       

■玄関上部の角ドーム詳細

           

繊細な意匠が施された軒庇や全体的に細部まで意匠が施されている。

バンドをまわしたファサードのるり柱や、イスラム建築の要素が取入れられたタイルが目を惹く。

■庭園に面した南側外観の詳細

          

前方は広大な庭が広がる。ベランダが目立つ。

右手のサンルームは、アメリカのカントリーハウスの影響が見られ、後に増築されたもので、コンドルの設計でない。

■ベランダ

大規模なコロニアル様式の二層である。 コンドルの設計によるタイルが一面に張られている。

    

二階のベランダ。列柱は周辺に刻みを入れ、バンド飾りを付けたジャコビアン様式。頭柱は渦巻模様のイオニア式である。

手摺の唐草模様からはイスラムの雰囲気が漂う。

    

一階の列柱はトスカナ式。バルコニーに敷き詰められたタイルはイギリスからの輸入品。ミント社製。デザインはイスラム模様。

■一階洋館

洋館内での撮影は禁止である。

ジャコビアン様式を随所に配したコンドルのデザイン・意匠が明治の大邸宅を飾っている。

写真はパンフレットより引用

  

■ホール中央の双柱

二本の飾り柱。蔓をまくような線描がジャコビアン様式意匠の特徴。

 

■婦人客室

 

多弁アーチ、シルクに金糸で日本刺繍を施した布張り天井の模様

■暖炉

 

1階と2階の暖炉は、種類の違う大理石が使われタ。デザインも異なる。イスラムの要素が残っている。全館にはスチーム暖房器が配置されている。

■ドアノブとライト

  

菊花をモチーフニシタドアノブ。握りやすい楕円形をしている。ライトは花型の傘を持つタイプと雪胴状のペンダントライト

■大階段

 

ゴジック様式の重みをもつ階段。ジャコビアン様式の装飾が施されており、手摺子はアカンサス風の花模様で飾られている。

地下へ続く部分は螺旋階段となっている。

■二階洋館

   

イスラム風のインテリアに併せた暖炉。色の異なる木材を組み合せた床の木組。

■金唐革紙の壁紙

 

二階客室の壁には、当時の金唐革紙を忠実に復元した華麗な日本独自の金唐革紙が貼られている。コンドル設計の鹿鳴館にも同じものが使われた。

金唐革紙は幻の工芸といわれる。薄いなめし皮に金泥を箔押しで置いて打ち込み、さらに光沢を出すためと保護を兼ねてワニスを塗り、彩色を施す、複雑で高度な技を要するもの。江戸時代に入った舶来品。日本では明治になって和紙を厚く重ねた上に漆を塗り、金箔を押す簡便な方法を編み出した。

■通風孔

  

■■和館

説明

  

和館の設計は岡本春道で、棟梁は念仏喜十の別名を持つ名棟梁の大河喜十郎といわれる。和館は、書院造の大広間を中心とした三部屋のみが現存し、今では貴重な木材がふんだんに使用されている。洋館と和館は廊下でつながる。

■和館の外観 

庭園側からの撮影である。

             

明治以降の庭園には、書院造りの広間前に僅かに明治期の和風庭園の名残が見られる。棗型の縁手水鉢、涸池には石組の井戸が残っている。

■菱紋の装飾など

和館内は撮影禁止である。パンフレト記載分を引用する。

天井板と鴨居、長押は単材

 

舟底天井の廊下

 

菱紋の諸院組子

 

欄間の菱紋、襖引手の菱紋、菱の意匠を用いた柱の釘隠し

   

大広間

 

書院造りのしつらえで、正面の床の間の壁面には橋本雅邦による富士山が書かれている。

■撞球室

説明

   

外観

      

洋館同様のスレート葺、切妻屋根の棟飾り、妻壁(破風部分)のシングル(ウロコ状の板」、額縁のついた上げ下げ窓、などアメリカ木造ゴシックの流れとされる洋風のデザインの建物である。

校倉造り風の壁、基礎部の石垣や外壁の杉の角型の丸太の利用や刻みの入った柱などにスイスの山小屋のイメージが見られる。

細部

            

