東京都新宿区 牛込 蜘切坂
Kumokirizaka,Shinjuku,Tokyo

瀧山幸伸


 



「妖怪と霊の自証院の森」


妖怪の坂

 蜘切坂は新宿区富久町7と11の間にあり、富久小学校南側から市ヶ谷富久町の西北部へ上る谷筋にある延長約500mの坂。江戸名所図会に見られる自証院周辺にある坂の一つで、渡辺綱が妖怪の土蜘蛛を退治したことに因む命名との俗説がある。
この坂は禿坂(かむろとは河童のこと)の別名であるとの説が有力だが、禿坂とは別に、蜘蛛の井があったと伝わる成女学園の敷地と富久小学校の敷地との境にある坂、禿坂から富久小学校の北に沿って自証院へ上る坂、以下に記す自証院坂を指すという説もある。
 土蜘蛛にせよ禿にせよ、江戸時代には自証院の境内周辺に鬱蒼とした森が拡がっており、妖怪でも出てきそうな気配を物語る坂名である。筆者としては禿坂と同一説を取る。江戸名所図会に描かれた自証院の境内は広く、深い森が周囲の谷間まで及んでいたことが伺える。この森の西側の常緑広葉樹の巨木が北東に上る禿坂に覆いかぶさるような格好で茂っていたのであろう。夜道は妖怪に怯えるほど怖かったのではなかろうか。成女学園の敷地と富久小学校の敷地との境にある坂や禿坂から富久小学校の北に沿って自証院へ上る坂では、人々の認知度が低く、ランドマーク性に欠ける。自証院坂は自証院の三門から本堂へ向かう南傾斜の境内道である。後述するとおり元来私的な菩提寺であるので人が入り込まず、夜はおそらく閉門していたであろうから、通行者目当てに妖怪が出没する坂としてはふさわしくない。
 新宿区が設置した禿坂の標柱には、「禿坂(かむろざか) 昔、この坂下の自証院の横に小さな池があり、水遊びに来る禿頭(おかっぱを短く切り揃えたような髪形)の童たちの姿が見られたことから、禿坂と呼ばれるようになった。平成十五年三月 新宿区教育委員会」
と記されている。禿をおかっぱの童と同定するのは先入観であり、この地ではやはり妖怪のカッパに由来するのではなかろうか。妖怪の河童は怖い。間引きされた子供の水死体の姿だとか、水神に生贄にされた女性の姿だとか、今日の愛くるしいカッパとは全く違い、鬼と天狗とともに恐れられていた。とにかく蜘切坂に関しては場所も由来も確証は無い。また、江戸名所図会では付近の谷一体は俗に饅頭谷と呼ばれると記されているが、その由来も不明である。
 そもそも土蜘蛛とは何だろうか。源頼光と渡辺綱が妖怪の土蜘蛛を切りつけて退治する『土蜘蛛草紙』 は14世紀に関西を舞台に創作された物語であり、この地との関連は無い。土蜘蛛草紙よりも遥か昔、律令時代の風土記に頻繁に登場する土蜘蛛とは、天皇に従わない土豪を示す名称であった。当時の大和朝廷とは違う文化、例えば縄文時代の竪穴式住居のライフスタイルを継続する人々がこう呼ばれたのではなかろうか。蝦夷と呼ばれていた人々との関連もあるだろう。北海道網走市のモヨロ貝塚には、寒さを凌ぐため半地下式の土室のような住居跡が残っているので、このような居住スタイルであったのかもしれない。埼玉県の吉見百穴は明治時代には土蜘蛛族の住居と言われていたが、現在では横穴式墳墓であることが確認されている。

蜘切坂(禿坂)
 

禿坂から自証院へ上る坂
 

モヨロ貝塚の半地下式住居跡
 


成女学園の東側を北に上る坂が自証院坂である。自証院坂を登り切ると自証院の境内であるが、現在の自証院は江戸名所図会に描かれた広大な境内ではなく、こじんまりとしている。なぜそうなったか、この寺に関係する二人の霊を引き合いに出そう。

