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東京都港区 浅野内匠頭終焉の地
Asano Takuminokami site,Minatoku,Tokyo
 
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Nov.27,2018 柚原君子

浅野内匠頭終焉の地の石標
所在地:新橋4?31付近(日比谷通りに面する)

新橋四丁目の交差点脇に浅野内匠頭終焉の地の石標が立っています。
江戸城で殺傷事件の末に切腹に至った浅野内匠頭ですが、事件後に不浄門である平河門を出て新橋四丁目のこの付近にあった田村右京太夫建顕(たむらうきょうだゆうかちあき)(若年寄で奥州一関三万石城主)邸にお預けとなります。

事件が起きたのは1701(元禄14)年3月14日午前10時頃。切腹を命じられたのが当日の18時頃。田村家の庭先で武士としての死に装束の流儀も尊厳もなく、申し開きの時間も与えられず即刻の切腹であったそうです。
しかも家老の大石内蔵助がその事実を知らされたのは何日も後のことですから、遺恨が残るのも当然の事件であったようです。

映画ですと辞世の句を詠みながらのきれいな切腹場面となります。
辞世の句は『風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん』ですから桜の花がハラハラと散る下で白装束での切腹場面が多いですが、当時の暦は旧暦ですから、今ですと4月20日頃。さすがに桜は散っていたのでは?と思われますが、どうなのでしょうか。事件から切腹までの時間を追うと、辞世の句を残せるほどの余裕はなかった感じもします。それなので後で付け加えた辞世の句という節もあります。

また、新橋の名物には忠臣蔵縁で新正堂の『切腹最中』があります。最中の皮の間からタップリのあんこが覗いています。ネーミングが悪いので売れないのではと思ったそうですが、「切腹するつもりで謝りに来た」というお詫びの印にサラリーマンが買って行くそうです。1日に2000個以上売れるそうです。さすがにサラリーマンの町、新橋ですね。
交差点脇に立つ石の柱。あさのたくみのかみと読める人も少なくなっていた今。虎ノ門ヒルズなど出来て周囲はすっかり様変わりです。


   



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