東京都豊島区 鬼子母神堂
Kishimojindo,Toshimaku,Tokyo
Category
|
Rating 凡例
|
Comment |
![]() |
![]() |
|
![]() |
![]() |
|
![]() |
||
![]() |
||
![]() |
![]() |
|
![]() |
|
|
![]() |
東京都豊島区雑司ヶ谷3-15-20 雑司ヶ谷鬼子母神堂 重要文化財 近世以前/神社 江戸中期 20160725
Oct.18,2025 柚原君子
清土鬼子母神またはお穴鬼子母神
(法妙寺雑司ヶ谷鬼子母神堂)
■威光山法明寺
日蓮宗。飛び地境内に鬼子母神堂。室町時代より鬼子母神が安置されて茶屋などが軒を連ねて門前町として賑わう。周囲に塔頭(観静院・玄静院・蓮光院・真乗院)在り。
■お穴鬼子母神のなりたち(重要文化財)
寺史より
「当山におまつりする鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)5月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。
東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。
現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、広島藩主浅野光晟(みつあきら)に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。
昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われました。平成28年7月には国指定 重要文化財になりました。」
■法明寺御会式(おえしき)大祭(無形民俗文化財)
享和・文化文政の頃から日蓮上人の忌日を中心とした、毎年10月16日から18日に行われている伝統行事。地元の町会、法明寺、御会式連合会等で企画・運営。
御会式は、もともと日蓮聖人の忌日の法会で、法明寺では10月13日に宗祖御会式を行っているそうだが、これとは別に毎年10月16日~18日に鬼子母神御会式を営み、江戸時代から伝わる年中行事としていまも地域全体の人々が待ちわびる大祭である。
池袋という大都会のメイン道路に、車の列の多少の規制はあるものの、普段に近い車両の流れの横を、白い和紙の花を一面に付けた、高さ3~4メートルの万灯を掲げて、団扇太鼓を叩きながら鬼子母神まで練り歩く列は、都会の明るさがあるゆえにより幻想的。万灯には引き綱が付いていて太鼓や掛け声に合わせて四方から揺らすことができるようになっている。一人で担ぐ万灯もあれば屋台に引かれる万灯もある。
先頭は「威光山」の墨書も鮮やかな高張り堤灯の法明寺のお坊様方。万灯は22台。500の桜花を25本の枝に結んだ枝垂れ桜様の万灯。纏、鐘、源太というたたき方の太鼓、子供の纏などもあり、講の人々のそろいの半纏(服装は自由もOKとなっている)、威勢の良い大きな掛け声などで一団がにぎやかに過ぎていく。とてもにぎやかな供養のお練りで、沿道の人々も体をゆすって共鳴している人が多い。
都会のビル群の中の万灯も良いが、法明寺に参内するために千歳橋から住宅街に入ってくるので町のふとした暗がりに浮きでる万灯も味わいがある。軒下では椅子を出して座って万灯を拝むお年寄りも多く、その姿は古の人々の仏心が脈々とあって、日本に生まれてよかったと思った。
June 10,2021 柚原君子
並木ハウスアネックス
所在地:東京都豊島区雑司が谷3-19-5
並木ハウスアネックスは、豊島区鬼子母神堂(本殿が国指定の重要文化財)の参道にあります。参道の欅は江戸時代からあるもので、並木の奥の鬼子母神堂とともに散策の人が少し有るくらいで、池袋駅から徒歩圏とは思えないくらいの静かさを保っています。
その参道に面して横に長い方が並木ハウスアネックス。その建物の右脇の道を入ったところにあるのが並木ハウスです。突き当たりになる並木ハウスはきれいに改築されていて、外側からは現在何処にでもあるようなしかしちょっと古風なアパートの佇まいで、漫画家の手塚治虫氏が椎名町トキワハウスに引っ越す前の昭和29年から3年間住んでいたところでもあります。現在もアパートとして居住者がいらっしゃいますので、内部は撮れません。この並木ハウスは先回の時にも撮りましたので、今回は並木ハウスアネックスの方を。
