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東京都日野市 百草園
Mogusaen,Hino city,Tokyo

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Feb.28,2014 松田浩志

                                                                                                                                                                                                                                                          





Feb.2012 松田浩志

『江戸時代、この百草園の場所には松連寺という寺があったが、その建立には百草村の領主であった旗本の小林正利がかかわっていた。松連寺の山号は桝井山で、桝井とはこのあたりの中世からの地名であるが、古代・中世のころ、この地に真慈悲寺という寺院があった。
 真慈悲寺(しんじひじ)については、鎌倉時代の『吾妻鏡』の中にも文治2年(1186)源頼朝が真慈悲寺を再興し、建久3年(192)後白河法皇の法要に真慈悲寺の僧が参列したという記録から寺格が高いことがわかる。さらに百草八幡神社蔵の銅造阿弥陀如来坐像の背面に、「武州多西吉富真慈悲寺」と刻まれて真慈悲寺の存在を確かなものとしている。現在、発掘調査が行われ、新たな事実に期待したい。
松連寺は、旗本小林氏の移封で一時荒廃したが、享保2年(1717年)に岡崎三郎信康(徳川家康の長子)追福のため小田原藩主大久保忠増の側室寿昌院慈岳元長尼の尽力により慧極を中興開山とし、黄檗宗の慈岳山松連寺として再建された。明治維新のときに廃仏毀釈で松連寺は廃寺となったが、明治20年(1887年)に百草村出身の豪商青木角蔵が跡地を買い取り、百草園を開園。その後、京王電鉄の手に渡り現在に至っている。
 現在も百草園の中には松連庵という名の建物があり、山門も百草園駅近くの稲葉家の門になって松連寺を偲ぶよすがとなっている。(日野市古文書等歴史資料整理編集委員会委員 沼謙吉)』
日野市ホームページより転載

百草園に至る坂道の入り口で出迎えてくれる地蔵尊。
      


崖の石組が気になるが、遺構の一部かそれとも新しいものか不明。
  


百草園入り口。
                                                          


本来は梅に囲まれてのコンサート。
今年は、開花は2週間遅れのとのこと。
いまだローバイが主役を務めている。
                      

百草八幡宮
                             



野太刀自顕流


裂帛の気合の籠った声が八幡神社裏手の山頂あたりより聞こえて来た。修験道の修行でも行われているのかと思い神社裏手の山道を行くと、剣道の稽古中。
指導者の方に伺うと薩摩の自顕流の稽古をしているとのこと。
お願いして抜き(居合)の技を写真に撮らせていただく。しかし、
まさに電光石火。横からでなく下からの打ち込をやっと2枚写真に撮るの精一杯でした。
  

修練風景。
この辺りは百草城(発掘調査は未だ行われていない)の中核部分と推定される所。木々の木立に囲まれたこの場所で指導者が示す続け打ちの技をひたすら続ける山中での稽古風景がとても印象的でした。
                                         

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