自証院坂
 

自証院
     

図:江戸名所図会の自証院
 


お振りの方の霊

 お振りの方の霊が百年以上自証院の森を彷徨っていた。円融寺自証院は三代将軍家光の娘、尾張徳川家に嫁いだ千代姫が、母自証院(お振りの方)の菩提を弔うために創建した由緒ある寺だ。慶安5年(1652)境内に建立されたお振りの方の霊屋(たまや)は、小金井公園内の江戸東京たてもの園に移築されている。都の有形文化財第一号に指定された小規模ながらも鮮やかな彫刻と彩色を持つ美しい建物だが、小金井に落ち着くまでの長い間、お振りの方の霊は彷徨っていた。
 明治になり、廃仏毀釈で寺が衰退し霊屋も荒れ果てていく。設立が特殊なこの寺は檀家に恵まれなかったのだろう。明治18年の台風で唐門が失われ、霊屋の主屋も格安で売却され、明治21年に谷中の頤守院に移築されて位牌堂となってしまった。震災や戦災の難は逃れたものの、戦後西武鉄道に買収され、昭和32年赤坂プリンスホテル内に再び移築された。ところが、ホテル新館の建設計画が持ち上がり、建設予定地にあった霊屋は三度目の解体の憂き目に会い、ばらばらのまま倉庫に長期間閉じ込められることとなってしまった。昭和61年、ようやく都に寄贈されることとなり、平成7年に小金井公園内に復原されてとりあえず霊が安らぐことにはなったのだが、本来の自証院境内に戻れる日が来るのだろうか。


旧自証院霊屋
 

 総じて、文化財としての霊屋はこじんまりとして実に美しい。特に内部の装飾は来世における魂の安住を導くごとく素晴らしいのだが、全国に残る霊屋の数はそれほど多くない。国の重要文化財に指定されているものは、北から、青森県弘前市の革秀寺にある津軽為信霊屋、同じく弘前市の長勝寺津軽家霊屋の五棟、青森県南部町の三光寺にある南部利康霊屋、宮城県松島町の圓通院霊屋、秋田県秋田市の天徳寺にある佐竹家霊屋、長野県長野市松代の長国寺にある真田信之霊屋、同じく西楽寺の真田信重霊屋、京都市東山区の高台寺にある秀吉と北政所の霊屋、和歌山県高野町の金剛峯寺にある徳川家霊台(家康と秀忠)、同じく奥の院にある佐竹義重霊屋、松平秀康及び同母霊屋、上杉謙信霊屋だ。高台寺霊屋はそれなりに観光客も多いが、他は人目につきにくくひっそりと佇んでいる。機会があればぜひ拝観することをお勧めする。
 霊屋ではないが、それに近い霊堂がある。熊本県の人吉盆地、水上村の生善院観音堂である。国の重要文化財に指定されている寺で、通称「猫寺」と呼ばれている。一風変わった寺で、三門の両脇には妖怪猫風の石像が据えられている。寛永2年(1625年)、相良藩第13代相良長毎の創建によるものだが、寺の説明板が怖い。
「天正10年(1582)、相良藩への謀反を企てているという嘘の訴えにより、湯山佐渡守宗昌とその弟で普門寺の盛誉法印が殺されることになった。その話を聞いた宗昌は日向へ逃げたが、寺に残った法印は殺され、寺も焼かれてしまう。無実でありながら我が子を殺された法印の母、玖月善女は愛猫玉垂を連れて市房神社に参籠し、自分の指を噛み切ってその血を神像に塗り付け、玉垂にもなめさせて、末代までも怨霊になって相良藩にたたるように言いふくめ、茂間が崎というところに身を投げて死んでしまう。すると、相良藩では、猫の怨霊が美女や夜叉に化けて藩主の枕許に立つなど、奇奇怪怪なことが次々に起きた。藩では霊をしずめるために普門寺跡に千光山生善院と名付けて寺を建立。現在の本堂も観音堂もその時に立てられたものだ。法印の命日である三月十六日に、藩民に市房神社と生善院に参詣するように命じ、藩主自身もそうしたので、怨霊のたたりは鎮まったと伝えられている」
 ことほどさように霊は怖い。西武鉄道がごたごたし、赤坂プリンスホテル新館も予想外の短命に終わり解体される。お振りの方の霊が関係しているのだろうか。