並木ハウスアネックスは1933(昭和8)年建築。修復は平成20年。
1923(大正12)年の関東大震災後に下町から逃れて東京の郊外であった豊島郡高田村に移ってくる人々のアパートの需要が多くなって建てられた様子です。
その後の1944年の東京大空襲にも一帯は被災を免れたので現在に残されています。2018年登録有形文化財指定を受けています。
雑司ヶ谷案内所もあり、展示会が開かれていることも多いですが、コロナ禍で閉められていて中が見られないのが残念でした。コロナが収束したら再び訪ねてみたいです。
所在地 東京都豊島区雑司ヶ谷3-15-20
雑司ヶ谷鬼子母神堂は,江戸時代を通じて安産などの鬼子母神像信仰により庶民の崇敬を集めた。
鬼子母神堂は,本殿の前面に相の間を介して拝殿を接続する複合建築である。
本殿は寛文4年(1664)に広島藩主浅野光晟の正室,自昌院の寄進により建立され,細部に安芸地方の社寺建築の特徴を示す。
拝殿は元禄13年(1700)の建立で,豊かな装飾をもち,正面一間を吹き放しとするなど近世建築らしい華やかな礼拝空間を創出する。
雑司ヶ谷鬼子母神堂は,建立年代が明らかで,江戸における大名家による寺社造営状況や,拝殿組物を略式に改めるなど幕府による建築規制への対応過程をよく示しており,歴史的価値が高い。
※「鬼」は上の点がない文字。
(国指定文化財等データベースより)
西参道
妙見宮(重要文化財の附指定)付近
鬼子母神堂(重要文化財)
本殿:寛文4(1664)年の建築
拝殿:元禄13(1700)年の建築
本 殿 桁行三間、梁間三間、一重、流造、
相の間 桁行三間、梁間一間、一重、両下造、
拝 殿 桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付
総銅板葺
本殿
拝殿
表参道側
鬼子母神堂は法明寺の飛地境内にある堂。永禄4年(1561年)山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。天正6年(1578年)現在地に草堂が建立されたという。
鬼子母神堂
本尊:鬼子母神
中心となる堂宇。拝殿・相の間・本殿を一体化した権現造の建築である。
拝殿が入母屋造で、本殿が流造となっている変型の権現造となっている。
本殿は小屋束墨書から寛文4年(1664年)、広島藩主浅野光晟の正室・満姫の寄進による建立と判明する。
拝殿と相の間は本殿と同時の建築ではなく、金具の刻銘から元禄13年(1700年)の建立と判明する。
屋根はすべて銅板葺き。拝殿の向拝の梁上には竜の彫物があり、梁の木鼻には象頭および獅子頭を表す。
本殿外見は三間社流造の神社本殿形式とするが、内部は方三間の仏堂形式とする点に特色がある。
本殿内部中央には禅宗様須弥壇の上に入母屋造の宮殿を置く。
本殿細部の様式に安芸地方の社寺建築に共通する要素が認められる。
2016年度に国の重要文化財に指定された。
妙見堂
本尊:妙見菩薩
鬼子母神堂本殿の背面に接して反対向きに祀られている。
社殿は一間社流造。鬼子母神堂の附として重要文化財に指定されている。
けやき通り
鬼子母神
大鳥神社
七福神
雑司ヶ谷墓地
近所ということもあって2年前ぶりに鬼子母神を訪ねましたが、売店にいたおばちゃんはお元気でしたが、名物猫はお亡くなりになり、懐かしかった森永ドライミルクの看板は消えていて、井戸も新しくなっていました。
でも二度目に訪れると新鮮な発見も有り、季節を違えての訪問は有意義なものがあります。
国の重要文化財に指定されたからでしょうか参拝の方が多くなった気がしました。
境内を行き来する地域の方も忙しそう。
会館には当時の国立国会図書館所蔵の『鬼子母神大門欅並木』の写真が北豊島郡高田村大字雑司ヶ谷という昔の地名とともに展示されていました。
本当に大きな欅並木だったようです。
答申の決定がないのでまだ重要文化財は東京都指定のままになっていました。
境内では赤テントが張られて唐十郎さんの演芸の用意がされていました。
All rights reserved 無断転用禁止 通信員募集中