室内部

       

内部には貴重な金唐革紙の壁紙が張られている。

大理石の暖炉、トラスにもシンプルな装飾が施されている。

撞球室が外部に独立して設けられることは、明治の家族住宅や英国のカントリーハウスでも稀です。来客の施設として使われたと思われる。

洋館とは地下通路で結ばれている。ビリヤードは、1883(明治18)鹿鳴館がコンドルの設計で建てられた。その一階の奥の別棟に撞球室が設けられ、当時の社交に欠かせない遊戯であった。

■庭園

               

1923(大正12)年、関東大震災の際は、地元市民に屋敷が開放された。庭の芝生は5千人程の避難民によって泥のようになったといわれる。岩崎邸には、本邸のみならず馬小屋まで、一時避難を逃れた人が住んでいた。 ≪参考≫

    

参考資料≪パンフレット、旧岩崎邸庭園、元勲・財閥の邸宅≫


June 2014 瀧山幸伸

 


Oct.2012 大野木康夫

2011.9.14撮影 

  

洋館(重要文化財)明治27(1894)年頃の建築

木造、建築面積531.5㎡、二階建、煉瓦造地下室付(撞球室及び大広間との接続部を含む)、玄関部塔屋付、スレート葺

                     

大広間(重要文化財)明治27(1894)年頃の建築

木造、建築面積319.6㎡、桟瓦及び銅板葺、廊下・茶室及び便所附属

         

撞球室(重要文化財)明治27(1894)年頃の建築

木造、建築面積138.0㎡、一階建、スレート葺

            


Aug.2010 川村由幸

                                    


Mar.2010 撮影:杉浦啓之

平成22年3月21日(土)

三菱史アナリスト 成田誠一氏の講演会と旧岩崎邸庭園 source movie

今回の作品は、映像は、岩崎邸の内外を そして音声では、その時行われた講演会の一部の内容を編集してみました。

NHKの「龍馬伝」の放送に合わせて、各地で行われている催しの一つにまたもや参加しました。

いわゆる私も「ミーハー族」と呼ばれてもしかたがありません。

 

今回は、岩崎家サイドからみた龍馬ほか、史実にもとずく弥太郎との関係などが聞けて、おもしろいものでした。

 

今は都立の庭園ですが、この上野の不忍池そばの庭園のほかにも、都内には六義園や清澄庭園も岩崎家のものであったようです。

そしてここも当時よりせまくなっているそうです。

  

この方が今回の講師です。大企業には、その企業の歴史のアナリストがちゃんと存在するのにも関心しました。

 

この日は、天気晴朗なれど風強しといった天候にもかかわらず、入園料を払って、多くの人が庭先に集まり講演会に参加しました。

当初は屋内でやる予定かとおもったのですが・・・実はマイクの風よけがなく、講演会の半分ほどの記録が風音でかき消されてしまったのです。

したがってこの日の記録は私のつたない記憶と講師の著作「岩崎弥太郎物語」などでよみがえらせるしかありません。

 

私ははじめに建物の内部を見学しはじめてたですが、その内講演会がはじまってしまいました。

成田さん後から失礼して一枚スナップ撮影というところです。

 

洋館からつづく日本庭園にも、今日の講演をきくための人々が、席をうめていました。

 

館内には、この時とばかりNHKの「龍馬伝」のポスターもありました。

 

洋館のベランダからの講演は、まるで大統領の演説会のようにも思えました。

 

個人的には、入場券売り場の手前の庭園に入る前の塀の外からのこのショットがお気に入りです。

左にビリヤード場の屋根(山小屋風)と右に西洋館の対照がおもしろと思いました。

 


Apr.2007 柴田由紀江

                                                                     


Feb.2006 撮影:瀧山幸伸  source movie

      

  

   

  

     

エントランス

  

廊下

 

  

サンルーム

    

    

    

    

ポーチタイル

 

     

         

     

  

      

    

      

    

  

和館

   

   

       

May 2003 撮影:瀧山幸伸  source movie

  


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