生善院観音堂
 




小泉八雲の霊

 小泉八雲の霊も自証院の森を彷徨っていた。小泉八雲( 1850-1904)が日本国籍を得る前の名はパトリック・ラフカディオ・ハーン。1850年、ギリシャのレフカダ島でイギリス軍医の父とギリシャ人の母との間に生まれ、2歳からダブリンで育つ。1869年渡米し1889まで記者などの職についていた。1890年短期取材の目的で来日したが、日本の文化に心酔し、松江の英語教師の職を得るとともに小泉節子と結婚する。その後熊本、神戸を経て東京帝国大学の英文学講師となり、新宿区富久町に居を構え、日本に帰化し小泉八雲と改名した。『骨董』『怪談』など妖怪や霊を扱った作品が多い。
 蜘切坂はラフカディオ・ハーンが晩年を過ごした地だ。彼が米国から日本に着いたのは明治23年、40歳の時。横浜に入港する際に船上から見上げる富士の美しさに英国公使オールコックやイザベラバードはじめ多くの外国人が魅了され日本贔屓となったが、ハーンも例外ではなかった。富士山が描く曲線は寺社の屋根や城の石垣と同じサイクロイド曲線だ。世間に言う「美しい坂」も同じサイクロイド曲線で構成されている。
 来日後、松江尋常中学校と島根県尋常師範学校で英語教師の職を得て、当地で小泉節子と結婚する。松江城を見上げる武家屋敷に居を構え、節子から聞いた昔話を通じ、飴を買う幽霊女、ふとんで語る兄弟の幽霊、食人鬼や幽霊滝など、最大の恐怖を感じるものの、家族愛と情感に訴える作品のモチーフを得た。もともと日本的な風土にあこがれていたため、彼にとって松江は神々が住む古都と思われ、屋敷の環境も周囲の環境も申し分なかったのだが、松江の冬の気候と日本家屋の寒さだけが耐えがたかった。筆者も山陰出身であるから、幼少時には祖母からこれらに近い話を聞いていたし、土蔵に入り込んであれこれ引っ張り出して遊んでいる時、保管されている金飾りの棺桶や漆塗りの長持の中に何かが潜んでいるのではないかと震えていた思い出がある。小学校時分に読んだ八雲の怪談や水木しげるの漫画は、まさしく日常の延長だった。


松江の小泉八雲旧居(国史跡)

 

松江の気候に耐えられず翌年転居したのが熊本である。当時の熊本は九州の中心として栄えており、数年前に新設された第五高等学校に英語教師の職を得る。ここでの彼の後任は松山から赴任する夏目漱石である。

熊本の旧居
 

旧第五高等学校本館(国重要文化財)
 



その後神戸を経て明治29年(1896)東京帝国大学の英語教師となるため上京し、現在の富久町7、自証院南隣りに自宅を持つ。小泉八雲と改名し帰化するのもこの時期だ。小泉一雄氏所蔵の当時の写真には、高台に大きく二階建て寄棟瓦葺の八雲の家が聳え、周囲に数本の巨木が見られる。

 

小泉八雲旧居跡(成女学園内)
     

 八雲は毎朝晩自宅の庭のように自証院に散策に出かけていた。『死者の文学』で、「自宅の裏には樹木に隠れて墓地のある寺があり、樹齢数百年の老木に囲まれて静かである」と語っている。
彼は住職と親しくなり、できることならこの寺に住みたいと言っていた。自証院の本堂には瘤(こぶ)が多い材木を使用していたため、瘤寺と呼ばれていた。
「こういう節があったり瘤があったりする木材は貴重なものであって、堅牢で長く保存に耐える」と、住職に教わった事を書いている。
ところが、住職が替わるとともに、彼が愛した境内林は寺の台所事情で伐採されることとなる。彼は強く保存を請願したが聞き入れられなかった。大いに失望した八雲は明治35年(1902)西大久保に転居する。転居の翌年には大学の職を夏目漱石に譲り、さらにその次の年には永眠することとなってしまったのだ。
西大久保の八雲終焉の地は当時は閑静な地だったが、今となっては雑多な土地利用で騒々しい。自証院の本堂も戦災で消失し、瘤寺と呼ばれていた当時の面影は薄い。八雲の葬儀は自証院で行われたが、墓は雑司ヶ谷にある。
この場所に立つと、かつての自証院の古木と八雲の霊がつながっていて、境内に彼の霊が彷徨っているように感じられる。今後数十年数百年かかるかもしれないが、再び彼の霊を包む大木の森が現れることを願っている。

八雲の旧居周辺には、茗荷坂、安保坂などがある。近隣には無名だが個性ある坂が多い。余丁町の永井荷風旧居跡も近い。そこから曙橋への道中に安養寺坂や念仏坂、台町坂があり、その他団子坂、山吹坂などがある。

自証院坂の東、東洋美術学校に上る坂
    

さらにその東にある階段坂
 

永井荷風旧居跡